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古本夜話457 小林秀雄と創元選書

残念なことに創元社も全出版目録が刊行されておらず、その全貌は定かではない。それは創業期から東京支社を設けたこともあって、大阪だけでなく、東京でも独自といっていいかたちで出版活動が行なわれ、戦後になって東京支店が独立し、倒産に至り、東京創元社へと社名が変わったことも原因だと思われる。そうした創元社の事情については、大谷晃一の『ある出版人の肖像』の一章「二つの創元社」で詳細にたどられている。

創元社において、東京の出版活動が台頭してきたのは昭和十三年の創元選書の創刊だと目されているが、その伏線は数年前から引かれていたと見なすべきだろう。どのような経緯があったのかは不明だが、東京支店の小林茂はこの時代に『文学界』同人に接近し、その一方で編集者として横光利一門下の岡村政司を入社させ、昭和十一年に東京支店の最初の出版物である北条民雄『いのちの初夜』を刊行する。これは川端康成の推挙で『文学界』に掲載されたもので、ハンセン病のテーマと相まって、北条は異色の新人作家として文壇の注目を浴びた。
(『いのちの初夜』)

大谷によれば、小林茂がこの『いのちの初夜』を刊行できたのは小林秀雄の尽力だとされ、そのことで小林秀雄創元社顧問に就任し、週一日出社するようになったという。なお十三年には『北条民雄全集』も刊行されている。東京支社の文芸出版は小林自らのアラン翻訳書」『精神と情熱とに関する八十一章』横光利一の『欧州紀行』『春園』、川端康成『雪国』中原中也『在りし日の歌』などへと続き、『雪国』はベストセラーに近い売れ行きを示し、それらによって創元社東京支社の出版活動は存在を認められたことになろう。私も以前に創元社版によって「川端康成の『雪国』へ」(『古本探究2』所収)を書いている。

北条民雄全集 雪国 在りし日の歌 古本探究2

つまり創元社東京支社の小林茂の周辺には小林秀雄を始めとする『文学界』関係者が集まり、大阪の創元社とは異なる出版活動が目論まれていて、その満を持した企画が昭和十三年に始まる創元選書だったと考えられる。それは編集者、出版者としての小林秀雄の体現だったのではないだろうか。「創元選書の刊行について」が出され、それは選書の巻末に掲載されることになる。全文を引用してみる。

 良書は永遠の若きに輝き、万人に必読さるることを深く欲する。如何なる新しきものよりも常に新しく、あらゆる文化の源泉となつて尽くることを知らない。良書の普及こそは身を出版にささぐる者の片時も忘るることを得ない責務である。吾人は絶えずその点に留意し、あくまで公正なる手段と真摯なる努力を以て、躍進日本の要望に副ひ、且出版事業の真使命に悖らざらんことを念願として来た。
 如上の微意に基き吾人はここに『創元選書』を刊行せんとする。収むる所は真に万人の血となり肉となるべきあらゆる種類の良書であるが、これが選択には独自の立場から慎重なる検討を重ね、有名無名たるを問はず、専らその実質的価値による可きことを主眼としたものである。しかも体裁の典雅、印刷の鮮明、製本の堅牢、価格の低下等に細心の注意をはらひ、飽くまで世の読書子の共有たらんことを期した。吾人は本選書が微力ながらも刻人の教養を高め、正しき批判的精神と良心的行動との良き指針の一助ともなり、将来日本の文化建設の礎石とならんことを切望して歇まぬ。

ここに「万人」や「吾人」といった言葉が見られるように、明らかに「創元選書の刊行について」は三木清が書き、岩波茂雄の名前で出された「読書子に寄す―岩波文庫発行に際して―」を参照している。しかし岩波文庫が昭和二年の創刊だったことに対し、創元選書は十三年であり、戦時下の出版企画といえるものだった。前年に日中戦争がはじまり、同年に国家総動員法が公布され、十四年にはノモンハン事件が起きる一方で、第二次世界大戦に突入していく状況の中での発刊であった。それゆえに「躍進日本の要望に副ひ」とか、「将来日本の文化建設の礎石」といった言葉はそうした社会状況の中での「身を出版にささぐる者の片時も忘るることを得ない責務」、「出版事業の真使命」と解釈してもかまわないだろう。

大谷は『ある出版人の肖像』において、出典や根拠を示すことなく、東京支店編集長の岡村政司によるものだと述べている。だが創元選書は小林が企画し、選書も彼自身が担当していたことからすれば、もちろん小林茂や岡村の意向は含まれるにしても、この「創元選書の刊行について」も小林自身が書いたと見なすほうが妥当ではないだろうか。

そうして昭和十三年十二月十日に柳田国男『昔話と文学』、野上豊一郎『世阿弥元清』宇野浩二『ゴオゴリ』、十五日横光利一『家族会議』、小林秀雄『文学1』、ハクスレイ『思想の遍歴』(西村孝次訳)が立て続けに出されていく。最初に柳田の著作が選ばれたのは、前々回紹介した小林の「なんとか日本的原理といふものを発見しなければならん」とする意向であり、ひとつの「近代の超克」の試みだったように思える。

それを示すかのように、柳田の著作は選書の中で最も多い。昭和十七年に出された柳田書き下ろし『菅江真澄』を見ると、選書ナンバーは88となっていて、奥付を見ると、三月初版、七月再版二〇〇〇〇部とあるので、創刊四年目でもあり、定着して売れていることがわかる。その巻末の「創元選書既刊目録」には93まで既刊とあり、「近刊予告」として、大久保利謙『日本の大学』クローデル『日本』(山内義雄訳)など十点が予告されている。最終的に創元選書は何冊出たのであろうか。
菅江真澄

当然のことながらこの目録で目立って多いのは柳田で、ここに小林が柳田の著作を「将来日本の文化建設の礎石」と目していたこともうかがわれる、しかし柳田国男研究会編『柳田国男伝』(三一書房)などにおいても、柳田と小林の関係にはまったく言及されておらず、創元選書との結びつきも判明していない。それらを含め、次第に大阪の企画も加わるようになった創元選書も多くのことが明らかにされていないように思える。


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