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古本夜話456 北尾鐐之助「近畿景観」シリーズと『新近畿行脚』

本連載283284で、創元社の創業出版及び創業者の矢部良策と東京支店の小林茂の関係などにふれておいた。それから大谷晃一『ある出版人の肖像』において、創元社の創業期が「艸木蟲魚の時代」と銘打たれているように、薄田泣菫の著作の出版を抜きにしては語れないであろう。創業出版の『文芸辞典』の好調な売れ行きに続いて、大谷によれば、昭和二年刊行の泣菫の『猫の微笑』は「何万部かに達し」、「創元社としてはじめて、よく売れた」。それと造本のよさも加わり、以後泣菫は創元社からすべての本を出すことになり、『茶話抄』『艸木蟲魚』『大地讃頌』などに及んでいく。手元にある昭和四年刊行の『大地讃頌』の巻末広告を見ると、生田春月による愛着のこもった『艸木蟲魚』の二ページ書評が収録され、それに続いて先の三冊が一ページずつの広告が掲載され、創元社と当代の随筆家と見なされた泣菫との蜜月を示している。そのような関係もあって、昭和十三年に『薄田泣菫全集』全八巻が出されたと考えられる。
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これは私見であるが、創元社の矢部は泣菫の著作の出版を通じて、かつて泣菫が学芸部長だった大阪毎日新聞の人々と知り合い、ひとつの出版人脈を形成していったと推測できる。その一人は大阪毎日新聞の初代写真部長、『サンデー毎日』『芝居とキネマ』編集長を務めた北尾鐐之助である。また人名辞典などに北尾は立項されていないが、『毎日新聞百年史』において、「グラビア印刷によるグラフィック形成のレイアウトを手がけた点では、おそらく日本で最初の人」で、写真を使う出版物のほとんどが北尾によって編集され、「大阪毎日の出版物に残した功績は大きい」を評されている。

毎日新聞百年史

それに加えて、北尾は山岳家として、昭和二年に創元社から『日本山岳巡礼』を出し、四年には「近畿景観」シリーズ」の第一篇『阪神附近』が刊行される。そうした一方で、矢部は谷崎潤一郎に近しい北尾の紹介で、関東大震災後に阪神間に移住した谷崎を訪れ、エッセイ集『倚松庵随筆』の出版を手がけ、それをきっかけにして、七年に『春琴抄』のベストセラーを実現させるに至る。
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また北尾と鈴木陽の共著として、『小型映画の知識』『小型映画の研究』も出し、それを契機にして、矢部の天王寺商業時代の親友である内藤勝之助が創元社のスポンサーとなっていった。勝之助は芦屋の六麓荘などの土地開発を手がけた内藤家の婿に入った通人で、講談社がキングレコードを設立し、創元社の親会社に当たる取次の福音社が関西総代理店を引き受けたことから、矢部が内藤に共同出資を呼びかけ、福音社レコード部がスタートしたのである。そしてその投資は次第に創元社の出版部門にも向けられていったと見ていい。それは戦後まで続いていくのである。

このようにたどってみると、大阪においての創元社の出版活動は多くの触媒となる人物たちの協力を抜きにして語れないが、北尾はその筆頭に挙げられる人物だと考えていいし、しかも著者としても創元社に貢献したのではないだろうか。「近畿景観」シリーズは昭和十七年の第九篇『伊勢志摩』まで続き、合計九冊が出されている。それはこのシリーズが十年以上にわたるロングセラーだったことを示している。私が所持するのはそのうちの昭和九年の第五篇『京都散歩』だけだが、北尾の「近畿景観」シリーズの特色をうかがえる。四六判箱入、装丁は富田渓仙による瀟洒な風景画で、北尾が撮った十六枚の口絵写真が添えられ、冒頭の「京都散歩」は次のように始まっている。
[f:id:OdaMitsuo:20141119224447j:image:h120](第七篇、丹波但馬)[f:id:OdaMitsuo:20141119224427j:image:h120](第八篇、若狭) 

 九月に入つてから、また一夜を京都にすごして、朝暁(あさあ)けの空の美しいのに眼を瞠(みは)つた。澄み切つたその群青色をみてゐると、……京洛の秋……といふものをはつきりと意識する。
 夕方、宿の下駄を引かけて、ぶらりとほど近い三條大橋の上に立つてみると、白くたぎるやうに落ちてゐる水から、涼しいといふよりも、もう冷たい風が吹き上げて来る。私は浴衣の襟をかき合わせながら、夕明りに擬宝珠(ぎぼし)の紫銅をなでゝみて、そこにも冷たい「秋」を掌(たのごころ)に感じた。

このような少しばかり悪達者な美文で、『京都散歩』一冊が形成されている。これが「近畿景観」シリーズ全体に共通するものなのか、それとも京都だけの特色なのかを確かめるに至っていないが、こうした文体が北尾の「近畿景観」の基調音のようにも思える。

この北尾の「近畿景観」が、文体に見られるように私的なものであったことに対し、公的な「近畿景観」も編まれ、それは昭和三年に大阪市教育部共同研究会編『近畿行脚』として刊行されている。だがこれは未見で、昭和八年増補改訂版の『新近畿行脚』を読み、そのことを知らされたのである。これは三六判、箱入の地図写真入り、九百ページ余の近畿観光ガイドブック決定版と称すべき一冊に他ならない。その出版時期を考えると、北尾の「近畿景観」は『近畿行脚』『新近畿行脚』とパラレルなかたちで刊行されていたことになる。

それは関東大震災とは異なるものの、関西においても昭和時代に入り、いくつもの鉄道の開発と、それに伴う郊外住宅地の出現によって、風景の変貌が起きたことを伝えている。そのような変容の一例を『新近畿行脚』の宝塚の関する記述から引いてみる。

 近年阪急電鉄会社が川の北岸(川辺郡小浜村)に大浴場新温泉を開設し、遊技場・劇場・大運動場等を経営するに及んで、京阪新都人士の集り来るもの日々共に加り、殊に少女歌劇の名は全国に轟き、京阪の地を訪づれるものは必ず一度はこゝに遊ふ有様で、武庫川北岸は急激な発展をなし、今両岸を総称して宝塚と称するに至つた。

このような新しい名所ができれば、ガイド類が売れ行き良好書となるのは自明であり、私の所持する『新近畿行脚』は昭和六年初版、八年第十五版とある。創元社はまだ「『艸木蟲魚』の時代」だったけれど、このような手堅いガイドの分野にも進出していたことになる。なお「近畿景観」シリーズの『近代大阪』だけは一九八九年に復刻が出されていることを付記しておく。

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