前回、前々回と近藤富枝の『馬込文学地図』や萩原朔太郎の写真集『のすたるぢや』、谷崎潤一郎の『痴人の愛』を題材とし、続けて荏原郡馬込村や大森町の生活や風景などを見てきた。それらは大正半ばから昭和初期にかけてのもので、田園都市会社(これまで田園都市株式会社としてきたが、ここでは『東京急行電鉄50年史』の表記に従っている)による郊外住宅地開発とパラレルであったと考えていい。
これまでも本連載77などで田園都市株式会社に関して断片的にふれてきたが、ここでそのアウトラインを少しばかり俯瞰しておきたい。なぜならば、関東地方における郊外土地開発は田園都市会社を範とし、戦後まで引き継がれていったと見なせるからである。ただ管見の限り、この会社についてのまとまった第一次資料や研究は見当たらないので、主として『東京急行電鉄50年史』を参照し、その誕生と軌跡をたどってみる。
[f:id:OdaMitsuo:20141121085646j:image](『東京急行電鉄50年史』) [f:id:OdaMitsuo:20140918203512j:image:h110](『青淵百話』、大空社復刻)
一九一五年渋沢栄一は七六歳になっていたが、サンフランシスコで開催されるパナマ運河開通記念万国博覧会視察と日米親善を兼ね、渡米している。この訪米によって、渋沢はかねてから力説していた田園都市の必要性をさらに実感したとされる。一五年の渡米記録は読み得ていないけれど、その前の一二年の訪米は『青淵百話』(同文館、一九一〇年)所収の「米国漫遊の九十日間」として語られ、本連載61でふれたデトロイトも訪れ、その自動車製造の盛大なるを見て、日本に必要なのは鉄道と連絡し、交通をまっとうすべき道路と自動車の設備だと述懐している。
また同じく本連載61で既述しておいたように、デトロイトはハワードの田園都市計画の影響を受け、自動車工業都市=Motor City として成長するかたわらで、郊外の田園都市化も進んでいたはずだ。ハワードの最初のロンドン郊外の田園都市レッチワースの開発が始まったのは一九〇三年であるから、アメリカでの田園都市計画もまた活発化していたと考えていいだろう。おそらく渋沢も二回にわたる訪米によって、日本での田園都市の実現をあらためて意図したにちがいない。
そのことを示すように、渋沢は『青淵回顧録』(青淵回顧録刊行会、一九二七年)の中で述べている。
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人間は、到底自然なしには生活できるものではない。人間と自然との交渉が希薄になればなるほどこれを望む声が生まれてくるのは当然のことである。近年、東京、大阪などの大都市生活者の中で郊外生活を営む人の多くなったのも、一面では経済上の理由もあるだろうが、主として、都会の生活にたえきれなくなって自然に親しむ欲求からであることはまちがいない。(中略)
そこで20年ばかり前から、英米では「田園都市」というものが発達してきている。この田園都市というのは簡単にいえば自然を多分にとり入れた都会のことであって、農村と都会とを折衷したような田園趣味の豊かな街をいうのである。
私は、東京が非常な勢いで膨張していくのを見るにつけても、わが国にも田園都市のようなものを造って、都市生活の欠陥を幾分でも補うようにしたいものだと考えていた。
この説明から、渋沢がハワードの『明日の田園都市』や内務省地方局有志編纂『田園都市』に影響を受け、また実際に英米で田園都市を目撃、視察したことによって、その日本での実現もめざし、田園都市会社が設立されるに至ったとわかる。これは『東京急行電鉄50年史』に述べられているが、東京における草創期の不動産会社としては東京建物、東京信託などがあり、後者は関東における郊外開発の先駆者で、一九一二年に荏原郡駒沢村から玉川村にかけての一帯に23万平方メートルの新町分譲地を造成し、翌年に分譲している。
もちろん同時期に関西において、箕面有馬電気軌道の小林一三が沿線住宅地開発と建設分譲を開始していたが、これは鉄道を支える事業として発想されたものだった。ところが田園都市会社は東京信託の系譜を引き継ぐ手法で、まず先に荏原郡洗足村、玉川村にかけての138万平方メートルを事業対象地とし、42万坪の田園都市建設を果たし、それを追いかけるかたちで池上電気鉄道と武蔵電気鉄道とを予定地の一部に貫通させるという計画であった。その近傍にある北多摩郡十歳村にしても、交通機関が不備だった。つまり田園都市会社の手法は、箕面電鉄の沿線住宅地開発と異なり、田園都市建設がメインで、鉄道はサブだったともいえる。
当時の荏原郡は現在の区画からいえば、世田谷、大田、目黒、品川にあたるが、19ヵ町村からなり、その中に馬込村も大森町も含まれているので、馬込文士村の形成も『痴人の愛』の物語の成立にしても、田園都市会社の創業、及び人口と住宅の増加とクロスしていたことになる。ちなみに現在の四区の荏原郡人口は、一九二〇年の26万人から二四年には46万人と、わずか数年で倍近い伸びを示している。
田園都市会社は一八年に設立されると同時に事業用地の買収に着手したが、洗足地区は地価の騰貴が激しく、当初の1坪当たり2円30銭は困難になり、玉川村や調布村の買収に力を注ぐことになった。その結果、計画面積は132万平方メートル、買収所要資金は141万円に達したという。その買収地価の例を挙げれば、現在の田園調布駅付近から玉川園前駅にかけての一帯を占める調布村は3.3平方メートル当たり平均5円33銭、最高で8円、最低で2円50銭であった。一九年時点で、日本橋付近の地価は3000円という高値だったから、田園都市計画地のロケーションとそれ以前の都市郊外のポジション、及び不動産価値の低さが浮かび上がってくるし、まさに農地=「田園」でしかなかった。しかしそこに買収や開発を通じて「都市」が付されることで、地価も沸騰していったとわかる。本連載77で、田園都市会社の事業紹介と分譲地案内のコンセプトを示し、そこにはハワードの田園都市に見られる工業地域とそこに通う労働者が排除されていることを指摘しておいた。ここに日本の田園都市計画のパラダイムチェンジとしての「理想的住宅地」、すなわち「ブルジョワ・ユートピア」が提出され、それは実際に田園調布や成城を造型していったのである。
渋沢栄一の代わりに田園都市会社の支配人となった息子の渋沢秀雄は入社早々に欧米視察を行ない、諸外国の田園都市を視察し、写真や平面図などの資料を集め、田園調布に関してはパリの凱旋門のエトワール形式を採用に、緑地、公園、道路を広くとり、それまで5%以下だったそれらに18%の面積を当てることにした。そうして駅や駅前広場を中心に同心円状、放射線状の道路が形成され、それはハワードの『明日の田園都市』のパラダイムを踏襲している。それはともかく田園都市計画に賛同した地主たちが各地区にいて、彼らの奔走によって買収も可能になったようだ。それらの一人として、これも本連載77でふれた畑弥右衛門の名前も挙げられている。そして土地の買収とパラレルに、住宅地造成のための地主と農民と田園都市会社が共同で行なう区画整理事業として、各区の耕地整理組合が設立され、農村から住宅地としての田園都市への移行のベースが築かれていった。
かくして二二年六月から第一回の土地の分譲が洗足地区のうちの18万平方メートルから始まり、その八割がたちまち予約済みとなる好評を得た。その「土地分譲案内」の「事業経営地」と「設計の概要」を引いてみる。
「田園都市」付近には、洗足池、九品仏、池上木門寺、御嶽神社、等々力ノ滝、浅間神社、矢口ノ渡、鵜ノ木の桜等歴史的の名所旧蹟が各所に散在して居ります。
斯の広潤な総面積48万坪の土地に凡て住宅建設に適する施工を為し、必要の個所に土留、石垣等を築くはもちろん、中央に幅7間に亘る幹線道路を敷き、これに四通八達せる数十条の4間道路を配します。そして幹線には、銀杏、篠懸の木等の街路樹を並植して、天然の風致に人工を加えて田園閑雅の美を彩りなす。
そして二三年八月から第二回の多摩川台地内10万平方メートルの分譲が開始されたが、九月に関東大震災が発生し、荏原郡でも現在の品川区や大田区にあたる東海道沿いの沖積層地域の被害が大きかった。しかし世田谷区は丘陵地帯だったために軽微ですんだ。実際に洗足を中心として田園都市に建てられた40軒余の住宅には何の被害もなかった。これは田園都市に象徴される郊外住宅地が地震にも強い安住の地であることを示していた。そこで翌日の売出し新聞広告は次のようなものになった。「今回の激震は、田園都市の安全地帯たることを証明しました。都会の中心から田園都市へ!(中略)すべての基本である安住の地を定めるのは今です」と。その宣伝コピーの影響もあってか、「事務所は東京に、住宅は郊外に」という言葉が流行したと伝えられている。このような関東大震災の影響を受け、多摩川台分譲も好評で、わずか三ヵ月で五割以上の分譲契約が成立した。
さてその一方で、田園都市会社が事業対象地に鉄道を敷設するにあたって、内部にその経験者が不在だったために、筆頭株主の第一生命の社長矢野恒太を通じ、すでに鉄道と沿線住宅地開発で成功を収めていた小林一三にそれを依頼した。小林はその要請を引き受けたが、大阪在住のために自分の意志を代行し、この事業を完遂できる人物として五島慶太を推挙し、その経営に当たらせることにした。五島は鉄道院出身で、当時は武蔵野電気鉄道の常務に就任していた。そのような経緯で五島は田園都市会社の鉄道部門を手がけることになったわけだが、その部門の分離独立を推進し、一九二二年に目黒蒲田電鉄を創立し、武蔵野電気鉄道と協力し、目蒲線と大井町線の敷設や経営に携わっていく。田園都市会社にとっての処女電車は、目黒と丸子を9駅で結ぶ目黒線であった。そして二三年に目蒲線が全通し、二七年に大井町線も開通し、田園都市会社の目的のひとつでもあった交通インフラの完備は、目黒蒲田電鉄によって一応の達成を見たのである。
田園都市会社の土地分譲はすでに買収総面積の七割近い100万平方メートル以上に及び、着々とその成果を上げ、回収された資金は目黒蒲田電鉄、東京横浜電鉄(旧武蔵野鉄道)に投資され、資本金の八割が両電鉄の株式に変わっていた。そこで田園都市会社は目蒲電鉄の母体としての役割を完全に果たし終え、残りの分譲地にしても目蒲電鉄が継承したほうが沿線開発に資するところ大であるとして両社が合併し、田園都市会社は解散し、目蒲電鉄が存続会社となったのであり、それは一九二八年、すなわち昭和3年のことだった。
したがって田園都市会社の設立は一八年だったので、関東大震災をはさんで十年間という短い操業ではあったけれど、関東における郊外土地開発の範を示し、それは目蒲鉄道ばかりでなく、戦後の東急による全国的なニュータウンなどのデベロッパー事業へと引き継がれていったのである。『東京急行電鉄50年史』の巻頭に置かれた「新しいあしたをつく」と題された多くの開発シーンとニュータウンを収めたカラー写真群は、その事実を如実に物語っているといえよう。