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古本夜話458 創元文庫とブル−ノ・タウト『忘れられた日本』

戦後の出版ということになるが、創元社は創元文庫も刊行している。こちらは戦後だが、同様に東京支社の企画である。昭和二十六年九月に創刊され、すでに独立していた東京の創元社の同二十九年の倒産を機に廃刊になったと思われる。ちなみに創元文庫創刊年は戦後の二十六年前後の文庫本ブームの時代で、その数は六十余に及んだといわれている。その多くが創元文庫と同じく消えていったのである。

しかし創元選書と異なり、創元文庫は井狩春男編著『文庫中毒』ブロンズ新社)の「絶版文庫目録」のひとつに挙げられ、その全点明細が明らかになっている。それはざっと数えてみると四百四十冊ほどで、三年余の刊行だったことを考えると、創元文庫もまた月に十冊は出すという文庫バブルの中にあったとわかる。これも倒産の原因のひとつだったのであろう。だが創元文庫の経験があったからこそ、東京創元社になって推理文庫の刊行も可能だったと考えられる。
文庫中毒 

私も一冊だけ創元文庫を持っている。それは昭和二十七年刊行のブル−ノ・タウトの篠田英雄訳編『忘れられた日本』である。古本屋の均一台から拾った一冊だが、この中に「日本の農家」という一章があり、これもまた本連載346の「今和次郎『日本の民家』と『写真集よみがえる古民家―緑草会編「民家図集」』」や同349「石原憲治、秋葉原、聚楽社『日本農民建築』」などと関連づけられるかもしれないと思ったからだ。

写真集よみがえる古民家―緑草会編「民家図集」  [f:id:OdaMitsuo:20130716152332j:image:h110]

タウトはドイツの建築家で、ベルリンを中心として多くの集合住宅を建て、バウハウスの創設者グロピウスとともにワイマール共和国における新しい芸術運動を主導し、ベルリン工科大学教授を務めた。だがナチス政権成立に伴い、タウトはその夫人となるエリカ・ヴィッディヒとともにドイツを後にし、昭和八年五月に来日し、同十一年十月に日本を離れるまでの三年半を日本で過ごすことになった。タウトはそのうちの二年以上を高崎市の少林山達磨寺の敷地内にある洗心亭と名づけられた小住宅に住み、建築家としては熱海の日向別邸、東京の麻布大倉邸のふたつを手がけただけだったが、大半は高崎や仙台での工芸品指導と制作、各地での講演会、日本に関する執筆活動に当てられたようだ。

近年になって刊行された酒井道夫・沢良子編『タウトが撮ったニッポン』(武蔵野美術大学出版局、二〇〇七年)に洗心亭や日向別邸、大倉邸の写真が収録されている。これは新たに発掘されたタウトの四冊の写真アルバムを中心にして編まれた一冊で、タウトが昭和八年から十一年にかけての日本の風景の撮影者、記録者でもあったことを教えてくれる。
タウトが撮ったニッポン

このような日常のかたわらで、タウトは昭和九年に『ニッポン』、十一年に『日本文化私観』を刊行している。訳者は前者が平居均、後者は森儁郎で、いずれも明治書房が版元である。この二冊に関しては次回にふれるので、ここでは書名を挙げるにとどめる。
ニッポン [f:id:OdaMitsuo:20141121153151j:image:h120]

そしてタウトはトルコ共和国の招聘を受け、日本からイスタンブールに向かい、そこで多くの建築に携わったが、その翌々年の昭和十三年に当地で亡くなっている。没後の十四年にタウトの原稿を集成した岩波新書の『日本美の再発見』が刊行され、ベストセラーといっていい売れ行きを示し、続いて十七年に全八巻予定が六巻までで終わってしまったけれど、育生社から『タウト全集』が刊行される。その第一巻の『桂離宮』だけが手元にあるが、戦時下の出版物とは思えないほどの菊判の堅牢な洋書的造本、多くの写真を含めた挿図、タウト自身による桂離宮スケッチ、すなわち『桂のアルバム』の折り込み図も収録され、タウトは『桂離宮』を次のように始めている。
日本美の再発見 [f:id:OdaMitsuo:20141121112310j:image:h120]

 私が日本に着いた翌日、―つまり私が初めて朝から晩まで日本を過ごした最初の日に、私は今日と郊外にある桂離宮をつぶさに拝観するといふ最大の幸福をもつた。それからあと日本の旧い建築に接し得たさまざまな経験から推すと、第十七世紀に竣工したこの建築物こそ実に日本の典型的な古典建築であり、アテネのアクロポリスとそのプロピレアやパルテンノンに比すべきものである。(……)

いってみれば、タウトはこうした言説や『日本美の再発見』というタイトルに表象されるように、ラフカディオ・ハーンに比すべき日本の新たなる発見者の位置へと押し上げられたことになる。

そのタウトの翻訳は『日本美の再発見』以後、『タウト全集』も篠田英雄が主として担うことになり、それは戦後も同様であった。その中からアンソロジーとして、創元文庫の『忘れられた日本』が編まれたのであり、そこには篠田の紹介として、「東京大学文学部哲学科を卒えて(一九二七年)、二三教職についたことがある。一九三四年来タウトと相識り、彼の没後、日本に関する諸著および日記の原稿をエリカ・タウト夫人から託せられたので、その整理と翻訳とに当たっている」とある。篠田に関しては、戦後のカントの『純粋理性批判』(岩波文庫)などの訳者だと知っていたが、戦前にはまさにタウトと「相識り」、没後の日本関係原稿や日記の翻訳を夫人から託されていたことになる。おそらく篠田はタウト夫妻の通訳を務めていたのではないだろうか。
純粋理性批判

さて「日本の農家」にふれるのが後回しになってしまったが、この一文の中でタウトが初めて飛騨白川村の農家を称讃したとされる。そこでタウトは大きな三角形の屋根組で、三階からなる農家は「ゴシック式構造」であり、あたかも「中世のヨーロッパの農家」の観すらも備えているとの評価を与えている。飛騨白川村もまたタウトによって発見されたことになるのだろうか。

この一文を書くために、『タウトが撮ったニッポン』を事前に見ていたのであるが、「日本の農家」の中に「田舎の貧困! カメラは農民の家屋のみならず彼らの貧困をも美化する。写真にとった農民やその子供達は、まるで絵のようである」との言葉を見つけた。それは戦時下における「日本美」につきまとっていた、ノスタルジアとは異なるもののようにも思われた。

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