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出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話462 日産書房と小林秀雄『文芸評論』

戦後復刊したスタイル社の短命に終わった季刊雑誌『文体』は、小林秀雄の『ゴッホの手紙』の連載や装丁が青山二郎などであったことから、戦前の『文体』の三好達治編集と比較するまでもなく、小林の人脈の色彩が強くなっていることを、前回既述しておいた。

本連載で見てきたように、小林は昭和八年の『文学界』創刊に関わり、その発行が文化公論社から文圃堂へと移行したあたりから、意識的に出版者としてのポジションに目覚めたように思われる。それが本格的になったのは創元社の顧問に就き、創元選書の編集企画に取り組んだ時期からだと推測される。そのような小林のそれぞれの出版社との関係から、自著の刊行もなされてきたとも考えられる。

小林の戦前の主要著書の出版を見てみると、『文芸評論』『続文芸評論』(いずれも白水社、昭和六、七年)、『続々文芸評論』(芝書店、同九年)、『様々なる意匠』(改造社、同九年)、『私小説論』(作品社、同十年)、『現代小説の諸問題』(十字堂書房、同十二年)、『ドストエフスキイの生活』(創元社、同十四年)となり、改造社を除いて、それらが小出版社であり、装丁が青山であることは共通している。その他にも翻訳や限定版は江川書房や野田書房といった、こちらも小出版社から刊行されている。戦後になって小林は新潮社から数次にわたる全集が出され、その仕上げのように『本居宣長』も上梓に至り、小林秀雄神話を樹立して亡くなった。それをフォローし、支えたのは新潮社の「陰の天皇」といわれた斎藤十一だったと見なしていいが、戦前の小出版社との関係は小林研究の領域にあっても詳らかにされていないように思える。
小林秀雄全集 
それに常に寄り添っていたのは装丁を担った青山二郎で、『文学界』以後、二人の周辺、白洲正子のいう所謂「青山学院」の周辺には出版者やその志望者たちが集まっていたはずで、昭和十五年に筑摩書房を創業した古田晃もその一人だったと伝えられている。そうした流れは戦後になっても続き、それがまず雑誌に顕著に表われ、小林たちの場合は創元社の文芸美術雑誌『創元』や前述の『文体』へと投影されていった。つまり小林たちも出版者や編集者としての再出発を試みていたといえるのではないだろうか。そしてそれは出版社を興すことにもつながっていたと考えられる。

手元に小林秀雄『文芸評論』がある。これは昭和二十三年に刊行されたもので、やはり青山の装丁により、日産書房刊となっている。このA5版二百五十ページ弱の一冊の内容は、「様々なる意匠」「アシルと亀の子」「マルクスの悟達」などであるから、これが前述の昭和六年の白水社版『文芸評論』の復刻版だとわかる。こちらは未見であるが、同様に日産書房から『続文芸評論』『続々文芸評論』も続けて復刻されているようだ。つまり戦後を迎えて、小林は文芸評論家としての地位を確保した三部作を、この日産書房に託したことになる。しかしこの日産書房という出版社は初めて目にするものだし、その奥付住所は港区芝田村一ノ二日産館、もうひとつは札幌市南二条西四丁目一で、発行者は三浦徳治と記されていた。住所にしても発行者にしても、わからないままに年月が経っていたが、その手がかりを二年前につかんだので、そのことを書いてみる。

数年前から「出版人に聞く」シリーズを続けて刊行し、何とか二十冊に近づいてきたところだが、その〈8〉の高野肇『貸本屋、古本屋、高野書店』のインタビューに際し、「書籍文化資料」を中心とする『高野書店古書目録』(二〇一一年十二月刊行)を取り上げることにから始めたのである。するとその中に「日産出版印刷株式会社資料」として、「19枚6点組 5万」が出品されていた。その明細を示す。

出版人物事典

イ  株式譲渡契約書 昭和25根9月1日   三浦徳治他   1枚
ロ  株式譲渡承認證 譲渡人小林秀雄  昭和25年9月1日 1枚
ハ  株式譲渡承認證 譲渡小林茂     昭和25年9月1日  1枚
ニ  監査役辞任届書 小林秀雄      昭和25年4月 破有 1枚
ホ  日産出版印刷株式会社株主名簿 小林秀雄青山二郎ほか 1枚
ヘ  (株) 日産書房株券 川端康成1枚、大岡昇平1枚、久米正雄2枚、河上徹太郎2枚、三浦徳治4枚、未使用4枚

イの三浦徳治は日産書房の発行者であり、ここに見える日産出版印刷株式会社はその親会社と考えられる。ところが昭和二十五年に至って、日産出版印刷の経営がおもわしくなく、三浦が株式を分割譲渡することになり、ロとハはそれに合わせてやはり株主だった小林秀雄、及び創元社小林茂も株式用とせざるをえなくなった。ニとホは小林秀雄がその監査役だったことを示し、ホは青山二郎も株主の一人であることがわかる。

ヘは日産出版印刷の子会社として日産書房が設立されるに際し、川端康成大岡昇平久米正雄河上徹太郎たちも出資していた事実を明らかにしている。川端と大岡の五千円百株の株式は写真入りで紹介されている。もちろん小林たちもこちらの株主でもあったのだろう。いうまでもなく日産書房も危機に陥っていたと思われるし、清算に追いこまれていたかもしれない。そのような事情もあって、これらの証書や株券が流失したのではないだろうか。またおそらく日産書房の住所のひとつが北海道に置かれていたのは紙の確保の関係からであり、この戦後の時期において紙の入手が出版社の要ともいえた。そのために小林たちも紙を入手するための活動に加わっていたこと、それに対して、文学者たちも株式出資というかたちで支えていたことを物語っている。

なお、その後高橋輝次から『ぼくの創元社覚え書』(亀鳴堂、二〇一三年)の恵送を受け、その中に日産書房への言及があり、山本健吉が勤めていたことを教えられた。

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