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古本夜話442『奇書』、北野博美、『性之研究』

最近になって、昭和三年に文芸資料研究会が刊行し、発禁となった雑誌『奇書』の第一巻を入手し、その執筆者の一人に北野博美を見出したので、この人物のことも記しておきたい。なぜならば、北野こそは前回言及した広瀬千香の夫であったからだ。

『奇書』における北野の寄稿は、「女人秘事」と題された「婦人のオナニーに関するもの」について、エリスの『性の心理』『千夜一夜物語』『今昔物語』などから例証を挙げ、論じた七ページばかりのものであるが、ほとんどオリジナリティは感じられず、論考というよりも、例証を並べたにすぎない印象を受ける。ただ北野らしき記述をうかがわせるのは、「あの夫人」=「美しい奥さん」が語った、日本の男たちの妻の性に関しての無知と教育の欠如から始めていることだろう。しかし北野にとって、彼女はすでに失われた人で、「僕は、此の美しく聰明だつた夫人からどれほど多くのものを得てゐるかわからない。彼女を失つたことは、何といつても僕には大きな損失である」という一節が挿入されている。「此の美しく聰明だつた夫人」こそが広瀬千香だったのではないだろうか。

性の心理(『性の心理』、未知谷版) 千夜一夜物語 今昔物語

前回挙げておいた山口昌男の「広瀬千香の見た『星座』」(『内田魯庵山脈』所収)にも北野への言及があり、それは本連載でも何度かふれた斎藤昌三の『三十六人の好色家』(有光書房)によっているので、ここでもそれを参照してみる。斎藤は北野をまず雑誌『性之研究』の刊行者として記し、創刊はこの種の雑誌としては先駆的な大正八年だったと述べている。『発禁本2 地下本の世界』(「別冊太陽」)に『性之研究』の三冊の書影があり、北野千香編刊、北野博美主幹とのクレジットが入り、冊数は不明だが、大正十年まで続いたようだ。そのうちの一冊の表紙には「性的行事としての盆踊の研究」と銘打たれていることから判断すると、この雑誌は性科学というよりも、性と民俗学のドッキングを目論んで創刊されたように思われる。寄稿者として三田村鳶魚の名前も見えているから、実物を読んでいないが、あながち間違っていないだろう。

内田魯庵山脈 発禁本Ⅱ 地下本の世界

さて北野博美について、斎藤は次のように紹介している。

 彼は明治二十六年、福井市乾上町に生れ、福井の中学と終えて上京した。上京してからの経歴は判らないが、市井の噂では新劇の役者に加わつて、旅から旅の興行に従つたともいう。その興行中に結ばれたロマンスが、甲府で知られたH家の令嬢だつたとの説である。兎に角大正五年に結婚して目白の邸宅に収まり、そこで三人の子供を儲け、前記の雑誌の創刊ともなつた(中略)。
 正直に見て、彼は一家を持続していくだけの、生活能力がなかつた。「性之研究」にしても彼の力には少し重荷過ぎていた。従つて内容が、性の問題から兎角民俗の方に流れがちであり、彼の力はそれらを研究するには余り貧弱であるところに、彼の非常な悩みと煩悶のあつたことが察せられるし、それを家人に強いてかくそうとした結果が、彼を神経衰弱に陥れたのだ。

そのような事情で、大正末年に離婚し、民謡や盆踊りの研究のかたわらで、本連載43 の澤田順次郎や羽太鋭治の代作などをしているうちに、結核にかかり、清瀬病院に入り、長い闘病生活の果ての昭和二十五年に五十八歳で亡くなったという。あるいはまた同二十三年、五十六歳没とも伝えられている。広瀬千香が自宅での『末摘花』輪講のことを『思い出雑多帖』の中で書いていたが、そこには北野も参加していたことになる。しかし広瀬は同書で多くの人々の「思ひ出」を語っているにもかかわらず、北野のことには一言もふれていない。最初に紹介したように、北野は広瀬らしき「あの夫人」=「美しい奥さん」を追憶しているのに、広瀬にしてみれば、北野は「思い出」の中に残したくない存在になってしまったのだろうか。それでも広瀬は大正時代の記述で、雑誌も家もうまくいかなくなっているという感慨をわずか一度だけもらしている。これが彼女なりの北野と『性之研究』に対するレクイエムであるのかもしれない。

広瀬千香は北野との離婚を経て、前回既述したように、ホモソーシャルな集古会、書物展望社、永井荷風を取り巻く人脈の中にあって、華を添える唯一のヒロインのような存在として、青燈社による出版活動を進めていったのである。それらの人脈の始まりは、山口昌男によれば、斎藤昌三が柳田国男のところに出入りし、性神の研究をしていたことがきっかけで、『性之研究』を出していた広瀬と北野の二人と知り合ったようだが、前述したように、広瀬が証言を残していないこともあり、詳細はわからない。北野のその後だが、これも山口によれば、折口信夫に接近し、『民俗芸術』に寄稿し、折口の講演筆記なども担当していたとされる。

『奇書』の巻末広告に「変態文献叢書」の一冊として、北野の『変態信仰史』の刊行が予告されている。しかしこれは未刊に終わってしまった。北野には私家版の『性と宗教』もあるようだが、この一冊が出されていれば、彼ももう少しくっきりとした姿を、近代性的文献出版史に残していったと思われ、未刊に終わったことが悔まれる。

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