まだ東京の郊外住宅地の開発が始まっていない明治末期から大正初期にかけて、郊外を舞台や背景とする小説や小品文を書いた作家がいる。それは水野葉舟で、それらの作品は『葉舟小品』(隆文館、一九一〇年)や『郊外』(岡村盛花堂、一九一三年)に収録されている。だがこの二冊は稀覯本ゆえに入手に至っておらず、それらの郊外に関する作品は北川太一他編の水野葉舟小品集『草と人』(文治堂書店)に収録された四編を読んでいるにすぎない。
ちなみに作品名を挙げれば、『葉舟小品』からは「野の声」と「濁流」、『郊外』からは「坂の上にて」と「呼び売り」がとられていて、これらの選択は高村光太郎と葉舟が二人で編んだ選集で、やはりタイトルを同じくする『草と人』(植竹書院)とも共通している。そこに置かれた光太郎の「序」は文治堂書店版にも収録され、二人は与謝野鉄幹主宰の『明星』で知り合い、生涯にわたって無二の親交を続ける間柄であったことを想起させる。それゆえに光太郎研究の第一人者北川が葉舟の息子の水野清、娘の山川澄子とともに、『草と人』の編纂に携わった理由も浮かび上がってくる。
といって葉舟があらためて紹介を要する文学者であることは変わらないし、その北川が「後記」において、水野のプロフィルを簡略に描いているので、それを引いてみる。
葉舟 水野盈太郎(1883〜1947)は明治末年から大正初期にかけて、清新な感覚と真摯な人間観によつて文学界に新風をふきこみ、「生命派」の呼称さえ生んだ作家であつた。
はじめ蝶郎の名で短歌を作り、ついで詩文『あらゝぎ』に小品文の新らしい世界をひらき、以来、詩歌、小説、評論等のさかんな創作活動に従つて、その誠実な自然観照や繊細な女性描写は、文壇に確固たる地位を占めるに至つた。若者達は葉舟の文学に心ひかれ、雑誌は競つてその作品を掲げたのである。
奥州遠野郷を訪ねて、柳田国男の『遠野物語』を手びきし、また亡妻を悼んだ詩集『凝視』によつて、生涯の友高村光太郎にさきがけたのも葉舟であつた。
しかるに、大正十三年、突然三里塚に近い下総駒井野の田園に居を移し、再び東京に戻ることなく、その自然と人事の中に深く自らの世を養い、名利を離れて農耕自適。この地で昭和二十二年、六十五歳の生涯を閉じた。
ここで少しばかり補足しておけば、『遠野物語』の話者たる佐々木喜善を柳田のところに連れていったのは水野であり、水野こそが『遠野物語』成立の触媒だったことになる。
吉本隆明は高村光太郎研究にあって、北川と盟友で、『共同幻想論』において、『遠野物語』を『古事記』と並ぶ主要テキストにすえている。その吉本も「高村光太郎と水野葉舟 その相互代位の関係」(『高村光太郎(増補決定版)』所収、春秋社)において、水野は高村が「相許したただ一人の友人」で、水野が千葉県印旛郡に移住し、農耕と芸術生活の両立を目論んだことに対し、水野の軌跡は「高村光太郎のありうべき影であり、葉舟は、ひょっとしたら高村がやったかもしれないことを、実際にやり、失敗し、そして失敗なりに自足した生涯をおくったといっていい」と評している。
水野葉舟や中村星湖などのマイナーな自然主義作家たちを収録した『明治文学全集』72所収の水野の「年譜」や「月報」に寄せられた尾崎實子「父葉舟の思い出」を参照すると、『葉舟小品』や『郊外』を刊行した時期は、大久保町西大久保や渋谷町中渋谷に住んでいたとわかる。先に挙げた郊外に関連する作品のうちで、「野の声」はそれらの前に住んでいた小石川区関口台町を舞台としている。それは水野の小品文の典型のようにも思われるし、水野のその後の生活と住居の関係をも象徴しているので、それを紹介してみよう。
「私」は結婚したばかりで、塵と埃で汚れ、人間臭さがしみこんだ町から「日光が惜しげもなく全身を照らし」、「土の色の清らかな野広い処」にある家に引越してきた。夫婦の他に二人の友人も同行してきて、掃除をするためだった。井戸や雑草を見ただけでも、「涙が沁み出るやうな自然の懐しさ」が襲ってきて、「ただ一言で、嬉しい!」のだ。
夕刻になり、妻と友人の一人が晩餐のための買物に出かけ、「私」ともう一人の友人「M君」が残される。この「M君」と縁側に腰を掛け、次のような会話を交わす。
「こゝらは、野だね。」
一人が言つた。
「野だね。」
一人が答えた。……二人の顔が薄暗い中に朧に見える。
私は立つて、ラムプをともした。部屋の中が明るく見える。私は振り返つてM君に、
「野中の一つ屋のやうだね。……」
と言つた。心にはこの寂しい、しんとした野広い中に住むのが、心細くも思へるし、味の深いやうにも思はれる。やがて晩餐となるのだが、「そとはしんとして居る。闇の広さが計り難い程だ。そしてこの家もこの野広い郊外の地も包んでしまつて居る」のだ。
そのうちに二人の友人は帰り、「私」は妻と静かに向い合う。闇の中から寂しい野の気配と笹の葉のざわめきが聞こえてくる。
「風が出たね。」
私はふと女にかう言つた。すると女も、
「さうですね。」
と答へた。外の声を一心に聞いて居る。
「………」
「………」
「寂しいわね。」
「寂しい。」
私はじつとその物の響きを聞きながら、これが野の声たると思つた。
小品文「野の声」に表出しているのは、郊外における「自然の懐しさ」とともにある「寂しい」というイメージである。同時代に若山牧水が「幾山河こえさりゆかば寂しさのはてなむ国ぞけふも旅ゆく」と謳っていたが、水野にあっては逆に「寂しさ」を求めて郊外へと移ってきたことになる。
そうして「野の声」の小石川区関口台町から大久保町西大久保へと移って「呼び売り」が書かれ、さらに渋谷の道玄坂上に移り住み、そこで「坂の上にて」が書かれたと思われる。尾崎實子の証言によれば、渋谷時代からトルストイに心酔しはじめ、その晩年の農民生活にあこがれ、自らも田園生活を望んでいたようだ。しかし一九一五年にそれらを収録した『草と人』刊行後、「野の声」で描かれた妻が急逝し、激しい精神的打撃を受け、残された四人の子供たちとの田園生活を促すことになった。その場所は荏原郡平塚村下蛇窪だった。
前回ふれたように、荏原郡を事業計画とする田園調布株式会社の設立は一八年であり、しかもまだ平塚村は開発予定地に組みこまれていなかったので、水野は竹藪が多く、竹の子の産地である美しい農村において、理想的な田園生活を営むことができたようだ。それは長女實子が家事を含めたすべてを引き受けることによって成立していたこともあり、この平塚村での生活は彼女の結婚によって解消されることになった。そればかりでなく二九年に大井町線全線が開通し、蛇窪駅も見えていることからすれば、平塚村にも開発の波が打ち寄せ、理想の田園生活を送ることができなくなっていたとも推測される。
ちなみに實子の結婚相手は詩人の尾崎喜八で、彼は高村光太郎を通じて、水野一家に親近感を持ち、自らも蛇窪の近くの家を借りて住み、彼もまた田園生活の中で新たに詩作に励んでいたのである。
それでも水野の理想的な田園生活を求める志向は失われなかった。彼は千葉県印旛郡の開墾小屋に移り住み、これを藁の穴と名づけた。この小屋は高村光太郎が建てたもので、その横にあった三千坪の畑地を手に入れ、家を建て、開墾地での晴耕雨読生活をおくり、そこで戦後の四七年に亡くなるまで過ごした。この土地は自らも三里塚と呼び、現在は成田市になっていることからすれば、おそらく空港の近くに位置しているはずで、水野はそれを想像することなく、鬼籍に入ったことになる。娘の實子が「父 葉舟の思い出」を「今のような世の中を見ずにすんだことは、或はかえって仕合わせだったかも知れない」と結んでいるのはそのことも含んでいるにちがいない
水野の郊外での住居史をたどってきたが、それらも今一度確認すると、小石川区関口台、大久保町西大久保、渋谷区中渋谷、荏原郡平塚村、千葉県印旛郡であり、関口台、西大久保、中渋谷が明治末期にはまだ郊外であり、それらが開発され、町へと変わっていく流れとパラレルに、水野が住居を移してきたと見なしていいだろう。そしてそれが都下や千葉県にまで及んでいくのは、まさにスプロール的移住と呼ぶこともできよう。
ただそれは水野の「年譜」から察せられるのだが、彼はともかく家族と田園周辺の人々にとって多大の困難と労苦を伴っていたと思われる。そうしたひとつの例を挙げてみる。一九二九年のところに「茨城県牛久町の農家の娘宮本満壽(十九歳)が来て、炊事および農耕を手伝った」とあり、三三年には再婚した「妻二児を伴い上京し、豊島区長崎に別居した。開墾地における農耕の生活に順応し得なかったこと」などが原因とされる。三七年「宮本満壽との間に三重子が生まれた」とある。そして四七年の二月葬儀後、「妻文帰宅す。三月宮本満壽は三重子をつれて家を出た。その後、病を得て実家に帰り、翌二十三年二月死去した。」と記され、水野の「年譜」は終わっている。ここに紛れもなく、水野の「理想的田園生活」に寄り添わざるをえなかった一人の女性の物語が刻印されている。最初の妻が「野の声」で描かれていたように、宮本満壽の存在も晩年の作品の中にとどめられているのだろうか。
残念なことに水野の著作はほとんどが入手困難で、「年譜」も収録されている『明治文学全集』72、及び横山茂雄が編んだ水野葉舟『遠野物語の周辺』(国書刊行会)の二冊しか読むことができない。それらのこともあって、水野は近代文学史や出版史にとっても、かなり重要な人物と見なせるのだが、生活の謎も含めて多くのことが解明されるに至っていない。その一端を「水野葉舟と『心霊問題叢書』」(『古本探究3』所収)として書いているので、よろしければ参照されたい。
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それでも郊外と田園生活に関しては、窪田空穂が『わが文学体験』』(岩波文庫)で証言しているように、国木田独歩の『武蔵野』の影響を受けていると思われる。それを確かめるためにも、続けて『武蔵野』を読んでみよう。