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古本夜話440 城夏子、「母もの」少女小説、ポプラ社

長谷川時雨が創刊した『女人芸術』の最初の編集スタッフは素川絹子、生田花世、城しずか、堀江かど江だった。尾形明子の『女人芸術の世界』(ドメス出版)に、堀江を除く四人の編集室での写真が掲載されている。『女人芸術』でデビューした林芙美子、大田洋子、大谷藤子、矢田津世子などと同様に、彼女たちも様々な雑誌をめぐる物語に巻きこまれていくのだが、ここでは城しずか=夏子のことを語ってみよう。

女人芸術の世界

城については尾形の先の著書などに紹介され、明治三十五年和歌山県生まれで、すでに『薔薇の小道』(宝文館、大正十三年)の著者である抒情的な作家ということに加え、以前に短編「類衛門氏来訪」(女流文学者会編『現代の女流文学』第八巻所収、毎日新聞社)を読んでいるだけで、それ以外のことは何も知らなかった。念のために『日本近代文学大事典』を引いてみたが、彼女については立項されていなかった。

現代の女流文学

「あんまり長い間恋をしていなかったので、とうとう、ウェストとおなかに贅肉がつき始めたと、魚津魚子は嘆いた」と始まる「類衛門氏来訪」は、城夏子が六十代後半になって描いた老人抒情文学といった雰囲気に包まれ、主人公の魚子は夫を病気で失い、六十代の老女として設定されている。魚子は作家であり、時代やジャーナリズムが要求するものは書けないが、それでも彼女なりの少数の読者がいて、「若い娘たちの随想とか物語とか、詩の鑑賞とかの本は少しずつ版を重ねている」との言葉が散見され、それが魚子、すなわち城夏子が『女人芸術』以後、たどってきた軌跡であったように思われる。

それらの城の著作が何であったのかを確かめるつもりもなかったけれども、偶然に入った小さな古本屋の棚に、彼女の作品を見つけてしまったのである。それはポプラ社から出された『母燈台』で、昭和二十六年初版、三十一年七版とあり、「少しずつ版を重ねている」とわかる。疲れが目立つ裸本であることがよく読まれてきた半世紀に及ぶ歴史を物語っているかのように見えた。古書価はわずか二百円だった。

興味深いのはその巻末広告で、城の『母の悲曲』『母星子星』、北村寿夫の『母の潮』『母の小夜曲』、芹沢光治良の『母の哀歌』、大谷藤子の『母の調べ』、池田宣政の『母をたずねて』、船山馨の『母の小径』、大木惇夫の『真珠の母』、北条誠の『母よぶ瞳』といった所謂「母もの」を始めとする「少女小説名作選」三十六冊がラインナップされ、戦後の昭和二十年代から三十年代にかけてが「母もの」少女小説の全盛だったことを教えてくれる。ポプラ社の全出版目録が編まれていないので、全貌は不明だが、他の児童書出版社の様々な「母もの」を合わせれば、それだけで一分野を形成していたと推測できる。

夏の『母燈台』もまたそのような戦後の「母もの」のバリエーションの典型と思われるが、おかしいことにヒロインの名前は何と小田光子で、私と一字ちがいなのである。これではまるで私によって言及されることを予期していたようなヒロインの命名ではないか。そのストーリーを紹介してみよう。時代背景は昭和二十五年頃で、ヒロインの光子は十五歳の女学生である。父はピアニストだが、ソ連に抑留され、いまだに帰国しておらず、母と暮らしている。光子の名前は父がシューマン夫人のクララからとったのだ。光子と母の住む東京郊外の家は祖父から贈られたもので、広くてピアノも置かれていた。母は生活のために編み物や会社勤めをする一方で、住宅難もあり、家に出版社勤務の女流詩人や新人ピアニストを下宿させる。光子はジョルジュ・サンドに似た女流詩人からフランスの詩を教えられ、新進ピアニストからピアノを習い、母の懸命な働きによって成長していく。生活のために家を手離さざるを得なくなるが、父から元気でいるし、もう少ししたら帰国できるという手紙が届く。光子は十六歳の誕生日を迎えた。ラストシーンは光子たちが日比谷公会堂交響楽団の演奏会に招かれ、彼女が新進ピアニストに花束を捧げるところで、閉じられている。

敗戦後における父の不在、それに耐えて健気に働く母、その母の愛情に包まれて成長していく娘、その物語をくるむ詩や小説や音楽の強い色彩といった、当時の文法に忠実な「母もの」少女小説の典型を、城夏子の『母燈台』は示しているのだろう。彼女も「はじめに」で、次のように書いている。

 長いあいだ、戦いに出たままかえらぬ父を待ちつつ、あなたのおかあさまはあなたのために、どんなに雄々しく、やさしく、生活とたたかっていらつしやるでしようか。
 その、かがやくばがりに愛にみちた、母のすがたを、わたしは書いてみたかつたのです。

このような「母もの」少女小説の昭和三十年代以後の行方を確かめていない。しかしそれが貸本マンガの世界に引き継がれたことは、自分の貸本屋体験からもわかる。これまでで最もまとまった「近代日本の母像」を論じた『子守唄はなぜ哀しいか』講談社、昭和五十一年)を著わした石子順造は、昭和三十五年前後にピークを迎えていた貸本マンガにおける「母もの」のブームを挙げ、「笑いのないマンガである劇画をひそかに育てながら、貧しく、けれどあくまでもやさしくてあたたかい〈おふくろ〉を、飽きることなく描きつづけていた。とくに、少女マンガがそうであった」と指摘している。
子守唄はなぜ哀しいか(柏書房版)

ここには戦後から高度成長期へという変化はあるにしても、「母もの」少女小説から「母もの」貸本マンガへ移行の一端が語られているといえるだろう。高度成長期を終え、消費社会へと転換する過程で、近代日本的な「母もの」の物語が解体されようとしていたことをいち早く気づいたのは江藤淳だったと思われる。それゆえに江藤は「“母”の崩壊」のサブタイトルを付した『成熟と喪失』講談社文芸文庫)を書くに至ったのである。
成熟と喪失
なおこの一文を書いてから、尾形明子の『女人芸術の人びと』(ドメス出版)を読み、そこに老人ホームでのインタビューを主とした城夏子の一章があることを知った。

女人芸術の人びと

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