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古本夜話452 鷹野弥三郎『山窩の生活』と鷹野つぎ

これは別の機会にと思っていたのだが、前回鷹野弥三郎、つぎ夫妻が営んでいた編集プロダクション的な新秋出版社を取り上げたこともあり、続けて書いておくことにする。

既述したように、大正十一年から十五年にかけての『文芸年鑑』は新秋出版社内日本年鑑協会、もしくは文芸年鑑編纂所が編集発行し、二松堂書店が発売所となっていた。『文芸年鑑』は昭和四年版以降から文芸家協会編となり、発行所は新潮社、改造社第一書房などへと移行していく。これらの大正から昭和戦前にかけての『文芸年鑑』は文泉堂書店から復刻が出されている。

それらの大正時代の『文芸年鑑』を具体的に見てみよう。大正十三年版の奥付の編者は文芸年鑑編纂所で、代表者は鷹野弥三郎と記されている。その奥付巻末に新秋出版社の一ページ広告が打たれ、月間の純文芸雑誌『新秋』と小島徳弥『文壇百話』、田中栄三『映画芸術の研究』、それから『文壇百話』『文芸年鑑』の姉妹篇として、前回挙げた新秋出版社文芸部編纂『文壇出世物語』が掲載されている。いずれも未見であるが、この広告からすると、新秋出版社は『新秋』を刊行するために設立されたと考えられる。ちなみに小島は博文館の訪問記者などを経て、大正末年から昭和初期にかけて評壇で活躍したとされ、田中は新劇運動に参加していた映画監督である。
(『文壇出世物語』)

次に大正十四年版を見てみると、編者は日本年鑑協会と変わっているが、代表名はそのまま鷹野で、この年から加えられた同書所収の「文芸書類出版の書肆」リストには「新秋出版社(同社内日本年鑑協会)」が含まれ、その住所は世田谷太子堂三五〇とあった。さらに「文士録」を繰ってみると、鷹野つぎの名前も出てきたので、それを示す。

 鷹野つぎ 本名次。明治二十三年八月十五日 浜松市下重町に生る。浜松高等女学校卒業。静岡高等女学校研究科途中退学、岸弥助の二女にて後松島十湖の養女となる。明治四十二年信州佐久松原湖畔の人鷹野弥三郎と婚し三男二女あり、夫と共に名古屋、豊橋、沼津、福島等に住みし事あり。小説集「悲しき配分」「ある道化役」及評論感想集「真実と鞭」「欲求と内省」の著あり。現在、東京市外世田谷町太子堂三五〇.

最後に置かれた住所は新秋出版社と同じであり、大正時代末年に鷹野夫妻が新秋出版社を立ち上げ、文芸雑誌『新秋』を刊行するかたわらで、『文芸年鑑』を編纂する仕事に携わっていたと推測できる。唯一の評伝といっていい、後藤悦良の『鷹野つぎ―人と文学』浜松市立高等学校同窓会、昭和五十六年)によれば、大正六年に弥三郎は福島日日新聞から時事新報社に移り、それで世田谷に住むようになったという。当時の時事新報社には菊池寛なども在籍していたことから、多くの文学者たちと親しくなっていた。だが関東大震災後の大正十二年に退社している。その理由として上司との対立などが伝えらえている。

そして翌年の六月に『山窩の生活』を二松堂から上梓する。これは鷹野が大正三年に大阪朝日新聞日曜付録に書き、その後も各新聞に掲載した山窩に関する一連の文章を編んだものである。明治四十四年から翌年にかけて、『人類学雑誌』に発表された柳田国男の「『イタコ』及び『サンカ』」(『柳田国男全集』4 所収、ちくま文庫)よりも数年後になるが、一冊の単行本として鷹野の『山窩の生活』が出されたことになる。その柳田はこの一冊の出現にすぐに反応し、東京朝日新聞に書評を(『柳田国男全集』31所収、同前)を書いている。もっとも柳田はその書評で、『山窩の生活』は文献上の研究が足りず、警察情報をベースにして、サンカが「盗賊詐偽で生活する人民だと云ふ主義」を下されていることに対し、不満を述べているのだが、そのことによって逆に山窩の存在は一般的に流布していったのではないだろうか。そして他ならぬ鷹野のこの著作を種本とすることによって、三角寛のサンカ小説群が構想されていったと考えられる。
柳田国男全集』4

そうした事情もあって、この『山窩の生活』は『サンカとマタギ』(『日本民俗文化資料集成』第一巻、三一書房)に収録されなかったが、一九九三年に明石書店から復刻され、塩見鮮一郎の委細を尽くした解説「虚構としての山窩」も添えられているので、同書に関する詳細は復刻版を参照してほしい。
サンカとマタギ (『山窩の生活』、明石書店復刻)

さてその一方で、妻の鷹野つぎだが、彼女は大正十一年に島崎藤村が創刊した婦人雑誌『処女地』に参加し、小説、随筆、評論を発表している。そのうちの随筆と評論は大正十二年に『真実の鞭』として二松堂、小説はその翌年に『ある道化役』として紅玉堂から刊行されている。つまり相次いで鷹野夫妻は二松堂から著作を出していることからすれば、どちらの関係によるものかわからないにしても、弥三郎の時事新報社退社以後、夫妻は二松堂と親交を結ぶようになり、そのことによって『新秋』の創刊が企画され、新秋出版社が立ち上げられ、『文芸年鑑』の編集発行に至ったのではないだろうか。もちろん二松堂は発売所を引き受けるとともにスポンサーにもなったと思われる。

関東大震災でほとんど消滅してしまったが、大正時代は多くの文学者が出版社を設立し、本連載でも様々に記述してきたように、書くばかりでなく、出版業にも参入しようとしていた。まして鷹野にしてみれば、かつての同僚だった菊池寛が大正十二年に『文藝春秋』を創刊したことにも刺激されたと想像するに難くない。そこに流通や販売を担ってくれる二松堂が近傍にいたわけだから、両者は必然的に結びつき、先に挙げた単行本企画も進められていったのではないだろうか。

本連載160375で二松堂について取り上げてきた。二松堂の宮下軍平は誠文堂の小川菊松の盟友であり、小川と同様に東京市内を専門とする、セドリと称される小取次から始めて出版も手がけ、既述したように小川とともに『書画骨董叢書』、単独で『国訳禅宗叢書』なども刊行している。またこれは『文芸年鑑』大正十五年版で知ったのだけれど、二松堂は学参や実用書から農業問題、科学書まで広範囲に出版していて、印刷製本部まで設けられていたのである。さらにまたいくつもの譲受出版にも関係していたはずだが、これも誠文堂と同様に、その全貌は明らかになっておらず、新秋出版社や『文芸年鑑』に関してもそれに同じだと見なすしかない。

なお東栄蔵編著『鷹野つぎ―人と文学』(銀河書房、昭和五十八年)も刊行されている。
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