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古本夜話418 坪井正五郎校閲、八木奘三郎著『日本考古学』と嵩山房

 

 遺跡にてよき物獲んとあせるとき    
            心は石器(せつき)胸は土器土器 
                             坪井正五郎

坪井正五郎の単著はまだ一冊も入手していないが、彼が監修した本だけは持っている。それは坪井正五郎校閲、八木奘三郎著『日本考古学』で、大正三年に嵩山房から刊行されたものである。裸本とはいえ、装丁が鮮やかな一冊ゆえに手元に置き、時々眺めてはその図版を繰ったりしている。坪井と同様に八木もまた集古会の発起人の一人である。

その茶色の表紙には鶯色の勾玉が八個描かれ、背文字は金色、坪井の「序」は赤字で、それぞれ色は鮮明きわまりない。考古学にふさわしく、多くの図版、挿絵が収録され、土器や古墳紋様は大きな折りたたみ図によって紹介され、その存在感と異彩ぶりは目を奪わんばかりに仕上がっている。そこには紛れもなく、新しい学問としての考古学の、力のこもった息吹が感じられる。

『日本考古学辞典』東京堂出版)によれば、八木の『日本考古学』は明治三十一年に先史時代として上巻、三十二年に原始時代として下巻が出され、人種、住居、衣服、風習、食物、器物、船舶、技術、交通、貿易、宗教などを扱い、「日本考古学に関するまとまって充実した最初の概述書としての学史の上に記録さるべきもの」とされている。私の所持する大正三年版はその合本改版で、同十五年にもさらなる改版が出ているようだ。

校閲として名を連ねる坪井は明治十九年に東京帝大動物学科から大学院へ進み、人類学を専攻し、三年間の英国留学を経て、理科大学教授に就任し、二十六年に新設の人類学教室を主宰することになる。その一方で、十九年に人類学会(後の東京人類学会)を創立し、『人類学会報告』(後の『人類学雑誌』)も創刊している。また著者の八木は苦学して人類学教室に入り、坪井たちの薫陶を受け、考古学研究に従事し、関東の貝塚などを発掘調査した。そして明治三十五年に台湾総監府労務課、大正二年に朝鮮李王職博物館に赴任し、その後満鉄に勤め、昭和十一年に東京に戻った。彼も考古学草創期の学者としての功績は大きいとされる。

これは寺田和夫の『日本の人類学』(角川文庫)に紹介されているのだが、寺田は八木が昭和十年の『ドルメン』に書いた「明治考古学史」という一文を引き、人類学会には坪井や八木がそうであるように、「幕府の子弟」が多く集まっていたと記し、その理由として「官界の立身出世と無関係な学問の道」だったからではないだろうかと述べている。これはかなり正鵠を得た意見であろう。
日本の人類学

人類学会から遅れること十年ほどになるが、明治二十八年に集古会の初会合が開かれ、十一月に『集古会誌』(後の『集古』)が創刊される。そこに集った人々は坪井や八木を始めとする人類学会のメンバーと重なり、しかも山中共古に象徴されるように、旧幕臣系が会員の多くを占めていたのである。集古会については発起人総代の八木の言葉を引いておこう。これは寺田の著書に引かれている言である。

 官民の集合で、なかんずく民間人士としては、質屋あり、太物屋あり、役者あり、焼芋屋あり、新聞記者あり、探偵あり、本屋あり、古物屋あり、茶人あり、俳諧師あり、百姓ありという有様で、また老荘、尊卑、貧富等の区別や、態度はみじんもなく、単に趣味によって集い、興に乗じて語るのでありますから、和気あいあいとしてあたかも瑞気(ずいき)の満つるがごとく、その賑やかなることは浅草の仲店に類し、まことに欲界や、利益を忘れる小児遊びのような感がありました。

また『集古会誌』の第一号を見ると、図版や挿絵が『日本考古学』とまったく同じであり、後者に大野雲外史による挿絵と記されていた。そこで『集古会誌』も調べてみると、やはり図画は大野雲外で、彼も集古会の創立会員の一人として名前が挙げられていた。なおずっと書きそびれてきたが、『集古』は臨川書店から全巻が復刻され、その原本を提供したのは本連載85の「日輪閣『秘籍江戸文学選』」の校注者の一人で、集古会会員の宮尾しげをであった。

さてここでその『日本考古学』の版元の嵩山房と人類学会、もしくは集古会の関係も記すべきだろうが、確かな手がかりがつかめない。巻末広告に、同じく八木の『考古精説』、沼田頼輔、大野雲外共著『日本考古図譜』、同じく大野の『先史考古図譜』の掲載があることからすれば、人類学教室に出入りしていた出版社と考えられる。しかし発行兼印刷者の小林慶の名前は集古会の会員の名簿には見つからない。だが人類学関係の書物を出版する目的で岡書院が創業するのは大正十三年のことだから、嵩山房はその先陣のような役割を果たしたのではないだろうか。

管見の限りでは、嵩山房に関するまとまった証言は小川菊松が『出版興亡五十年』(誠文堂新光社)に残しているだけである。
出版興亡五十年

 神田錦町の五十稲荷に近い路地の奥にささやかなシモタ屋風邪住宅に「小林嵩山房」という小さい標札をかかげた書肆があつた。これも江戸時代から続いた出版屋で、(中略)已に創業二百年以上だといわれていた。嵩山房という店名の由来は、荻生徂徠先生が、お前の店は何処の店よりも値段が高いというので、嵩山房と命名し、高の上に更に山の子を乗せ(中略)、昔は頼山陽や、荻生徂徠、伴蒿渓のものなど、直接出版していたとの事である。

この小川の証言からすると、おそらく嵩山房は旧幕臣系の出版社であり、その縁で考古学の出版も手がけるようになったのではないだろうか。しかし関東大震災後には消息がわからなくなったと伝えられている。

なおこれもかなり前に書いたものだが、その後、山口昌男監修「地の自由人叢書」の一冊として、坪井正五郎『うしのよだれ』(国書刊行会)、さらに評伝として川村伸秀の『坪井正五郎』(弘文堂)が出された。                

うしのよだれ 坪井正五郎
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