東海道新幹線が開通し、東京オリンピックが開催された翌年の一九六五年に、小島信夫の『抱擁家族』が『群像』七月号に掲載され、続いて講談社から単行本として刊行された。この小説はアメリカと郊外と家族にまつわる先駆的にして象徴的作品であり、高度成長期の進行とパラレルに表出し始めていた、近代家族とは異なる現代家族のアモルフなイメージを提出し、衝撃を与えたといえよう。それに先行する『アメリカン・スクール』については『〈郊外〉の誕生と死』でふれておいたので、ここでは『抱擁家族』に言及してみたい。
一九六四年夏に二年ぶりでアメリカから帰ってきた江藤淳は『群像』で『抱擁家族』を読み、この「妙に切ない美しさと恐ろしさ」を合わせ持つ「奇怪な作品」(『全文芸時評』新潮社)に衝撃を受け、それをコアとする『成熟と喪失』を著した。この「“母”の崩壊」というサブタイトルを付した文芸評論が出版されたのは六七年で、私も『成熟と喪失』を通じて『抱擁家族』を知り、七〇年初頭に両者を読むことになったのである。江藤は『成熟と喪失』の中で、『抱擁家族』を読むたびに、主人公の胸からあふれ出る「不安の水音」、「家庭」というイメージが「崩壊して行く音」を聴くと書いていた。
(『全文芸時評』)
そのことを象徴するように、『抱擁家族』の冒頭の一節は次のように書き出されている。「三輪俊介はいつものように思った。家政婦のみちよが来るようになってからこの家は汚れている、と」。ただこの書き出しは小島も断わっておらず、誰も指摘していないと思われるが、もうひとつのヴァージョンがあり、「(……)この家は汚れはじめた。そして最近とくに汚れている、と」いうもので、こちらは後半が加筆修正されている。『抱擁家族』の新しいテクストと見なせる小学館の「昭和文学全集」21所収版は前者、講談社文芸文庫版は後者によっていることを付記しておく。
だがこのような一節から始まる最初のセクションは章が立てられておらず、『抱擁家族』という物語の前提、及び登場人物の紹介ともいうべき役割を担っている。三輪俊介は四十五歳の大学講師で、外国文学の翻訳も手がけ、二年前にはアメリカの大学に単身で一年間滞在していた。その妻の時子は四十七歳、息子の良一は高校生、娘のノリ子は中学生である。
前述の書き出しにおいて、「汚れ」の象徴のように名指された家政婦のみちよの妹は、アメリカ軍属のヘンリーの「オンリイ」との設定で、六〇年代半ばの高度成長期を迎えても、そのような女性が存在していたことをあらためて認識させられるのだ。ちなみに『日本国語大辞典』(小学館)の定義によれば、「オンリイ(オンリー)」とは「第二次世界大戦後、占領軍の軍人のめかけ。一般に特定の外人とだけ交渉する売春婦」とされている。
そうした「オンリイ」を持つヘンリーに対して、俊介が遊びにくるように伝えたところ、代わりに後見人となっている「アメリカ人の二十三になる兵隊」ジョージが一ヵ月前から三輪家に出入りするようになったのである。『抱擁家族』において、米軍基地に関する直接的な言及はないけれど、俊介、時子、ジョージの三人で、キャンプの病院にいるヘンリーを見舞いにいく場面が描かれている。それらはこの作品の背景にすえられているのが米軍基地の存在、すなわちアメリカに他ならないことを告げている。
みちよは三輪家と基地をつなぐ触媒であることに加え、この物語の狂言回し的役割を果たす予兆をうかがわせ、彼女を通じてのジョージの出現が三輪家へのアメリカの侵犯のメタファーと化しているようだ。それゆえに彼女が「来るようになってからこの家は汚れはじめた」といっていい。だがその「汚れ」はアメリカ文学研究者らしい俊介とその妻の時子、息子と娘たちにみちよとジョージを加えた混住家族が共犯的にもたらしたものに他ならないように思えてくる。俊介は「この家の主人」「一家の責任者」だというが、時子は車で旅行に出かける時ジョージとみちよ、息子と娘でいっぱいだから、「あんたは留守番」だと申し渡す。
ジョージは時子から「子供の相手」にと望まれ、チャールストンを踊ったり、ハイスクールでならったホイットマンの「To A Stranger」という詩を片言でいう。「わたくし、あなた、トモダチ、なります。/わたし、あなた、さがしてた。/いっしょ、話す、食べる、寝る。」
江藤淳は『成熟と喪失』の中で、このジョージの片言に注をつけ、ホイットマンの「To A Stranger」の原文のすべてを引いた上で、俊介が望んでいる「家庭」のイメージは二人のstrangersが出会って形成されるものではないと述べている。それゆえに俊介のイメージの中で、「妻」は決してノマド的strangerではなく、姿を変えた「母」であり、「妻」=「母」を中心として自らも含めた「子供」たちがいる世界、すなわち農耕社会の定住者的な母子の世界が求められている。ところがみちよとジョージの存在によって、そのイメージが揺らぎ始めていることが、この章立てされていない最初のセクションに揺曳し、これが物語の導火線として置かれ、狂言回しのみちよがそれに火をつけるのだ。
そうして第一章が、「だんなさまが二週間ぶりでお帰りになりました。(後略)」というみちよが時子に告げる言葉で始まっていく。さらにみちよは俊介に、留守中における時子とジョージの情事を打ち明ける。それを受けて、俊介は時子を詰問しようとするが、「これから何をいい、何をしたらいいのだろう。そういうことは、どの本にも書いてはなかったし、誰にも教わったことがない」。それゆえに妻の情事をめぐる夫婦の間の会話は、二人の関係の歴史の断層を浮かび上がらせるとともに、ファルスのような様相を呈していく。時子はいう。「こんなことはあんたは堪えなくっちゃ駄目よ。冷静にならなくっちゃ。あんたは喜劇と思うぐらいでなくっちゃ。外国の文学にくわしいんだもの。(中略)悲劇のように考えるのは、もう古いわよ(後略)」。
その場面に至って、本連載81の大岡昇平『武蔵野夫人』が想起される。こちらはフランス文学だが、これも大学教師兼翻訳家の夫婦の物語であり、その妻は復員してきた愛する従弟と「姦通」してもいないのに、恋と嫉妬の果てに睡眠剤を飲んで死ぬ。その死は彼女の心臓が悪かったことに還元され、「純然たる事故」として処置される。『武蔵野夫人』にあっては、「事故によらなければ悲劇が起らない。それが二十世紀である」。それでも『武蔵野夫人』は「悲劇」として終わっているが、『抱擁家族』の物語は「ファルス」の色彩に染められ、進んでいく。
おそらく小島はこの『武蔵野夫人』を意識し、『抱擁家族』を構想したと思われるし、一九六七年刊行の同作品を巻頭にすえる『小島信夫』(『われらの文学』11、講談社)の著者の口絵写真には「武蔵野の雑木林にて」というキャプションが付され、その裏にはこれも、本連載80の国木田独歩の『武蔵野』の一節である「武蔵野に散歩する人は道に迷ふことを苦にしてはならない」が小島の自筆によってしたためられている。三輪俊介が新しい家を建てるために購入する「小田急で新宿から四十分の、奥まった傾斜地」こそは、小島のポートレートにある武蔵野なのではないだろうか。それらを考えれば、『抱擁家族』は『武蔵野』や『武蔵野夫人』の系譜に連なる作品と見ることもできよう。
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だが『抱擁家族』は『武蔵野』の自然描写に充ちた散文詩の趣きは追放され、『武蔵野夫人』の事故による悲劇も起こらない。それは時子のいうように必然的な「喜劇」のようなちぐはぐさを伴い、展開されていくし、これも、本連載35の『ゾンビ』のようなホラー映画の兆候も呈し、夫婦が「化物のように見えてくる」といった記述が一度ならず書きこまれている。
そうした中で、俊介と時子はジョージと三人で会い、ジョージの話も聞こうとする。ジョージはほとんど日本語を解さないし、時子は英語をしゃべれないので、俊介の通訳によって二人は話をするのである。しかも二人の年齢差は母子のように異なる。俊介にしてみれば、時子の情事は「アメリカ」を「ペット」にしようとした行為のように映るのだ。時子は自らの「責任を感じる」というが、ジョージは「両親」と「国家」に対して「責任をかんじるだけ」だという。その「国家」とはアメリカに他ならず、俊介は「ゴウ・バック・ホーム・ヤンキー」という「思いがけない言葉」をわめくに至る。
その一方で、俊介は「家の中を立てなおさなければならない」と考え、新たに郊外に土地を買い求め、時子の望む「アメリカ式のセントラル・ヒーティング」の家、カルフォルニアの別荘のようなガラス張りで、冷暖房完備の家を建てようとする。彼女はプールもほしいという。俊介も「夫婦がプールで泳いでたわむれている」楽園が出現すると思うようになっていた。
しかしその家の工事がはかどらないうちに、時子の乳癌が発見され、手術を受けることになるが、それでも完成した新しい家へと戻った。ところが「変った家」のセントラル・ヒーティングはうまく機能せず、雨もりすらも生じ、時子は癌が肺へと転移し、再入院、再手術となった。そして彼女は死んでいく。医者の話すケネディが殺され、鶴見の二重衝突事故で百何十人死んだという事柄から、それが一九六三年の出来事だったとわかる。
俊介が病院での仮通夜をすませ、家に帰ると、「友人たちが二、三十人、リビング・ルームの中に集まっていて、(中略)妻が客を呼んだみたいだ」った。
まだ『抱擁家族』は終っていないし、最後の第四章が残されている。だがここまでで私が前述した「アメリカの郊外と家族にまつわる先駆的にして象徴的な作品」であることが了承されるであろう。六五年の発表時点で高度成長期以後の日本の社会と家族の行方を透視しているかのように思われる。またこれは繰り返し言及しているが、一九八〇年代において、日本は郊外消費社会が隆盛となり、その産業構造はアメリカの五〇年代のそれとまったく相似するものとなった。ディズニーランドの開園も八〇年代半ばであったのであり、日本はまさにアメリカ的風景に覆われてしまったことになる。しかもそれは風景ばかりでなく、家族やライフスタイルも同様であり、その根底には九〇年代における日米構造会議やアメリカの「年次要望書」によってもたらされた第二の敗戦的状況が横たわっている。
それらのことを考えると、小島が「『抱擁家族』ノート」(『小島信夫文学論集』所収、晶文社)書きつけた次のような一節が否応なく思い出され、この小説の奥行の深さをあらためて確認してしまう。
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アメリカ人をもってくることは、じゃまになりはせぬか、これは現代の問題、我国の文化の内容からして、かえって必要。俊介の家の建て方、外国風の家とも関連する。我々の倫理的支柱のなさともつながりをもたせればいい。
またさらに『抱擁家族』を最初に読んだ時は様々な驚きゆえに、想像もしなかったけれど、ほぼ三十年後にその続編として『うるわしき日々』が書かれ、時子が亡くなった後の三輪俊介一家の後日譚を知らされることになる。そこには俊介の老後の日常が描かれ、二十歳前後だった読者の私も五十歳近くになってしまったこともあり、感慨無量の思いに捉われるしかなかったのだ。それに続いて江藤淳も自死し、この一文を書いている私も、現在は還暦を超えてしまったのである。
(講談社文芸文庫版)
『うるわしき日々』においても、老作家の俊介は八十歳を過ぎ、後期高齢者の姿を見せ、この作品は三十年後の『抱擁家族』といった様相を現前させている。五十代になった息子の良一は離婚し、重度のアルコール中毒で入院生活を送り、娘のノリ子は結婚して関西に住み、「ピース・ボート」のスタッフを務める娘がいる。『抱擁家族』にあって、息子と娘はまだ高校生と中学生だったのに。
再婚した妻の京子は、血のつながらない息子の看病のストレスから健忘症に陥る事態となっている。そうした家族関係の中で、俊介は息子をリハビリのためにファミレスに連れ出したり、妻の代わりにコンビニに買物に出かけたりもしている。ファミレスもコンビニもかつての『抱擁家族』の時代には存在しなかったものであり、俊介は『うるわしき日々』のほぼクロージングシーンで、「コンビニの袋を右手にもったまま、かがみこんで泣いた」りするのだ。
『抱擁家族』と『うるわしき日々』の間に流れた三十年の間に、時代は高度成長期の工業社会からバブル経済を経た消費社会へと移行した。そして登場人物たちも年老い、その後の三輪家の三十年が何であったのか、また『抱擁家族』というタイトルにこめられた意味、及びそこで提起されていたアメリカや郊外や家族というテーマを再考するかのように迫ってくる。それは一九七〇年代以後の日本社会は何であったかという問いに他ならないように思える。