もうひとつ続けて武蔵野を舞台とする作品を取り上げてみよう。それは三浦朱門の『武蔵野インディアン』で、同タイトルの他に「先祖代々」「敗戦」「解剖」の四編からなる連作小説集である。
『武蔵野インディアン』という総タイトルに表象されているように、独歩の『武蔵野』を踏まえ、また「敗戦」の中で、武蔵野の平野と水の湧く谷や丘陵のミニチュアのような庭が描かれ、水の湧く谷が「くぼ」と呼ばれていると述べられている事実からすれば、当然のことながら、大岡昇平の『武蔵野夫人』も念頭におき、それらとは別の武蔵野の物語の提出を意図し、この連作小説が書かれたと見なせよう。
独歩の『武蔵野』が明治中期の渋谷村、大岡の『武蔵野夫人』が小金井駅と国分寺駅の中間の「はけ」というトポスを主にしていたことに対し、『武蔵野インディアン』はより広範な三多摩地区、つまり吉祥寺、小金井、立川、拝島、福生などの中央線沿いの昭和戦前から戦後にかけての物語である。その内実を表題作「武蔵野インディアン」に見てみる。
この連作小説集はすべて元大学教師で、現在は都市に住む売文業の太田久男という男を語り手として進行し、「武蔵野インディアン」も同様である。その前作「先祖代々」を参照すると、関東大震災後に郊外に移ってきた久男たちサラリーマン一家は「新来者、よそ者」だった。その小金井の境は繭と蔬菜の集散地としてできた町で、昭和の初めには本物の肉屋も魚屋も八百屋もなく、また新来者に必需である食料品、パン、書物を商う店もなく、それらが商店街に揃ったのは昭和十年頃になってからだった。それもそのはずで、久男が小学一年の頃、東京の不動産会社が農地を買い、宅地として売り出していたが、一区画も売れず、「草ぼうぼうの原っぱ」になっていたからだ。だがそこで久男は叔父の新二郎に出会った。彼は左翼運動のために旧制高校を退学させられ、久男の父の家に身を寄せてきたのだ。新二郎はルネ・クレールの『自由を我等に』の主題歌を口笛で吹いたり、歌ったりしていた。久男は彼を通じて社会のことや土地の事情を知り、また「土地の原住民の子供たち」とも遊ぶようになる。そして長じて久男は吉祥寺に移り、立川の旧制中学に入り、そこでの同級生たちがこの連作小説集の主たる登場人物であり、様々な戦後の物語の語り手として現われてくる。その典型が「武蔵野インディアン」と見なしてよかろう。
「武蔵野インディアン」は中学の同級生の村野が久男のところにかけてきた電話から始まっている。村野は現役の砂川市長で、新聞で久男が教育学者と対談し、久男の持論である人間には教育ではどうにもならない先天性があり、学校や個人の格差をなくそうとしても無駄だし、不必要だという考えを否定され、何もいえなかったことに対し、同級生たちが「太田久男を教育する会」をやるべきだといっていることを伝えてきたのだ。久男の持論は戦後の定時制高校での英語教師の経験に基づいていた。
それはひとまずおくとして、久男は村野から四谷駅に近い和楽路というすき焼き屋に呼ばれた。久男が出かけていくと、そこには村野の他に味噌・醤油製造業に従事している土方、二年上の神社の息子で、神官の榎本があいた。かつての陽気な少年たちは「俗世に失なう恐れのある物を持つ人間独特の落ちつきと、横柄さを身につけていた」。
どうしてここに集まることになったかという久男の問いに対し、ワラジ屋は二百年前からの知り合いだからだという返事が出される、それを聞いて「地方出身の先祖を持ち、父の代から東京生まれの久男にとって、二百年前というのは、社会の歴史としてはともかく、個人の家の過去としては、無限大に近い、遠い昔だった」と思う。彼らの説明によれば、村野の先祖は武蔵野を開いた豪族の子孫で、当時の武蔵野は尾張徳川の鷹場だったことから、ここを開いた村野は、他の三人の名主とともに管理責任者を務めていた。それで今は自衛隊基地となっている市ヶ谷の尾張家に出頭する時、このワラジ屋に泊まっていたという。
そして東京や武蔵野の「新来者、よそ者」に他ならない久男に、村野はいう。
「お前たちは、ご維新後、都になった東京にやってきた東京白人よ。おれたちは原住民武蔵野インディアンよ」
その言葉に触発され、久男もひとつの風景を思い浮かべてしまう。それは敗戦当時のもので、空襲で焼き払われ、新宿から富士山に至るまで平らな大地が続いていた。それが翌年になると焼け跡にすすきがはえ、秋には白い穂が風にそよいでいた。「夕方電車から、シルエットになった富士山や、遠い山脈まで続いていそうなすすきの穂を見ていると、久男はよく、太古の武蔵野というのはこんなだったのだろうかと思った」。
昔の武蔵野談議には榎本も加わり、神官らしく古代武蔵野が「エデンの園のよう」だった、天皇制とは異なる偽史を語りだす。その次に中学時代に「日野の羽生の娘」を婚約者としていた土方の話になり、久男は濠を構えた武家の館のような欅の屋敷を訪ねたことを思い出した。また駅に女学生だったその娘を見にいったことも。その娘と土方は結婚していた。それは「イイナズケ」だったこともあるが、「武蔵野インディアンは、東京白人とだって結婚しない。ましてや、宇宙人に娘をやるほど落ちぶれちゃいない」からだ。
そうして久男の「君たちインディアンが、どうして東京白人のおれを読んで、すき焼きを食わしてくれるんだ」という質問から、「武蔵野インディアン」と「東京白人」のコントラストが必然的に浮かび上がってくる。日清戦争の前まで、三多摩と呼ばれる東京都下は神奈川県に属し、明治の藩閥政府にたてついた自由党員は新選組の生き残りで、村野や土方もその一族だった。今の中央線にしても、昔は甲武鉄道で、彼らの家が金を出し、八王子、新宿間を開通させたのだが、政府が取り上げ、東京府へと移してしまったのだ。学校の土地も彼らが寄付したのである。
その末裔が市長や不動産業になっている。それが「武蔵野インディアン」の現実であり、「東京白人」の目には「おざなりの近代化をしている途上国の話みたいだ」った。久男はかつてルポルタージュを書くためにフィリピンの少数民族の村にいったことを思い出していた。そこはカトリック教会もある村で、村長の家でご馳走になり、歓迎のダンス・パーティも行なわれた。だがその踊りは伝統衣装で、焚火の廻りをめぐるものだった。ここは最近まで首狩り族の村で、村長たちはそのリーダーであった。古い伝統的な秩序が新秩序に姿を変えて残っている久男は結論づけた。それに重ねて、「東京白人」は「武蔵野インディアン」を見る。
(……)改めて三人の顔を眺めた。三人とも、しかるべき大学を出て、背広を着た教養ある現代日本人である。一人は選挙によって選ばれた市長。一人は株式会社の社長、もう一人は宗教法人である神社の神官である。しかし一皮はげば、彼らは徳川時代からの家業をついだにすぎないだけでなく、どうやら、自分たちの家系が徳川氏の入府以前にさかのぼることを誇っているらしい。
それに加えて、村野の曽祖父は新選組、祖父は自由民権、父は帝国陸軍飛行場設置に反対して刑務所に入り、村野自身も米軍基地拡張に反対し、今は革新系市長だが、「イデオロギー」は「羽織袴や野良着を脱いで着た洋服が背広か作業服かというだけのこと」なのだ。そうした「武蔵野インディアン」にしてみれば、久男の対談相手の「進歩的な教育学者」が許せないのだ。三人が久男を呼んだのは、その教育学者が学校群制度を東京都に献策し、息子たちが自分たちの土地も寄付した出身校に入れなかったことに対する腹立たしさを訴えるためだったのである。
久男の教育対談は村野たちだけでなく、他にも波紋を呼び、ここではふれないが、別のエピソードへと展開されていく。そして「武蔵野インディアン」のクロージングにおいて、村野たち「インディアン」とは「土地に根を生やした者」ではなく、「現実に立脚して生きている者」かもしれず、教育学者や久男たち「白人」は「理想郷を求めて放浪し」、「紙とインクの世界しか知らない者」のことで、「土地の自然に適応して生きているインディアン」からすれば、「悲壮感にあふれて旅を続けていても」、「愚かしく、滑稽な存在なのかもしれない」と思うところで終わっている。
この「インディアン」がリアリストで、「白人」がロマンチストという図式、しかも久男自身が「白人」に属するという設定は、三浦の小説作法から考えても、彼自身の認識が述べられているのだろう。しかしこの単純な図式こそは、郊外における混住社会の根底に潜む安易な物語のひとつということになろう。しかもそれは「白人」から見られた郊外の「インディアン」の物語に他ならないのである。
「武蔵野インディアン」における様々なエピソードも、三浦の私小説手法からすれば、かなりは事実に基づいているはずだし、エリート教育と批判された対談に関連して、三浦は後に文化庁長官、教育課程審議会会長を務め、あからさまなエリート教育を唱え、ジャーナリストの斎藤貴男から『機会不平等』(文春文庫)などで激しく批判されることになる。要するに三浦は常に「白人」の立場にいて、「インディアン」の側に身を置くという想像力が欠如しているし、まして自らが「難民」となることなど考えたこともない人物だと見なせるだろう。
だがそのような久男にとっても、三多摩の風景は忘れられないものであり、最後の「解剖」は次のような一文で終わっているので、それを引いてその「イデオロギー」を相対化させ、閉じることにしよう。
久男は駅に向かって歩きながら、三多摩は彼が幼年時代を送った境をはじめとして、ここ二三十年の間に、来る度に変わっていくと思った。今のうちは、どこに行っても、同級生や、見覚えのある神社や、欅の大木などが残っていて、それを頼りに昔の光景を再現できるのだが、やがては、久男にも覚えのある自然も人もなくなってしまうのではないだろうかいや、そういう久男自身、木下の神社の鳥居より早くこの世から消えることはまず間違いないことなのだ。
今日は、大石を誘って、二宮神社の湧き水の池に行ってもよかった、と久男は思った。それともあの池も、コンクリ―トの蓋がかぶせられ、水は暗渠の中を、人の目も触れずに流れているのだろうか。