出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話422 春陽堂『東海道中膝栗毛輪講』

林若樹を始めとする集古会の会員たちが採用した書物討論としての「輪講」がある。この形式は大正六年の『日本及日本人』に連載した『東海道中膝栗毛輪講』から始まり、『集古』『風俗』『彗星』などに引き継がれていった。これららの集大成は戦後になって、青蛙房から、西鶴などを主とする「輪講叢書」全六巻として出版されている。

しかしここでは記念すべき最初の試みである『東海道中膝栗毛輪講』を取り上げてみたい。これは未見だが、大正六年に大阪屋号書店から刊行され、また同十五年から昭和五年にかけて、春陽堂の上中下編が出されている。私が所持しているのは後者であり、四六判の三巻本文だけで千五百ページに及び、他の輪講に比べても最大のヴォリュームゆえか、こちらは復刊なのを見ていない。最大の輪講だけあって、参加者も林若樹の他に山中共古三村竹清三田村鳶魚、木村仙秀、寒川鼠骨などにまじって、ニコライ・ネフスキーフレデリック・スタールも招かれていた。

そして百五十あまりの挿絵の中の間に、スタールの「今日(けふ)はお招きに頂りまして難有(ありがと)うございました。大変面白うございました。」(同氏退席)の言の下に With best wishes Frederick Starr Taisho 6.2.22 なる署名が掲載されている。「お札博士スタール」については山口昌男『内田魯庵山脈』における「精神の系譜(ジエネアロジー)を捏造する―フレデリック・スタール」が要領を得た紹介で、フレデリックの著作は『お札行脚』として国書刊行会から復刻された。

内田魯庵山脈 お札行脚

坪内逍遥はこの下巻に「序文」を寄せ、「わが一九の膝栗毛のやうな、絶対に無主張な、悉く後生楽な、思ひ切つてたわいのない滑稽遍歴譚は、どこの国の文学にもない」し、その昔の大衆文学も今では書名だけは知つている古典となりかけている」と書き、そして続けている。

 按ふに、今日では、膝栗毛とは抑も如何なることを意味するかをすら理解してゐない学生、いや、紳士、学者も、恐らく絶無ではないであらう。併し其人達と雖も、多分、弥次喜多といふ名だけは知り、且つそれが一種の極楽とんぼの異名である事だけは、多少意識してゐるであらう程に、それほど彼らの名は俚諺化されてをり、随つて膝栗毛は立派に古典化されてゐるのである。

すでに大正時代において、近世文学がこのように「古典」になっていたことを教えてくれる。それはこの作品が江戸時代後期の風俗と東海道中の一大パノラマであるにもかかわらず、その戯作=大衆文学と「極楽とんぼ」ゆえに、他の古典と異なり、教科書の中に採用されてこなかったことも原因のように思われる。

これに『東海道中膝栗毛』は、渡辺京二『逝きし世の面影』平凡社ライブラリー)で指摘しているように、「この物語はまず発端が異常である」ことも起因しているのだろう。弥治郎兵衛は親の代より駿府の相応な商人だったが、遊郭にはまり、男色の道に入れこみ、鼻之助という蔭間に身代を傾け、二人して駆け落ちし、江戸に出た。この鼻之助が後の喜多八で、商人のところに奉公する。一方弥次郎は神田八丁堀の長屋でその日暮らしの生活をしていたが、屋敷奉公していた年上の女を嫁にし、十年ばかり過ぎた。そこに女連れの侍が現われ、弥次郎が妹と駿河で密通していたから、早く結婚せよと言ってきたのである。それを聞いて、弥次郎の女房は身を引き、家を出ていく。だがこれは弥次郎が仕組んだ狂言だった。知り合いの隠居が腰元に手を出して孕ませ、金十五両つけるので、引受けてほしいと頼まれ、年増女房にあきたことと十五両ほしさに一芝居打ったのである。

東海道中膝栗毛 逝きし世の面影

そして長屋にその女が訪れ、祝儀を挙げていると、喜多八が訪ねてくる。彼は店の金を十五両使いこみ、その穴埋めに弥次郎の入手した金が必要だったのだ。店の主人が亡くなりそうなので、若後家を手に入れ、百倍にして返すという。しかしこれもまたすべて喜多八の狂言で、女は店の女中であり、喜多八が孕ませ、十五両つけて、弥次郎へと押しつけたことになる。それが弥次郎にばれ、いさかいになっている最中に、女が産気づいて苦しみ、あっという間に死んでしまう。それなのに二人は酒と刺身を買ってこさせ、長屋の連中と大酒盛りになり、葬式どころではない冗談までが飛び出す。そこに知らせにやった女の親が顔を出すが、桶の中を見て、首がない上に胸毛が生えているので、これは娘ではないという。それは仏を桶の中に逆さまに入れたことが原因だったのである。

このようなことで、喜多八も店を追い出され、二人はげん直しのために伊勢参宮を思い立ち、東海道へと出かけるに至る。

渡辺は「この物語のユーモアに不気味なもの、なにか胸を悪くするようなものを感じる」し、それは「西欧近代のヒューマニズムの洗礼を受けたからでもある」が、「われわれは弥次郎兵衛・喜多八のように生きることはできないし、またそう生きたいとも願わないだろう」と述べている。私もまったく同様な感慨を抱くし、『東海道中膝栗毛』の「発端」はまさしく近世の江戸が孕んでいた、人間と人生に対するニヒリズムを表象しているのだろう。

しかし私たちがそのように感じる不気味さやニヒリズムは、『東海道中膝栗毛輪講』の中にはまったく感じられない。言葉や場所、事物や事柄の由来と出典、江戸の風俗などは詳細に言及されているが、ストーリー、物語の構造、登場人物たちのキャラクターにはほとんどふれられず、江戸の名残りを体現している彼らにとって、『東海道中膝栗毛』が孕んでいるそのようなファクターは自明のものであり、言及すべき事象に属していなかったのかもしれない。ましてこの輪講もすでに一世紀前に成立したものだから、ないものねだりということになろうか。それとも『集古』のような蒐集をめぐる共同体がきわめてホモソーシャルな世界を形成していたゆえなのだろうか。

輪講は様々な言葉に関する解釈と言及が多いので、それらを挙げればきりがなく、まったくふれられなかった。だが一箇所だけ、私も注釈を加えたい部分があった。それは「潮来」のことから「湖来節」に話が及び、林若樹が「是が昔の潮来節といひます。例のお千代船の先生、あれを弾かせて聞いたことがありましたが……」と発言しているが、これは大槻文彦がお紫賀に潮来節を弾かせていたという意味で、現在の読者にはまったくわからない部分だと思われる。それゆえに最後に紹介してみた。

[関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら