山田太一の『岸辺のアルバム』は東京新聞などに連載され、一九七七年にTBSで鴨下信一たちを演出としてテレビドラマ化され、八千草薫、杉浦直樹、中田喜子、国広富之、竹脇無我たちによって演じられた。この『岸辺のアルバム』は、テレビドラマの歴史を塗り替えた作品だと伝えられている。
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手元に角川文庫の小説版、テレビドラマのシナリオ版(『山田太一作品集』2、大和書房)がある。前者には記されていないのだが、後者の最初のシーンには「昭和四十八年八月」という時代を特定する字幕スーパー指定が書きこまれている。これは『岸辺のアルバム』が、その翌年の四十九年九月の台風十六号により、多摩川が増水して狛江市で決壊し、三日間で民家十八戸が流出した災害に触発され、構想された事実を物語っている。
(角川文庫版)(『山田太一作品集』2)
ちなみにその事実にふれた『昭和史全記録』(毎日新聞社、一九八九年)は、多摩川氾濫の写真に加え、民家が流出する連続写真を掲載し、その被害の生々しさを浮かび上がらせている。そうした現実に起きた災害の事実から着想を得て、山田が一九七三年から七四年にかけての同時代の家庭、それも郊外のサラリーマン家庭を描き、それが多摩川決壊とマイホームの流失に象徴されるような危機と再生の物語を意図し、テレビならではの「ホームドラマ」に結実させたとわかる。
しかもそれと同時に、この『岸辺のアルバム』は一九七〇年代前半に萌芽しつつあった社会の動きと価値やイメージの転換を敏感に捉え、物語の背景とならしめていることにも気づかされる。ただ「ホームドラマ」のほうは未見なので、ここではシナリオ版でなく、小説版『岸辺のアルバム』によって、それらをたどってみよう。
『岸辺のアルバム』は専業主婦の田島則子にかかってきた一本の電話から始まっていく。それは「奥さんの浮気の相手は何人ですか」といういたずら電話に近いものだったが、その電話がきっかけとなって、則子という平穏無事な家庭の主婦の心に波紋と亀裂がもたらされ、それとパラレルに家族そのものの危機も表出していく。
則子は三十八歳の貞淑な妻、夫の謙作は四十五歳で大手商社の部長、娘の律子は私大英文科一年生、息子の繁は大学受験を控えた高校三年生、この四人が田島家を形成している。その家は一戸建で、庭の向こうには低いブロック塀を隔てて多摩川の堤防があり、二階に上がると多摩川がひらけ、対岸は川崎市で、登戸の家並や向ヶ丘の丘陵が見渡せた。川音はほとんど耳に入らないが、小田急線が鉄橋を渡る通過音は聞こえてきた。最寄りの駅は小田急線狛江駅と判断してよかろう。九年前にこの建売住宅を購入し、下北沢のアパートから移ってきたのである。
このような田島家の説明に対して、これも地名表記はなされていないけれど、前述したように狛江市と断定してかまわないだろう。狛江市はかつて神奈川県北多摩郡に属し、一八九三年に東京府に編入された武蔵野の一角に他ならない。ここは多摩川北岸の低地帯で、戦前は農業地だったが、戦後急速に住宅化が進んだ地域でもある。
『岸辺のアルバム』の始まりの時代設定が一九七三年であることを考慮すると、田島家の建売住宅は六四年に求められたことになる。狛江は東京二十キロ圏に位置し、六〇年代前半に成長、郊外化したと見なせるし、それに合わせ、マイホーム取得がなされたことは田島健作の才覚、収入、地位を物語り、それを裏づけるように国立大学出身であることが書きこまれている。妻の則子は女学校を出て勤め始めていたが、同じビルに謙作の会社もあり、彼に見初められ、若くして結婚したのである。このように二人の結婚の経緯は記されているのだが、実家や故郷に関してはほとんど言及されておらず、この夫婦が所謂「在所」のない人々、デラシネ化している印象を与えている。したがって結婚生活は二十年になり、子供たちが生まれてもいるが、則子が子育てに追われるという記述だけで、祖父母に当たる二人の両親の陰はない。その一方で、謙作は二年間のカラチ単身赴任、部長昇進に伴う異常な仕事の忙しさに追われ続け、夫婦は隔てられていると則子は思うのだった。彼女の知らない世界で夫は生活の大半を送り、それに打ちこんでいたからだ。
田島家には、十二冊のアルバムがある。そのどれもが一家四人の笑顔で満たされていた。しかし、それはかなり謙作の作為だった。
周囲の家に比べると、一家四人で笑い合う事が小さい時から少なかった。しかし、たまにそうしたことがあると、証拠を残すように謙作はカメラを持ち出した。見ろ、俺だって結構家庭につくしているじゃないかと、アルバムを開くと謙作のそんな声が聞こえるような気が則子はした。セックスも、それと同じ味気なさがあった。
ここにも親族どころか、祖父母も見当たらない。おそらくアルバムにも写っていないはずだ。それにもかかわらず、それぞれ夫を、妻を、子供を演じる都市郊外の孤独な核家族像が否応なく伝わってくる。そのようにして夫とこどもたちの日々は過ぎ、きりつめて暮らし、大した楽しみもなく、則子は三十八歳になっていた。こうした物語のイントロダクションと、登場人物と家族関係から浮かび上がってくるのは、則子という郊外の主婦の孤独である。その彼女が夢みるのは「昼下がりの郊外のがらんとしたコーヒー店で、こっそり恋人と逢う」ことなのだ。店には誰もおらず、二人だけだった。ガラス越しの光で店は淡い明るさに包まれ、木製のテーブルに大きめのコーヒーカップ、窓枠の白いペンキは少しはげているが、その向こうには冬木立が見える。これが則子の夢想であり、七〇年代前半になって形象されつつあったイメージのように思える。アルバムが謙作の家族のイメージであったように。
それらはともかく、いたずら電話が重なるうちに、則子はその電話を待ち、会話を楽しむようになった。相手は北川と名乗り、彼女には「見えない人間」だが、則子をどこからか見ているらしく、近隣に住んでいるようだった。後に同じ地域のアパートの、妻と娘のある住人だと判明する。つまり二人は郊外の家庭を異にする妻と夫だったことになり、一九七〇年代の日本版『ボヴァリー夫人』という色彩も加わってくる。そうしてついに則子と北川は、渋谷のイタリアの作曲家もしくは画家にちなんだ「フィリッポ」という喫茶店で逢うことになった。北川は三十五、六の長身で、都会的で知的な印象を与えた。彼は有名なレコード会社に勤め、クラシックレコードの製作に携わり、彼女にそのモーツアルトのレコードをプレゼントするつもりで持ってきていた。北川の音楽や美術に関する魅力的な話は「私設の女性文化講座」のようでもあり、夫とは「別の世界」の人で、「則子の胸に甘美なものが溢れた」。郊外ではなかったけれど、則子の夢が実現したのである。そうした「私設の女性文化講座」が繰り返されるうちに、二人の関係は秘密を守り、「お互いに家庭をこわす気はない」浮気の実現へと向かっていく。
だが秘密なはずの母の浮気は息子によって発見される一方で、姉がアメリカ人にレイプされ、妊娠したことを知る。「水準以上の家族」だとばかり思っていたのに、その実態にふれてしまったのだ。彼は母と姉の秘密の発覚のショックから、大学受験に失敗してしまう。それらとパラレルに、父の会社は経営危機に見舞われ、彼は海外からの解剖のための死体輸入にまで関わっていき、それもまた息子に知られてしまうことになる。
表面的には恵まれた平穏で「水準以上の家庭」が、妻=母の浮気を始まりにして、すべてを巻きこむように崩壊していく。『岸辺のアルバム』で使われる「浮気」という言葉は「姦通」という用語が、もはや死語となったことを告げていよう。だがまだ「不倫」という言葉は見えていない。
(光文社文庫版)
そして物語は「雄大な自然の迫力」を見せつける多摩川の氾濫によるマイホームの流失という災害の大団円へと向かう。残されたのは五冊のアルバムだけだった。十二冊のすべてではないにしても、田島家のイメージは保たれたし、氾濫とともに流失しなかったことを意味している。「みんなで働けば、また家ぐらい建つさ」。そして家族は失われてしまったつながりを回復しようとするのである。このようなクロージングこそはホームドラマのセオリーともいうべきものであろう。そうした『岸辺のアルバム』の物語に関して、山田は「企画メモふうに」(小説版では大山勝美の「解説」、シナリオ版では「あとがき」所収)で、次のように述べている。
戦後の経済成長が、田島謙作という四十半ばのサラリーマンにあたえたものは、一戸建の家であり、過度の多忙であり、息子が大学へ入るのが当然というような形の中流意識であり、娘をとりまくセックスを含めた環境の変化であり、妻とのへだたりであり、アンモラル、合理主義、人間的反応の鈍化であり、病気、地位、孤独などであった。
そしてそれらは当然のことながら、見やすい形で日常生活に顔を並べているわけではなく、病んだ部分が多いにもかかわらず、見た目には、明るく平穏無事な日々として立現われてくる。(中略)
何事もない、むしろ何事も起らなすぎる家庭の主婦の日常と照応するような日常を物語の主婦、則子も送る。そして視聴者は物語の進行と共に、その「平穏無事」がいかに多くの潜在化した歪みをひそめているかということを知るようになり、さすれば自分の家庭の「平穏無事」も蓋をあければ同質のゆがみを持っているのではないかと、ふと家族の顔を見直す。というようなことが作者の野心である。(……)
『岸辺のアルバム』という「ひとつのホームドラマ」のモチーフが、作者によって率直に語られている。そして続けて、家族は崩壊寸前で、その「入れもの」としての家も流されてしまうが、その時家族は「その結びつきをもう一度とり戻そうとする」。それは「感傷的な心の動き」であるにしても、「われわれの多くの家庭がそのような感傷を含めた曖昧な形で、家庭という形を辛うじて保っている」と語られていく。この山田の言葉に留意すべきだろう。そうした物語への配慮、崩壊と再生が共存する家族の機能、何が起きても繰り返されていく日常生活の本質に対する注視、それらが「ホームドラマ」のみならず、松竹大船の系譜に連なる山田のシナリオのドラマツルギーのコアであることも。
またさらに付け加えておかなければならないのは『岸辺のアルバム』が時代の転換期を告げる「ホームドラマ」に他ならず、それが六三年を時代背景とする小島信夫の『抱擁家族』のホームドラマ版のようにも思える。いってみれば、その十年後のサラリーマンを主人公とする形式をとったところの物語のようにも読めるのだ。
そして『抱擁家族』からはさらに時代が進み、『岸辺のアルバム』の時代でもある七三年とはオイルショックが起き、高度成長期に終止符が打たれ、工業社会から消費社会へと転換した年であった。それを反映して、『岸辺のアルバム』の物語の中で実際登場したり、イメージされたりする郊外の喫茶店やレストラン、ハンバーガーチェーン、女性文化講座などもこの時代に誕生している。ちなみに例を挙げれば、すかいらーくは七〇年、マクドナルドは七一年、朝日カルチャーセンターは七三年、その他の多くの消費社会の装置的店舗やビジネスも、この時代に出現している。そうした意味においても、『岸辺のアルバム』は時代と寄り添うことで送り出されてきたといえよう。