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古本夜話434 サイレン社の菊地甚一『罪無罪』と齋田禮門訳『パルムの僧院』

青蛙房岡本経一がサイレン社で新米編集者を務めていたことは既述したが、そのサイレン社の本を三冊持っている。それは三上於菟吉の『青空無限城』、スタンダールの齋田禮門訳『パルムの僧院』、菊地甚一の随筆『罪無罪』である。三上の小説はともかく、昭和十年のスタンダールの『パルムの僧院』と同十年の菊地甚一の『罪無罪』の巻末広告を比べてみると、岡本の証言がよく理解できるように思う。彼によれば、サイレン社の出版物は三上と改造社出身の塩谷晴如の見識と采配で、先鞭をつけた話題の本を多く出したが、それらは儲かるものではなく、三上は手を引き、塩谷は儲けようとして「大衆物」に手を出し、高利貸の金を借り、お定まりのコースをたどったとされている。
『青空無限城』

前者の巻末広告には三上の『随筆わが漂泊』、魯迅の増田渉訳『支那小説史』、石坂洋次郎の処女創作集『金魚』、長谷川時雨の『草魚』を始めとする文芸物が並んでいるが、後者には安田徳太郎『社会診察録』、式場隆三郎『心理解剖室』、高野六郎『医者の黒焼』、武村文祥『人間九ミリ半』などといった「医学随筆」シリーズが並び、菊地の著作も含めて、これが岡本の指摘している「大衆物」だとわかる。おそらく本連載でもふれてきたように、性科学に関する著作がベストセラーになったことから、「医学随筆」もそれなりに売れ行きが見こめる「大衆物」と位置づけられ、このようなシリーズが刊行されたのだろう。しかしそれは岡本がいうように、「やさしそうで最もむずかしいのが、この大衆物」であり、これがさらにサイレン社を窮地に追いやることになったのである。
『随筆わが漂泊』

しかし実際に菊池の『罪無罪』を読んでみると、鮮やかな朱色の箱入でシックな四六判上製本は、その印象を裏切らない内容となっている。彼は犯罪研究者として、鑑定など三十年にわたる経歴を持ち、同書は大正から昭和にかけての犯罪と真摯に向き合ってきた記録であり、それはタイトルとなった冒頭の「罪無罪」にもよく表われている。これは内縁の夫と愛人の三角関係の果てに自殺せんとして、それを止めようとした夫を短刀で刺してしまった二十九歳の女性の事件の鑑定書のほぼ全文で、最も長い五十ページ近くに及んでいる。

そこで菊地は彼女が七歳から子守奉公に出て、それから製糸女工、女中、売春婦を経てきた精神生活によって、ヒステリーその他の神経症を抱えていたと見なし、「本件犯行に際しては感動に因り高度の意識障礙を招来し、自己の好意を弁識し得ざる状態にあった」と鑑定している。この鑑定によって、彼女は予審免訴となり、出所するに至る。菊地の鑑定書はあたかも自然主義のリアルな一編の小説を読むかのような印象を与え、男たちを「世の濁り江の常としても呪われたる彼等」と規定し、彼女の立場から、その事件の起きた昭和十年の社会風俗の一齣を浮かび上がらせている。そういえば、この事件から一年足らずで阿部定事件も起きている。

さらに付け加えれば、同書には「愛書三昧」と題する一章が置かれ、様々な個人文学全集、左翼文献、法哲学書などの読書歴に続いて、三村竹清『江戸地名字集覧』や『佳気春天』(書物展望社)にまで及び、当時の読書社会の一端を覗かせてくれる。そして子供たちに寝る前ずっと童話を読み聞かせてきたことも語り、「私はかうして親子共々毎月幾十となく書物を買つて読むことの出来るやうな幸福は、独り吾れのみではなく万人に分かちたい心切りである」とも添えているが、この言葉は間違いなく、不幸な精神生活ゆえに事件を起こした彼女にも向けられているのだろう。
 『佳気春天
さてスタンダールの『パルムの僧院』のほうに移ると、これは裸本でもあるが、やはり『罪無罪』と同様の判型で、ひときわ厚い七百ページ近くに及び、しかも装丁は三上於菟吉が担当し、当時としても堂々たる小説書であったと思われる。しかも同年に前田堅市訳の岩波文庫版の上巻は出ているにしても、下巻は二年後の刊行であるから、サイレン社版が本邦初訳と考えていいだろう。ただ残念なのは箱を見ていないことで、三上のスタンダールへのイメージの投影が不明なことが悔まれる。

しかし菊地甚一と同様に、この訳者の齋田禮門も詳細が不明なのである。ただ手がかりは巻頭の「訳者の言葉」と大仏次郎が寄せている序文「訳者のこと」に残されている。まず齋田の言葉を引こう。

 今から考へるともう小十年にもなるが、当時私が滞留してゐたフランスでは、スタンダールが盛んと研究され、年と倶に其の熱度が多まるやうであつた。それで帰国すると直ぐ私はあれの傑作で未だ紹介されてゐない「パルムの僧院」の翻訳にかかつたが、何分にも大部のものなので途中で幾度も挫折しかかつた。然し其今度に旧友大仏次郎君の激励をうけてやつと訳了したわけで、拙訳が完成したのは全く同君のお蔭である。又出版に際しても親切な序文を書いて下さつたことは全く感謝にたへない。訳稿は其のまま数年間篋底に放棄してあつたが、今回サイレン社の好意に依つて出版されることになつた。

また大仏の序文によれば、齋田は一高生の仲間で、専門はフランス法だった。そして大学を出てフランスに文字通り五年間遊学し、田舎を歩いたり、近隣の国を回ったりしてパリでもほとんど日本人と一緒にならない生活を送っていたようだ。大仏は彼が現在「官庁」に勤めていると書いているが、「ピツクの労働法のやうな二千頁にあまる浩瀚な本を独力で堂々と訳し出す」とあるからには、外務省ではなく、法務省のようなところではないだろうか。なお『労働法』は昭和八年に協調会から出されている

なお大仏は、彼が大学時代にメリメの『コロンバ』を太宰施門教授と共訳で出していると証言しているが、これは大正十一年に白水社から出された『コロンバ』であろう。また古書目録で、同じくサイレン社のモンテスキューの『ペルシア人の手紙』を見かけたことがあった。だが外れてしまい入手できなかった。

ペルシア人の手紙(『ペルシア人の手紙』、改造社版)

最後になってしまったが、サイレン社の奥付発行者は塩谷晴如となっている。

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