前回の佐藤泰志の『海炭市叙景』とほぼ時代を同じくして、やはり炭鉱を故郷とする青年の物語が提出されていた。しかも『すばる』という掲載誌や単行本化も同様だった。それは佐藤洋二郎の『河口へ』である。ここで取り上げたいのは同書所収の四作のうちの「河口へ」と「入水の夏」だ。これらは一九八〇年代から始まった外国人労働者の本格的な受け入れ、不法就労者、日系ブラジル人の急増などの問題とリンクし、彼らとの労働現場における混住を描いている。まだバブル崩壊は訪れておらず、外国人労働者はアジア諸国やイランからも押し寄せていた。
「河口へ」の舞台は江戸川河口の浦安の飯場で、十九歳の「おれ」は古いプレハブに住み、杭打ち工事の職人だった。親方の坂田が炭坑離職者で、村に帰省した際にスカウトされ、「おれ」は東京だと思っていたが、連れられてきたのは東京ディズニーランドがある浦安だった。その河口には「おれ達が流れてきたように、さまざまなものが流れてくる」。「おれ」の目に映った浦安の風景は次のようなものだ。
海に対峙するように、おびただしい共同住宅が立ち並んでいる。薄暗い一つ一つの部屋は、蜂の巣だ。小さな建売住宅が、アメーバのように海に向かって、増殖している。海に浮かぶように、ホテル群が建っている。それらは巨大な防波堤だ。
「アメリカみたいだな」
「ウェストコートみたいだろ」(中略)
坂田は極端な蟹股で歩いた。日本はアメリカさんの植民地みたいなもんさ、と笑った。だからアメリカの真似をしちょるんさ、と言った。
「おれ達」が福岡の遠賀川の炭坑があったさびれた村から「アメリカみたい」な浦安へと流れてきたように、「クロ」と「パキ」もこの「怪我と弁当は自分持ち」の飯場へと流れつき、「おれ達」と一緒に暮らし、仕事をしている。「クロ」は黒人、「パキ」はパキスタン人からの名称であり、後者は「国じゃ学校の先生だった」ようなのだ。
「河口へ」でも外国人労働者の急増が述べられているが、梶田孝路の『外国人労働者と日本』(NHKブックス、九四年)などに示されたデータによれば、日系人とアジア人労働市場は重なり合っているにしても、後者のほうは時給相場が安く、労働内容のきつい「建築、土木作業員」となる割合が高いという。それは「クロ」も同様であり、そのような外国人労働市場の現実が「河口へ」においても反映されているのだろう。
それはまたかつての炭坑にも、現在の「おれ」の周辺でも起きていたことだった。
外国人とのつき合いが田舎や貧乏人達から始まっていることくらい、おれだって知っている。今に始まったことじゃない。炭坑(ヤマ)でボタを投げれば朝鮮人や中国人に当たったし、今でもパンチ(同僚のあだ名−注)やおれの田舎では、フィリピンや韓国の花嫁が増えている。現にパンチの三十六になる長兄は、二十三歳の韓国人の女房を貰ったし、妹は黒人の餓鬼を生んだ。英語も話せないのに小さな国際家族をつくっている。
ここに見える「国際家族」という言葉を借りれば、「河口へ」は「国際飯場」を形成する人々の群像ドラマといっていいし、そこには「一昨年からの内需拡大のおかげで(中略)神風が吹いている」という好景気事情があったのだ。だがそこに表出しているのは元請け建設会社・第一次下請け基礎工事会社・第二次下請けの親方が束ねる集団と外国人労働者というヒエラルキーであり、外国人労働者たちとほぼ同列に置かれている「おれ達」のアングルから、八〇年代後半からの「神風が吹いている」開発地帯におけるバブルの末端光景が浮かび上がってくることになる。
本連載25の笹倉明『東京難民事件』などで「ジャパゆきさん」、同51の吉本由美『コンビニエンス・ストア』でタイ人土木作業員の一端を見てきたが、そうした現場における家族、宗教、女をめぐる日本人、黒人、東南アジア人の位相がさらに広範に表われてくる。そこで「クロ」はサトウ、「パキ」はタナカと呼ばれ、日本人と同化することで、元請け会社から労働者としての参入を許可される。それはかつての帝国主義時代の同化政策をも彷彿させる。その呼び名を聞いて、佐藤という満州帰りの土工は「こいつらと一緒に働いているなんて、なんだか戦争に負け続けているみたいだよ」とぼやくのだ。
[f:id:OdaMitsuo:20130610112925j:image:h115](集英社文庫)
「入水の夏」の舞台は「河口へ」と異なり、同じ飯場ではあっても浦安ではなく、炭坑があったさびれた村に移り、主人公の「おれ」の名前もちがっているが、このふたつの作品は連作と見なしていい。「おれ」は浦安の基礎工事会社に四年いて、村に戻ってきたのである。それはさびれた村にもバブルが押しよせ、開発が始まっていたからだ。
川の拡幅工事は後三年は続くはずだった。数年先に村は、町のベッドタウンになる予定だった。そのために下水工事や川の拡幅工事を先に進めていた。土地の区画整理も始まり、日曜日ごとに町からの見学者がやってきた。スーパーができ、バスのターミナルも新しくなるという噂だった。
二十数年前に閉山になり、寂れ切っていた村は、人口増加した町のベッドタウンとして、再び脚光を浴びようとしていた。
誰も見向きもしなかった土地の値段は、数倍にも跳ね上がり、いい土地はあらかた町の業者に押さえられてしまったという噂だった。(中略)
小金の入った村の人間の懐を狙って、一年前に田圃の中に、フィリピンスナックが開店した。プレハブでできただけのその店は、浅黒い小柄なフィリピンの女達が、毎晩おれ達を歓待している。
そればかりか、工事中の乙女が池で、「おれ」の同級生であり、「黒人兵のがき」を生んだ待子が赤子と一緒に入水自殺したり、フィリピンの女と歳が倍以上も離れた農夫が結婚したり、工事現場にはパキスタン人やイラク人の姿まで見られるようになった。そして外国人労働者専用の飯場も設けられた。
外国人宿舎には、フィリピン人やパキスタン人やイラク人がいた。中国人や黒人もいた。フィリピン人はエフチャン、パキスタン人はパキチャン、中国人はシーちゃんと呼ばれている。イラク人はフセインだったし、黒人はただのクロちゃんだった。飯場は国ごとにベニヤ板で仕切られ、それぞれに分かれて寝ていた。おれ達は仕切りのない檻で、あいつらは仕切りのある檻に住んでいるというわけだった。たいした違いはなかった。
(小学館文庫)
「おれ」は思うのだ。「こうして出稼ぎの村に世界中の人間が集まってくるなんて、だれが想像できただろう」と。かつて五千人の住民がいた村は炭坑が閉山になると、別の土地に流れ、過疎化が始まり、石炭産業以外に何もない村はまたたく間にさびれ、二千人までに減ってしまった。出稼ぎに出た村人は三百年近く続いているお盆の村祭りを楽しみに帰ってくるのだが、その賑わいも以前よりも寂しい限りだった。
炭坑があった痕跡すらも消え、ボタ山にも木々が繁り、他の山々と見分けがつかなかった。かろうじて炭坑の面影とその事実を残しているのは、ボタ山の麓にある草木に覆われた坑口で、その中に入ると坑内で命を落とした死者たちの気配、それから朝鮮人や中国人坑夫の墓もある裏手の粗末な墓地から出てくる頭蓋骨や大腿骨だった。
最盛期の小学校には千人以上の生徒がいたが、「おれ」の時代には二百人足らずだった。彼らは一体どこにいったのだろうか。山が削られ、整地され、住宅団地となり、新たに小学校も建てられ、中層の県営住宅も建設され、新しい住民がやってくるのだろうが、そこに村人たちが歩く姿はなく、ましてそこに住むこともないのだ。村人たちは土地を売ったりして立ちのき、去っていく運命にあったからだ。
炭坑の全盛時代に、村には朝鮮人家族が多く住んでいた。今ではその代わりにフィリピン人、パキスタン人、イラク人などが加わり、村の新たな開発工事に携わっていることになる。ここでも「職員が一番、おれ達が二番、あいつらが三番」、つまり元請け会社・日本人・外国人というヒエラルキーは変わらず、日本人と外国人の民族葛藤や力学が仕事現場と飯場に表出し、それが多国籍的な現象と屈折を伴っている。
例えば、「フセイン」は「この村がさびれたのも、あいつらの国で石油がぎょうさん出るからたい。出んかったら、まだ炭坑があったかもしれん」と揶揄される。また「入水の夏」の時代は湾岸戦争が始まった年で、アメリカとイラクの戦争は、日本に出稼ぎにきているといえる「フセイン」にも照り返され、彼は涙を流し、残してきた家族のことを心配し、不安を表出させている。
その一方で、彼は村の娘で、父親と近親相姦関係にある知恵遅れの春子に「ちょっかいをだす」ことによって、父親に出刃包丁で追いかけ回されたりするのだ。日本の炭坑があったさびれた村の再開発現場に、グローバリゼーション的な葛藤が投影されていることになる。「入水の夏」は「男のジャパゆきさん」たちの「出稼ぎ」の物語でもあり、それを通じて、また村の歴史と暗部も浮かび上がってくる。
フセインと春子の逢引きは乙女が池の周りで行われていたが、二人の関係は、春子親子の家の強制執行による立ちのきと村からの離脱によって終わりを告げる。そして入水自殺した待子の父は娘を突き落としたと便箋に走り書きし、土左衛門となって池に浮かんだ。そして「おれ」は乙女が池の由来を初めて知る。それはまだ炭坑もなかった昔、灌漑用の溜め池を造る時に、若い女を人柱にしたことによっていたのだ。とすれば、待子もまた新たな村の開発のための人柱だったことになるのだろうか。このようにして、「入水の夏」には小さな村の歴史と世界史状況が交錯し、乱反射していることになる。
なお九五年に出された『夏至祭』は、「河口へ」と「入水の夏」に続く連作集として読むことができる。所収の「花火」の登場人物の名前は泰史となっている。これは自死した佐藤泰志へのレクイエムのように思える。