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混住社会論89 岩瀬成子『額の中の街』(理論社、一九八四年)


前回の島田謹介の写真集『武蔵野』において、雑木林に象徴される武蔵野の過去の風景の代わりに、戦後になって米軍基地とその諸々の施設が出現した事実が語られていた。

それは武蔵野だけではない。青森の三沢、山口の岩国、長崎の佐世保、沖縄の嘉手納などにも米軍基地が置かれている。前世紀のデータになってしまうけれど、梅林宏道の『情報公開法でとらえた在日米軍』(高文研、一九九二年)によれば、在日米軍基地は140に及び、北は北海道の稚内、南は沖縄や小笠原諸島硫黄島まで広がり、その基地面積合計は大阪市名古屋市よりもはるかに広く、東京23区の半分を占めている。在日米軍の現役軍人は4万5千人、これとは別に基地で働くアメリカ人軍属、及び軍人、軍属の家族は5万5千人で、合計10万人となる。さらに日本を母港とする海軍の艦船乗組員1万人も実際には在日米軍基地に居住している軍人であり、これも加えれば、11万人が在日米軍の実数と考えられよう。11万人の人口と見なせば、ひとつの地方都市に匹敵するものになる。敗戦と占領を起源とし、それに続く講和条約日米安保条約によって、日本の中に継続的にアメリカの基地が散種されたのであり、その現実は今世紀に入ってもまったく変わっておらず、半世紀以上の長きにわたって、日本社会を呪縛してきた。米軍基地との混住は何をもたらしたのか。
情報公開法でとらえた在日米軍

本連載でもそれらを山田詠美『ベッドタイムアイズ』の他に、宇能鴻一郎『肉の壁』や豊川善次の「サーチライト」に見てきたが、ここでは岩国基地を背景とする児童文学を取り上げてみよう。それは岩瀬成子『額(がく)の中の街』』である。児童文学と呼んだのはこの作品が「理論社の大長編」シリーズの一冊として刊行されていること、岩瀬が『日本児童文学大事典』(大日本図書)に立項され、やはり同シリーズの『朝はだんだん見えてくる』日本児童文学者協会新人賞を受賞し、他にも児童書を出していることによっている。
ベッドタイムアイズ   朝はだんだん見えてくる

『額の中の街』は児童文学というよりも、近年の分類からすれば、ヤングアダルトと見なすほうがふさわしく、それに合わせるかのように、主人公の尚子は十四歳の中学生と設定されている。この作品の舞台は「基地の街××市」とあるが、これが岩瀬の故郷にして、執筆当時も暮らしていた岩国がモデルだと考えていいだろう。

岩瀬の『額の中の街』に言及しようと思ったのは、この「額」が米軍基地を意味し、これが基地の街での混住を描いた作品に他ならないからだった。またそれが少女の眼差しを通じたもので、そこでの彼女のアイデンティティの揺曳こそがこの作品を貫くテーマであるからだ。尚子の母はこの街で働き、「ヘイタイ」の父と出会い、結婚し、尚子を産み、アメリカへと渡った。そしてアメリカで弟のティムを出産し、しばらくして尚子を連れ、この街へと戻り、十五年間どこにもいかなかったような顔をしてスナックで働いている。

十一歳になった弟のティムからスージィに英語の手紙が届く。尚子はアメリカでスージィと呼ばれ、この弟と暮らしていたのだ。しかしそれは遠い昔のことのようだったが、弟の写真を見て、背後に映るアパートとそこでの生活とが思い出された。尚子と母は九年前に日本に帰ってきた。日本に向かう飛行機の中で、母はひどく酔っ払い、尚子に酒臭い息を吐きかけていったのだ。

 いい、忘れてしまえばいいのよ。アメリカのことなんか。わかった? 忘れちゃいなさい。これから、おまえは日本人になるんだからね。母は日本語がわからない尚子に英語で囁きかけた。ただ日本人という語だけは「ニホンジン」と日本語を使った。「ニホンジン」は不思議な響きをもっていた。尚子は、母の言うとおり、「ニホンジン」ばかりが住んでいる「二ホン」にこれから行くのだから、わたしも「ニホンジン」になってみたいと考えた。それはこの窓の外のやみのむこうにあるはずの、小さな捩じれた幼虫のような恰好をした国で、そこに住む人たちの仲間入りをしてみたい、という小さなかわいらしいあこがれだった。

このようにして尚子は日本、しかも基地のある街へと戻ってきたのである。それから九年後の物語がこの『額の中の街』ということになる。母は若い「ヘイタイ」を恋人扱いするが、それはいつも数ヵ月後に破綻し、「ヘイタイたちはただ通りすぎてゆくだけの人間」でしかなかった。彼女にとってはアメリカの生活も置いてきたティムのことも、「過ぎ去ったことは、そこで凍りついてしまったことなんだから、いまさらあれこれ考えてみたってどうすることもできない」のだ。

尚子の顔に白人種の痕跡は見当たらなかったけれど、それは骨太で肉付きがよい体つきに表われ、背はクラスで一番高かった。クラスには父親を白人のアメリカ人とするもう一人の女生徒の幸がいて、彼女は尚子と異なり、見るからに白人種の特徴を引き継ぎ、栗色の髪と薄桃色の白い肌で、美しい容貌を備えていた。ところが彼女の父親はアメリカに一人で帰り、行方知れずになっていたこともあり、幸は英語を話せなかった。ただ彼女の特技は「アメリカ人の振りをすること」で、高校を卒業したら東京へいき、ファッションモデルかテレビタレントになるつもりだと公言していた。彼女のような顔をした女の子がいっぱいテレビに出ているし、自分も売れるはずだと思うからだった。

尚子の母は「ヘイタイ」相手の外人スナックの仕事にうんざりしているが、「新しい生活」「もっと別の健康的で明るい生活」を始めることができず、相変わらず「ヘイタイ」たちが「通り過ぎてゆくだけ」の生活を送っていた。その一人がジョージで、彼は母と尚子を基地のレストランへ連れていったりしたが、その後家に住みついてしまった。彼はアメリカでの少年期にトラウマを抱え、日本へとやってきたようなのだ。

日曜日の朝、尚子は外に出て、表通りを歩いてみた。七月の太陽の下で道路は吐瀉物が飛び散り、ポリバケツがひっくり返り、残飯をぶちまけ、無惨な姿をさらしていたが、若いアメリカ人の男女は汚れた街の姿など気にもせずに歩いていた。「彼らにとって、この地は外国なのだから。外国の街がどんなに不潔だろうと、(中略)気にしない。眉をしかめて、嫌悪すればすむことだ。この街に繋っているわけではないのだから。自分たちの国に繋り、自分たちの国から伸びた命綱に繋っているのだから」。だが尚子はちがうし、見慣れた「この街から伸び出ているひげ根のような手が、知らないうちに尚子を抱きしめはじめている」ことに気づいた。それはアメリカ人と異なり、「この街に繋っている」ことを意味していた。

裏通りで尚子はヨシコを見かけた。ヨシコは髪を伸び放題にし、色褪せた花柄のワンピースも着て、この辺りを歩き回り、夜になると物陰に立ち、「ヘイタイ」を手招きした。彼らは新たにきた者ですら、ヨシコのことを知っていたし、彼女を冷やかし、写真に撮り、ある者はヨシコの客にもなった。尚子にとってヨシコ「不潔でもっとも穢らわしい女」ったが、そのヨシコから彼女は「汚物を投げられたように」、「売女(ばいた)」と二度も、しかも英語で呼ばれたのだ。

家に帰ると、母とジョージが言い争いを始め、それを無視してテレビを見ていた尚子に母はいう。

 「おまえは、わたしが産んだ子なのよ。(中略)海軍病院でね。アメリカ人の軍医や看護婦に助けられて、おまえは生まれたのよ。……おまえが、いくらそんな、軽蔑するような目でわたしを見ても、わたしは平気よ。わたしはわたしのやり方で生きているのだし、おまえだってちゃんと立派に育てているんだから……」

思わず様々な戦後の日米関係のメタファーを読みとりたくなるが、それは慎み、尚子の居場所の複雑なねじれの表出を見るべきだろう。尚子は日本人の母とアメリカ人の父との間に、基地の海軍病院で生まれた。これが彼女の「額」をも意味していよう。そしてアメリカに渡ったが、「二ホン人の国で、ニホン人みたいな振りをして暮らしてみ」るつもりで、基地の街へと戻ってきた。だが数年通ったアメリカンスクールのほとんどの級友たちの外貌が幸と同じだったことに対し、尚子は日本人と変わらず、外部の人間からはいつも日本人扱いされた。だが日本の小学校に転入すると、それは何の役にも立たず、日本語が満足に話せない気の毒な生徒として、同情や憐れみを受けるだけで、尚子の自尊心は傷つくばかりだった。だから「ニホン人みたいな振り」を愉しむ余裕を失い、「日本人になりたい」と本気で思うようになったが、鞄の底に入れてある外国人登録証だけがアメリカ人であることを語り続けてもいた。

基地の街は日本であるようで日本ではないし、アメリカであるようでアメリカではない。つまり日本人にもアメリカ人にもなりえない尚子こそは、その基地の位相を体現する象徴的な存在として描かれていることになる。その一方で、ジョージはアメリカへの望郷と軍隊嫌悪から精神に異常を起こし始める。また母が山陰の谷間の村の出身であることを知ると、彼女が本連載5 の大江健三郎の『飼育』の村の系列に属し、ジョージは小島信夫の『抱擁家族』の同名の兵士の末裔のようにも見えてくる。そして尚子とは谷崎潤一郎の『痴人の愛』において、ジョージに君臨するナオミになれなかった存在を意味しているようにも思える。ナオミは外国人を思わせる混血児のようだったのに、尚子は混血児であったにもかかわらず、容貌はまったく日本人だったのだ。そのような錯綜したメカニズムによって、『額の中の街』は成立しているのではないだろうか。

死者の奢り・飼育 抱擁家族 [f:id:OdaMitsuo:20140905225456j:image:h112]
その基地の街の錯綜した日本の男女のメカニズムを象徴しているのがヨシコの存在だ。引き裂かれて狂気へと追いやられ、他ならぬジョージによって殺害されてしまうのだ。新聞に「気狂いヨシコ」の本名が掲載され、「殺されて突然ひとりの日本人に戻った」のである。

尚子はジョージがヨシコを殺したことを知り、夜の街へと出ていく。「この街で母は何年も働いてきた。夜毎、名もないヘイタイの誰かに出会い、気が向けば冗談半分に家へ誘った。ジョージもロバートも、父でさえ事故のように母と会ったのだろう」。母と同じように、彼女も若い「ヘイタイ」に誘われ、安ホテルの一室にいた。ヨシコが尚子を「売女」と呼んだのは、そのような尚子の行方を透視していたからなのだろうか。

しかし物語のクロージングにおいて、兵士たちが「非常呼集」がかかり、MPが街を回り、兵士の群れは基地へと吸いこまれていった。アメリカと軍隊の支配が基地の街を覆い始めたのだ。『額の中の街』は「見慣れたはずの街が、急にどこか見知らぬ街のようにみえてきた」と閉じられている。

いきなり街は「非常呼集」という米軍基地の命令と介入によって包囲され、基地の街の現実をむき出しにしたのである。そういえば、山田詠美の『ベッドタイムアイズ』もそのような基地の介入によって物語の終焉を見たことを想起してしまうのである。

◆過去の「混住社会論」の記事
「混住社会論」88  上林暁『武蔵野』(現代教養文庫、一九六二年)島田謹介『武蔵野』(暮しの手帖社、一九五六年)
「混住社会論」87  徳富蘆花『自然と人生』(民友社、一九〇〇年)と『みみずのたはこと』(新橋堂、一九〇七年)
「混住社会論」86  佐藤春夫『田園の憂鬱』(新潮社、一九一九年)と『都会の憂鬱』(同前、一九二三年)
「混住社会論」85  『東京急行電鉄50年史』(同社史編纂委員会、一九七二年) 『萩原朔太郎写真作品 のすたるぢや』(新潮社、一九九四年)
「混住社会論」84  『萩原朔太郎写真作品 のすたるぢや』(新潮社、一九九四年)
「混住社会論」83  谷崎潤一郎『痴人の愛』(改造社、一九二五年)
「混住社会論」82  三浦朱門『武蔵野インディアン』(河出書房新社、一九八二年)
「混住社会論」81  大岡昇平『武蔵野夫人』(講談社、一九五〇年)
「混住社会論」80  国木田独歩『武蔵野』(民友社、一九〇一年)
「混住社会論」79  水野葉舟『草と人』(植竹書院、一九一四年、文治堂書店、一九七四年)
「混住社会論」78  小田内通敏『帝都と近郊』(大倉研究所、一九一八年、有峰書店、一九七四年) 『都市から郊外へ―一九三〇年代の東京』(世田谷文学館、二〇一二年)
「混住社会論」77  『都市から郊外へ―一九三〇年代の東京』(世田谷文学館、二〇一二年)
「混住社会論」76  『宝塚市史』(一九七五年)と『阪神間モダニズム』(淡交社、一九九七年)
「混住社会論」75  小林一三『逸翁自叙伝』(産業経済新聞社、一九五三年)と片木篤・藤谷陽悦・角野幸博編『近代日本の郊外住宅地』(鹿島出版会、二〇〇〇年)
「混住社会論」74  柳田国男『明治大正史世相篇』(朝日新聞社、一九三一年)と山口廣編『郊外住宅地の系譜』(鹿島出版会、一九八七年)
「混住社会論」73  柳田国男『都市と農村』(朝日新聞社、一九二九年)
「混住社会論」72  内務省地方局有志『田園都市と日本人』(博文館一九〇七年、講談社一九八〇年)
「混住社会論」71  ローラン・カンテ『パリ20区、僕たちのクラス』(ミッドシップ、二〇〇八年)とフランソワ・ベゴドー『教室へ』(早川書房、二〇〇八年)
「混住社会論」70  マブルーク・ラシュディ『郊外少年マリク』(集英社、二〇一二年)
「混住社会論」69  『フランス暴動 階級社会の行方』(『現代思想』二〇〇六年二月臨時増刊、青土社)
「混住社会論」68  ディディエ・デナンクス『記憶のための殺人』(草思社、一九九五年)
「混住社会論」67  パトリック・モディアノ『1941年。パリの尋ね人』(作品社、一九九八年)
「混住社会論」66  ジャン・ヴォートラン『グルーム』(文春文庫、二〇〇二年)
「混住社会論」65  セリーヌ『夜の果ての旅』(原書一九三二年、中央公論社、一九六四年)
「混住社会論」64  ロベール・ドアノー『パリ郊外』(原書一九四九年、リブロポート、一九九二年)
「混住社会論」63  堀江敏幸『郊外へ』(白水社、一九九五年)
「混住社会論」62  林瑞枝『フランスの異邦人』(中公新書、一九八四年)とマチュー・カソヴィッツ『憎しみ』(コロンビア、一九九五年)
「混住社会論」61  カーティス・ハンソン『8Mile』(ユニバーサル、二〇〇二年)と「デトロイトから見える日本の未来」(『WEDGE』、二〇一三年一二月号)
「混住社会論」60  G・K・チェスタトン『木曜の男』(原書一九〇八年、東京創元社一九六〇年)
「混住社会論」59  エベネザー・ハワード『明日の田園都市』(原書一九〇二年、鹿島出版会一九六八年)
「混住社会論」58  『日本ショッピングセンターハンドブック』と『イオンスタディ』(いずれも商業界、二〇〇八、〇九年)
「混住社会論」57  ビクター・グルーエン『ショッピングセンター計画』『都市の生と死』(いずれも商業界、一九六九、七一年)
「混住社会論」56  嶽本野ばら『下妻物語』(小学館、二〇〇二年)
「混住社会論」55  佐伯一麦『鉄塔家族』(日本経済新聞社、二〇〇四年)
「混住社会論」54  長嶋有『猛スピードで母は』(文藝春秋、二〇〇二年)
「混住社会論」53  角田光代『空中庭園』(文藝春秋、二〇〇二年)
「混住社会論」52  宮沢章夫『不在』(文藝春秋、二〇〇五年)
「混住社会論」51  吉本由美『コンビニエンス・ストア』(新潮社、一九九一年)と池永陽『コンビニ・ララバイ』(集英社、二〇〇二年)
「混住社会論」50  渡辺玄英『海の上のコンビニ』(思潮社、二〇〇〇年)
「混住社会論」49  いがらしみきお『Sink』(竹書房、二〇〇二年)
「混住社会論」48  佐瀬稔『金属バット殺人事件』(草思社、一九八四年)と藤原新也『東京漂流』(情報センター出版局、一九八三年)
「混住社会論」47  山本直樹『ありがとう』(小学館、一九九五年)
「混住社会論」46  重松清『定年ゴジラ』(講談社、一九九八年)
「混住社会論」45  ジョン・ファウルズ『コレクター』(白水社、一九六六年)
「混住社会論」44  花村萬月『鬱』(双葉社、一九九七年)
「混住社会論」43  鈴木光司『リング』(角川書店、一九九一年)
「混住社会論」42  筒井康隆『美藝公』(文藝春秋、一九八一年)
「混住社会論」41  エド・サンダース『ファミリー』(草思社、一九七四年)
「混住社会論」40  フィリップ・K・ディック『市に虎声あらん』(平凡社、二〇一三年)
「混住社会論」39  都築響一『ROADSIDE JAPAN 珍日本紀行』(アスペクト、一九九七年)
「混住社会論」38  小林のりお と ビル・オウエンズ
「混住社会論」37  リースマンの加藤秀俊 改訂訳『孤独な群衆』(みすず書房、二〇一三年)
「混住社会論」36  大場正明『サバービアの憂鬱』(東京書籍、一九九三年)
「混住社会論」35  ジョージ・A・ロメロ『ゾンビ』(C-Cヴィクター、一九七八年)
「混住社会論」34  エドワード・ホッパーとエリック・フィッシュル
「混住社会論」33  デイヴィッド・リンチ『ブルーベルベット』(松竹、一九八六年)
「混住社会論」32  黒沢清『地獄の警備員』(JVD、一九九二年)
「混住社会論」31  青山真治『ユリイカ EUREKA』(JWORKS、角川書店、二〇〇〇年)
「混住社会論」30  三池崇史『新宿黒社会 チャイナ・マフィア戦争』(大映、一九九五年)
「混住社会論」29  篠田節子『ゴサインタン・神の座』(双葉社、一九九六年)
「混住社会論」28  馳星周『不夜城』(角川書店、一九九六年)
「混住社会論」27  大沢在昌『毒猿』(光文社カッパノベルス、一九九一年)
「混住社会論」26  内山安雄『ナンミン・ロード』(講談社、一九八九年)
「混住社会論」25  笹倉明『東京難民事件』(三省堂、一九八三年)と『遠い国からの殺人者』(文藝春秋、八九年)
「混住社会論」24  船戸与一「東京難民戦争・前史」(徳間書店、一九八五年)
「混住社会論」23  佐々木譲『真夜中の遠い彼方』(大和書房、一九八四年)
「混住社会論」22  浦沢直樹『MONSTER』(小学館、一九九五年)
「混住社会論」21  深作欣二『やくざの墓場・くちなしの花』(東映、一九七六年)
「混住社会論」20  後藤明生『書かれない報告』(河出書房新社、一九七一年)
「混住社会論」19  黒井千次『群棲』(講談社、一九八四年)
「混住社会論」18  スティーヴン・キング『デッド・ゾーン』(新潮文庫、一九八七年)
「混住社会論」17  岡崎京子『リバーズ・エッジ』(宝島社、一九九四年)
「混住社会論」16  菊地史彦『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、二〇一三年)
「混住社会論」15  大友克洋『童夢』(双葉社、一九八三年))
「混住社会論」14  宇能鴻一郎『肉の壁』(光文社、一九六八年)と豊川善次「サーチライト」(一九五六年)
「混住社会論」13  城山三郎『外食王の飢え』(講談社、一九八二年)
「混住社会論」12  村上龍『テニスボーイの憂鬱』(集英社、一九八五年)
「混住社会論」11  小泉和子・高薮昭・内田青蔵『占領軍住宅の記録』(住まいの図書館出版局、一九九九年)
「混住社会論」10  ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』(河出書房新社、一九五九年)
「混住社会論」9  レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』(早川書房、一九五八年)
「混住社会論」8  デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ』(新潮社、一九九七年)
「混住社会論」7  北井一夫『村へ』(淡交社、一九八〇年)と『フナバシストーリー』(六興出版、一九八九年)
「混住社会論」6  大江健三郎『万延元年のフットボール』(講談社、一九六七年)
「混住社会論」5  大江健三郎『飼育』(文藝春秋、一九五八年)
「混住社会論」4  山田詠美『ベッドタイムアイズ』(河出書房新社、一九八五年)
「混住社会論」3  桐野夏生『OUT』後編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」2  桐野夏生『OUT』前編(講談社、一九九七年)
「混住社会論」1