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古本夜話433 大村書店と磯部同光社

岡本経一の『私のあとがき帖』の「江戸好み三好一好」の中に、思いがけないふたつの出版社が出てくる。詳細な言及ではないけれど、ここでしか見つからない記述だと考えられるので、ふれておくべきだろう。そのふたつの出版社とは大村書店と磯部同光社である。

私のあとがき帖

岡本の一文は昭和四十年刊の三好一好の『江戸語事典』の「あとがき」だが、それが期せずして、三好の生い立ちと芝居への熱中、膿胸の病のための中学中退と図書館での独学、綺堂門下への参加、戦後における芸道物や捕物小説の執筆といった個人史に加えて、その家族、親戚、商売をも丁寧に描き、三好家の一族史にもなっている。それらを背景にして、大村書店と磯部同光社が登場してくる。
江戸語事典

三好の末の姉のはるは神楽坂小町と呼ばれた美女で、それを射とめたのは新進作家の細田民樹だった。だが細田家は古い家柄で、父は医師でもあり、家柄がちがうと反対され、細田の入営中に、二人の結婚は破れてしまった。その後を引き受け、はると結ばれたのが細田と中学の同級生だった大村郡次郎で、岡本は彼のことを次のように記している。

 大村さんは荷風崇拝で「日和下駄」を携えては次郎(一好の本名―引用者注)を連れ出した。芝居の一幕見にも通った。大村家は広島で質屋を営む素封家だった。大正の末に出版を始めて、デカルトの「方法省察原理」や出隆の「哲学以前」「ゲーテ全集」で大いに当てた。一時は岩波書店と並び称される哲学書出版社であった。

手元にある大正十四年に大村書店から刊行の戸坂潤訳、ヸンデルバント著『意志の自由』の奥付を見ると、確かに発行者は大村郡次郎と表記されている。そして巻末の出版広告には出隆の『哲学以前』などの十四点の哲学、翻訳書が並び、『ゲーテ全集』全十九巻の出版を加えれば、「一時は岩波書店と並び称される哲学書出版社」という言は過分であるにしても、それに近い印象を与えていたのかもしれない。

大村書店の内情は不明だし、ゲーテの翻訳史にも詳らかでないが、日本で初めての『ゲーテ全集』全十九巻の企画出版は、当時のドイツ文学者たちを中心にした一大プロジェクトであったはずで、それを嚆矢として、様々な『ゲーテ全集』が続いたと考えていいだろう。しばらく前までは大村書店の端正な佇まいの『ゲーテ全集』上製判の端本をよく見かけたが、ここ十年ほどは目にしていない。

岡本は三好を通じて、大村や細田の知遇を得て、大村から『ゲーテ全集』の版権を譲り受けて、大東出版社から刊行し、大いに売り、また細田の随筆集も出したと述べている。後者は調べてみると、昭和十六年に出された『井の頭にて思う』であろう。

戦後の二十二年になって、岡本が復員してくると、三好は、講談社からわかれ、『富士』を発行する世界社の萱原宏一と『新読物』の公文社の工藤恒のバックアップを受け、それなりの売れっ子になっていた。そういった戦後の出版シーンの流れの中に、磯部同光社も位置し、岡本もそこに参加することになる。

 同光社の磯部節治は戦前に春陽堂の専務を務めていたが、戦後いち早く、廿一年九月に、大衆物ではおそらく最初に半七捕物帳を出して当てていた。そして戦後の一時期には大衆物出版で覇を唱えた。その磯部さんに頼まれて、『実話と講談』という小判の娯楽雑誌の編集をすることになった私は、一光さんに毎月「清吉捕物帳」を書かせた。そうしなければ彼は積極的に自分から書こうとしないからである。それをまた磯部同光社は次々に本にしてくれた。書きおろしの単行本もあった。

ここで言われている磯部同光社は磯部書房や同光社との表記もあるが、正式には同光社磯部書房で、同光社を磯部が買収した関係、もしくは取次に対する雑誌と書籍の発行所名の使い分けの必央から、ふたつの社名が用いられたのではないだろうか。奥付には同光社磯部書房となっているが、表紙や扉には同光社版と表記された一冊がある。それは昭和二十六年刊行の土師清二の時代小説『黄金騎士』で、B6判上下二段組みの三百六十ページとなっている。

そして巻末広告には「文学名作選」と銘打たれた土師の他に山手樹一郎、長谷川伸、陣出達郎、直木三十五、野村胡堂、三上於兎吉の時代小説と並んで、三好の『清吉捕物帖』『絵草紙の女』『消えた男』の三冊が掲載されている。これらが岡本によって、三好が書かされた「捕物帳」だったことになる。

戦後のこの時代は戦前にも増して所謂「倶楽部雑誌」が全盛を迎え、岡本が挙げている三誌以外にも、『読物と講談』『小説の泉』『小説読物』『ポケット講談』『傑作倶楽部』などが次々に創刊され、主として時代小説を掲載していたのである。ただその全盛期は短く、戦後の復興とともに読者は離れ始め、世界社、公文社、同光社もその実を失っていったと岡本は述べている。

しかしこの戦後の四年間における岡本の『実話と講談』の編集の体験が、青蛙房の企画によく反映されていると、あらためてわかる。講談社の『講談倶楽部』を創刊した岡田貞三郎が語る『大衆文学夜話』、それを引き継ぎ、昭和初期から十八年にわたって編集長を務めた萱原宏一の『私の大衆文壇史』、真鍋元之編の『大衆文学事典』などの出版物こそは、岡本綺堂の著作の影響だけでなく、他ならぬ青蛙房主人の岡本経一の戦前の大東出版社における出版経験と同様に、戦後の貴重な編集体験が生かされ、刊行に至ったのだろう。
私の大衆文壇史 

いずれ三好一光の「捕物帖」を読む機会が訪れるだろうか。


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