前回取り上げた一九九七年の関西の美術館、博物館、文学館のコラボレーヨンともいえる『阪神間モダニズム』の企画刊行と展覧会の実現は、多くの美術館や文学館にも大きな影響と波紋をもたらしたように思われる。それは十年余を隔てた二〇一二年になってからだが、世田谷文学館と世田谷美術館の共同企画による『都市から郊外へ―一九三〇年代の東京』の刊行と展覧会の開催にも反映されているはずだ。
『阪神間モダニズム』がA4判であることに対し、『都市から郊外へ―一九三〇年代の東京』はA5判であるけれど、タイトルに示された郊外や三〇年代、図版を配した文学、絵画/彫刻、写真、版画、映画、音楽、住宅、広告といったモダニズムに関するテーマ特集は、モチーフを同じくしていると考えていい。
それは図らずも、東京の郊外住宅地開発が阪急の小林一三の手法を範としていることを物語っているし、「郊外住宅地の理想―田園調布と成城を中心に」(矢野進)に収録されている「東横・目蒲電車沿線案内」と、『阪神間モダニズム』の中の「阪急沿線案内図」が色彩、デザインともに相似していることにも表われている。本連載75で、渋沢栄一の田園都市株式会社と小林と目蒲電鉄の五島慶太の関係を既述しておいたが、田園調布や成城に表象される「郊外住宅の理想」とは、フィッシュマンのいう『ブルジョワ・ユートピア』をベースとする関西の御影・住吉、芦屋などの郊外高級住宅地に端を発していると思われる。
『都市から郊外へ―一九三〇年代の東京』には資料として、田園都市株式会社編『田園都市案内』の抜粋も収録されているので、それを読んでみる。この会社の事業紹介と分譲地案内を兼ねるパンフレットの第一部は次のように始まっている。それはまず英国における田園都市についての定義から始まり、ハワードが唱える商業、工業、住宅、農業という四つの地域からなる田園都市は、労働者の生活改善を目的としているが、「我が田園都市に於ては東京市と云う大工場へ通勤される智識階級の住宅地を眼目」とするので、「勢い生活程度の高い瀟洒な郊外新住宅が建設されて行くことは自然の数である」とされる
それゆえに「我が田園都市」において、ハワードの田園都市に不可欠の工業地域は「東京市という大工場」がその役割を果たすために除外され、その地域に通勤する労働者の姿もなく、「大都会の生活の一部を為すと共に他方に於て文明の利便と田園の風致とを兼備する大都市附属の住宅地」が出現することになる。その目的に添う条件として、次の七項目が挙げられている。
一、 土地高燥にして大気清純なること。 二、 地質良好にして樹木多きこと。 三、 面積は少なくとも拾万坪を有すること。 四、 一時間以内に都会の中心地に到達し得るべき交通機関を有すること。 五、 電信、電話、電灯、瓦斯水道等の設備完整せること。 六、 病院、学校、倶楽部等の設備あること。 七、 消費組合の如き社会的施設をも有すること。
これが田園都市株式会社の提出した「理想的住宅地」であり、前提からしてプロレタリアが排除された「ブルジョワ・ユートピア」と呼んでかまわないだろう。その象徴が田園調布だったことになる。
しかし関西と異なる土地をめぐる状況と環境にもふれておくべきだろう。不動産売買、宅地造成、市街地経営を事業目的とする田園都市株式会社の設立は一九一八年であり、それとパラレルに郊外も取りこんでいく東京の膨張を指摘しておかなければならない。一九年に都市計画法が制定され、二二年に東京都市計画区域が決定される。所謂「大東京地域」の範囲は従来の東京十五区の範囲よりもはるかに広く、隣接する六郡八十四町村を含んでいた。それを『東京百年史』第四巻の「都市の進展」の章から拾ってみると、荏原郡(七町十二村)、豊多摩郡(七町六村)、北豊島郡(十町十村)、南足立郡(一町九村)、南葛飾郡(六町十四村)、北多摩郡(二村)であり、現在の東京二十三区に相当する。これによって住居地域、商業地域、工業地域などが定められ、都市インフラの整備がなされたのだが、二三年の関東大震災とその復興計画によって、それらはさらに進められ、三二年の東京市三十五区の制定に続き、三六年の北多摩郡砧村、千歳村の世田谷区への編入とつながっていった。
この旧都市計画法による東京都市計画区域の設定は戦後に例をとるならば、一九六八年の新都市計画法による市街化区域と市街化調整区域の区分に相当すると考えていい。そして都市計画区域と市街化区域がスプロール開発の原因になったことも含めて。だがこのような都市計画法の動向とともに郊外住宅地の開発は進められていったのであり、それは田園調布が荏原郡、成城が北多摩郡に位置していたことを記せば、了承されるであろう。
幸にして「郊外住宅地の理想―田園調布と成城を中心に」おいて、田園都市開発の前史が語られているので、それを追ってみる。渋沢栄一は日本版田園都市構想を持っていたが、それには畑彌右衛門という、郊外開発と田園都市株式会社設立に至る仕掛け人がいた。畑は自らが住む荏原郡を事業予定地に選定し、それは洗足村、調布村、玉川村にかけての一帯で、現在の洗足、大岡山、奥沢、田園調布であった。一五年に畑は荏原郡各村の有力者たちを伴い、渋沢を訪ねた。その中には玉川村名家の豊田正治がいて、二三年に四十歳の若さで村長となっている。そして同年に村会で土地開発事業が決定され、それを機にして、玉川全円耕地整理事業が始まっていく。
本来の耕地整理事業は農地を整理、改良して農業生産性を上げることにあり、二〇年の東京郊外の農村で多く実施されていたが、郊外住宅地の需要が高まっていく中で、耕地整理の目的が変わり、土地の区画整理を通じた住宅地開発へと転化していったのである。それは戦後の全国各地の耕地整理事業も同様だったことを付記しておこう。
玉川全円耕地整理事業は最大規模のもので、総面積は現在の世田谷区の約四分の一を占めているという。豊田は畑を通じて、最初から田園都市株式会社の郊外住宅地開発に関わっていたこともあり、玉川村独自の開発をめざし、広い幹線道路、公園、村営電車などの敷設や設置を構想した。ところがそれらによる耕地減少と農業の衰退を危惧する声が広く上がり、激しい反対運動も起きていった。そのために計画は修正を余儀なくされ、玉川全円を十七の工区に分割し、各工区ごとに方針を決定し、費用負担をすることになり、それが田園都市株式会社の奥沢、等々力、上野毛などの郊外住宅地開発とリンクしていったのである。豊田は農村の中にあって田園都市を構想した人物だと考えられるが、それは残念ながら実現しなかったことになる。
さてずっと郊外住宅地の前史に農村を見てきた。これは『阪神間モダニズム』には見えていなかったもので、その風景は「東京・版画・三〇年代―稲垣知雄が刻んだ東京(まち)の貌(かたち)」(小池智子)にも表出している。稲垣は一九二九年から世田谷にアトリエを構えた版画家で、日本のみならず、国際的によく知られ、没後に『稲垣知雄全版画集』(形象社、一九八二年)が刊行されているようだが、未見であるし、稲垣の名前もここで初めて知った。またここでは稲垣の関東大震災後の東京の風景の他に、三〇年代郊外風景も収録されている。小池もそれらに言及し、次のように書いている。
稲垣も一九二〇年代末から、《川べり》のような穏やかな郊外風景と、《塔の見える風景》、《雪の東京駅》などの東京市街の景観とを描いている。東京の市街地へと田畑や自然が残る景色双方への眼差しは、世田谷に来た一九三〇年代の郊外風景に対する、《桜田門》でも同様だ。こうした作品のもとになった写真もスケッチブックに描き残されている。そして郊外風景でも、都会でも、稲垣の風景版画には同時代の喧騒や不穏ではなく、普通に人々が暮らす町の空気が流れている。だが、決して無味な絵でなく、商業デザイナーでもあった稲垣のモダンな感覚が表れた画面となっている。(中略)そして風景では、一九三三年の《芝生》のような、東京郊外の芝生の公園が明るく現代的な生活スタイルを連想させる都会的な作品に、それはよく表れている。(引用者注―作品ナンバーは省略)
またこれらの「川べり」「麦秋」「芝生」などは、三〇年代に相次いで開催されたパリやベルリンの日本の版画展に出品されたという。
さらに巻末には三三年の「版画荘『創作版画展観即売目録』(抜粋)」が収録され、そこで稲垣の「冬の夕」「農家」「麦秋」が四円から五円で売られていたことがわかる。小池も述べているように、仲介料も含まれたであろうこれらの価格は安価であり、創作版画で生活することが困難だった当時の版画家たちの置かれた状況をうかがわせている。それと同時に稲垣の版画が想像以上に大きかったことで、「麦秋」は「74×104」となっている。「冬の夕」と「農家」はそれより小さいが、一度見てみたいと思う。それらに世田谷の郊外住宅地以前の風景が刻印されているはずなので。それらの実物とはいわないにしても、『稲垣知雄全版画集』にめぐり会えるであろうか。
なお版画荘は『全輯百間随筆』全六巻などを刊行していた出版社で、そのかたわらで東京銀座に創作版画専門の画廊を開いていた。この版画荘については本ブログ「古本夜話」で稿を改めることになろう。