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古本夜話438 長谷川時雨と橘千陰『万葉集略解』

岩橋邦枝の『評伝長谷川時雨』において、明治十二年生まれの時雨が六歳で秋山源泉学校に入学し、それが秋山校長の自宅を学校とする代用小学校で、十三歳まで寺子屋教育を受けたことが述べられている。明治十年代にはまだ公立学校が普及しておらず、代用小学校が過渡期の初等教育の場であり、そこで時雨は草双紙などの読書に熱中するようになるが、秋山の死によって学校も止め、嫁入り前の下町娘の裁縫、芸事といったしつけを受け始めた。

評伝長谷川時雨

しかし時雨の父が弁護士だったことから、長谷川家には書生がいて、それが一高に進み、時雨たちの「大先生」になった。彼は後の明治大学総長鵜沢総明である。彼を通じて時雨は日本の古典や西洋の新しい文学を吸収し、佐佐木信綱の竹柏園に通うようになった。そこでは『万葉集』や『源氏物語』の講義があり、歌会や文章会が開かれ、時雨は本を持っていないので、佐佐木の蔵書まで読んだ。まだ下町娘にとって公然と本を読むことが許される時代ではなかったし、彼女の母にしてみれば、女の学問は結婚の妨げで、本を買うことは父との共犯行為であった。そのようなエピソードのひとつを、岩橋は描いている。

 父は、彼女が本代に困っているのを察すると、目くばせして外に出て枝折戸のところに立って待ちうけ、だまって一円札を握らせた。力を得た彼女は、次には、ぜひとも欲しい書物の題名をしるした紙片を父の机の上にそっと置いておいた。何日とは待たせずに、外から戻った父が「俥の蹴込みを探してごらん」と囁いた。時雨のねがった書物―大阪の積善館発行の「万葉集略解」が人力車の蹴込みから出てきた。彼女は、その後いろいろな良い万葉研究が出てからも、この積善館本を一生の間さいせつに使い続けた。

このエピソードの出典が何であるかわからない。長谷川仁、紅野敏郎『長谷川時雨―人と生涯』(ドメス出版)には記されていないので、時雨の著作には書かれておらず、岩橋がそれら以外のところから見つけたエピソードのように思われる。それゆえに事実誤認も含まれているのではないだろうか。

実はこの『万葉集略解』を持っている。このような一文を書くとはまったく予測もせずに、大部な明治半ばの秩入り和本なのに、わずかな古書価で売られていたので、十年以上前に購入したものである。著者は江戸時代の歌人国学者の橘(加藤)千陰で、『日本古典文学大辞典』岩波書店)を引いてみると、『万葉集略解』は寛政八年から文化九年にかけて全二十巻三十冊を刊行したとある。また同書に賀茂真淵の『万葉集考』を継承する『万葉集』全歌についての本文を挙げ、左に訓を加え、注釈を付し、近代にまでわたる『万葉集』普及に寄与したとされている。そして最後に「翻刻」として、明治四十二年から刊行を始めた、本連載105 の鶴田久作の「国民文庫」版などが挙げられている。しかしこれらは明治末期からの出版であるので、時雨の父が彼女にプレゼントとしたものではない。
日本古典文学大辞典

私の所持している『万葉集略解』について、説明を施しておこう。これは菊判和本の七巻本で、そのうちの六巻が本文で、最後の一巻は同書の「総目録」で、「題言」から天保十四年に南陔なる人物が編んだとわかる。そして第一編から第三編が上帙、第四編から「総目録」が下帙として、それぞれ帙に収まっている。おそらく原本をそのまま復刻し、六巻本としたもので、大著といっていいだろう。いずれも背に「東京修学堂発兌」と記されている。

奥付は第六編だけにあり、明治三十二年九月発行、同三十六年八月第四版と表記され、発行者辻本末吉、「発売所」は神田区表神保町の辻本修学堂となっている。その横に「専売所」として、東京の岡崎屋書店、積善館本店などが並び、裏ページには十店の「大売捌所」として、東京、大阪、京都に混じって、福岡と広島の積善館支店が掲載されている。これらの表記からわかるのは、この『万葉集略解』が「発売所」の辻本修学堂と、「専売所」の岡崎書店と積善館の共同出版で、その他の積善館支店を含む東京、大阪、京都などの「大売捌所」は取次にあたることである。

発売所の修学堂は不明だが、積善館に関しては『出版人物事典』では明治十七年に大阪心斎橋で、石田忠平衛、山田安貞、花井卯助によって創業され、日記出版を主とし、中学、高校教科書にも進出とあった。また湯川松次郎の『上方の出版と文化』(上方出版文化会、昭和三十五年)を見てみると、明治四十年代には大阪出版業界の雄で、国文学、数学、物理教科書の有力な出版社だったとの記述があり、それらの出版物として、『万葉集略解』も挙げられていた。この記述から判断すれば、その時代には積善館版『万葉集略解』も刊行されていたことになる。
出版人物事典

これらの出版史の事実からすると、岩橋邦枝の『評伝長谷川時雨』における『万葉集略解』についての記述を、どのように考えるべきなのだろうか。岩橋がこのエピソードをどこから引いてきたのかがわからないのだが、そちらもうろ覚えの記録である可能性が高い。まず『万葉集略解』の初版は明治三十二年刊行だから、時雨はすでに政略結婚で嫁し、夫との不仲のために読書だけが慰めだったこともあり、その頃『万葉集略解』が出版されたので、父が彼女に送ったのではないだろうか。父がそれを東京で購入していること、また時代から考えて、積善館版はまだ出ていないと考えられることから、それは間違いなくこの修学堂版であったはずだ。

もうひとつ考えられるのは、関東大震災もあり、時雨が何度か『万葉集略解』を買い求めたのではないかという推測で、それが積善館版だったとの推測も成り立つ。むしろ関東大震災後であれば、そちらのほうが入手がたやすかったことは明らかである。そして時雨の蔵書にある積善館版が、父から送られたものだと周辺の者が錯覚し、そのような証言から、岩橋は先述のエピソードを引き出し、描いたのではないだろうか。

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