前回の映画『セデック・バレ』に続き、同じく台湾を舞台とする小説、しかも日本人によって書かれたミステリーを取り上げてみる。それは日影丈吉の『内部の真実』である。日影は一九四九年に『宝石』コンクールに応募した「かむなぎうた」(『かむなぎうた』所収、現代教養文庫)でデビューし、この日影ならではの夢幻的な文体が織りなす作品に関して、これも前回ふれた折口信夫が絶賛したと伝えられている。
その日影は戦時中の四三年に応召し、陸軍近衛捜索連隊に入隊し、敗戦まで台湾に駐屯していた。この体験をベースにして、台湾をトポスとする長編『内部の真実』と『応家の人々』(東都書房、六一年)、後に『華麗島志奇』(牧神社、七四年)にまとめられる短編群を書き継いでいった。それらは日影特有の台湾、『内部の真実』の中で使われている言葉を借りれば、「夢魔」がたちこめる台湾を浮かび上がらせている。また「酔いたまえ酔いたまえ。何がおきても酔いしれて、時の繋縛をまぬがれぬ……」というボードレールの『パリの憂愁』の一節の引用が見えるのは、この異郷の幻影に包まれた台湾の街が遊歩者の愛するパリと重ねられているからだ。
『内部の真実』にあって、そのトポスは台湾北部の新竹州桃源街で、事件も「夢魔」にとりつかれたものであるかのように提出されている。それは昭和十九年五月のことで、この桃源街は内地人=日本人居住区もある台北と異なり、内地人は警察官、教職員、官公庁最高幹部、専売品扱業者たちからなる少数で、本島人の生活環境の中に置かれていた。ここでは「一見戦争とまるで無関係な平和な住民と、戦争に直面した軍隊が、はっきり雑居していた」。
そのような混住の中で事件が起きたのである。さらに付け加えれば、この地方は有名な美人の産地であり、小さな街なのに「青電気というピー屋」が二十軒以上あった。「青電気」とは売春宿で、公認されたものには入口に青い電球が目印として下がっていることから、そう呼ばれるようになったのだ。
新竹憲兵大隊の分遣隊は桃源街の小公園にある公学校の一部を借りての設営で、語り手の小高軍曹の他に、曽根隊長、津路軍医、苫曹長、名倉一等兵などが主たるメンバーだった。そのうちの苫曹長が胸部に拳銃弾を受けて変死し、近くに名倉一等兵が頭部を強打され、意識を失って倒れ、両者のかたわらにはそれぞれ一挺の拳銃が放棄されていた。この事件の特別捜査のために、大隊本部の大手大尉と助手の勝永伍長が派遣されてくる。ここに挙がった人々、それに後述する「玉蘭姉妹」を加えると、『内部の真実』の主要な登場人物が揃い、物語の進行につれて、それぞれの事件への関与、様々な「内部の真実」が明らかになっていく。
本島人鉄鋼業者の葦田清太郎の「有義園」という庭で、事件は起きたのだった。その家の正庁、これはチアキアと呼ばれ、本島人の家の中で最も大きな室をさし、家庭の儀式や接客に使われる場であり、それは次のように描写されている。
正面奥の壁には必ず中案卓(テオンアヌトオ)が据えられ、その家の祭神や先祖の神主(いはい)などがおいてある。神主はおおむね金箔をおいた、大きくて立派なものである(……)。
葦田さんの当主がまだ日本風に改姓名しないで、陳姓を名乗っていた少年の頃に、本島の知識階級を風靡した老荘思想の名残が、ここにあった。果樹や花木に恵まれた小園の奥にあり、この家の庁堂は、いつも静かだった。(……)古い中国の影の中に坐っているように奥床しかった。
ここに本島の知識階級の生活様式と植民地における「創氏改名」が語られている。陳から葦田への改姓はまさに後者を意味するものである。
それは梶山季之が「族譜」(『李朝残影』所収、講談社文庫)で描いた朝鮮での「創氏改名」と共通し、それが台湾でも行なわれていたことを伝えている。
それはともかく、この家と事件が起きた庭は接していて、「玉蘭姉妹の庭」とされている。彼女たちは葦田恒子と瑤琴で、事件は二人によって届けられたのであるし、姉妹もまた日本人ではなく本島人であることはいうまでもない。そして第一部の総タイトルがやはり「玉蘭姉妹の庭」とされ、十二章立ての『内部の真実』のうちの十章を占める本編と考えていいので、彼女たちが物語のヒロインにして、触媒の位置にあることを告知している。その命名の由来はこの庭に多くの樹が繁っていたが、ひときわ目立つのはほの白い玉蘭の花で、姉の恒子は「その花の精」のように見え、それは妹の瑤琴も同様だったからだ。
語り手の小高はその姉を常に「恒子さん」と呼び、彼女に限りない愛着を示す。小高は桃源街をひどく気に入り、それは「美しい娘」=「恒子さん」も同じで、彼女は街の衛生委員であり、公学校の医務にも関係し、部隊にも出入りするようになり、兵隊たちの人気を集め、葦田一家もまた分遺隊の人たちに快く門戸を開いてくれたのである。「恒子さん」は次のように描かれている。
恒子さんの顔は、どちらかといえば癖のある顔だった。美人の産地として有名なこの地方の、お人形のような女たちからみれば、むしろ異端的な美しさだった。(……)
女学校を出て数年になるのに、まだ固い莟のようで、小柄な体格や皮膚の冷たそうな青い顔には、十分な成熟を示しながらも、少女の新生な情感のただよう不思議な魅力が感じられた。
自分は特に彼女の本島人臭のない、近代的な特異な顔だちに魅力を感じた。(……)
こういう感じの顔の女たちを自分は知っている。(……)自分にとっては国籍などないフェアリ・ランドの女たちだったのである。
自分が少年の頃、はじめて淡いあこがれを抱いたことのある一少女の顔、その少女が夭折した後は、西洋画の複製の中にしか見出せなかった、そして、死や懸額の板ガラスのかなたに、自分がそっとしまっておいた面影を、恒子さんに見出したのだった。あるいは、この土地で見る一切の物を美化しようとした自分の心の動きが、そして、抑圧された脆弱な生への限りない愛着が、彼女を自分なりに美化させていたのかも知れぬ。
このような描写や説明は十九世紀末のフランスの文学者たちがオリエントに見ていたものを想起させる。サイードは『オリエンタリズム』(今沢紀子訳、平凡社)の中で、ネルヴァルやフローベールの「オリエントに対する倒錯的ではあるが共感にみちたヴァージョン」を指摘している。また同じくそこでマリオ・プラーツの『肉体と死と悪魔』(倉智恒夫他訳、国書刊行会)を援用し、ボードレールたちのエキゾチックなイメージ群、死の恐怖や運命の女の観念にも言及している。ボードレールの引用に見られるように、日影丈吉がそれらに通じていることはいうまでもない。それゆえに日影にとって、『内部の真実』における亜熱帯の戦時下の台湾は、彼らのオリエントと重なるようなものとして現前していることになる。
それでいて「玉蘭姉妹」や桃源街が「まぼろし」に過ぎないのではないかという小高の告白、あるいはマラリアによる幻想の記述も挿入されているのは、この『内部の真実』というミステリーが亜熱帯の戦時下の台湾における夢幻的物語に他ならないことを告げているのだろう。そしてそれは語り手の小高だけではなく、分遣隊の人々も同様であり、その「まぼろし」のようでもある「玉蘭姉妹」や桃源街との遭遇が事件を発祥させ、様々な「内部の真実」を胚胎させたように思われるし、そのようにして始まり、錯綜して展開していくことになる。
事件が起きた庭は三方を壁と扉に囲まれ、一方は暗夜という闇の幕で隔てられた「一種の密室」とでも称すべきところだった。
その夜、名倉一等兵が葦田家を訪れ、正庁でお茶をよばれていた時、苫曹長がふいに入ってきた。苫は昨日忘れた拳銃を取りに寄ったのだったが、名倉に対してここにいることを怒り出し、名倉に往復ビンタをはった。続けて苫は「恒子さん」が奥から持ってきた革筒に名行った拳銃を取り出し、名倉に放り投げ、自分も肩から下げていた拳銃を抜き取り、「決闘だ!」といった。「恒子さん」は必死になってとめようとしたが、苫は名倉の肩をつかんで正庁の外へ引きずり出し、重い扉を閉め切ってしまった。このようにして真っ暗な「一種の密室」が生じ、銃声が聞こえてきたのである。しかし苫の死体のそばにあった拳銃は五発ごめの一発が射たれていたが、名倉の拳銃は未装填で、最初から弾は入っていなかったのだ。そしてまたこの二挺の拳銃にはどちらも指紋がついていなかった。
それでも名倉は自白し、犯人として大隊本部へ連行された。しかし二挺の拳銃をめぐる謎、聞こえた二発の銃声、第三の拳銃と人物の存在、瑤琴による死体の発見といった事実から、「恒子さん」が曹長殺しを告白する。しかしその告白を聞いた勝永はそれを真実だと思いながらも、彼女が犯人だと思えなかった。「恒子さん」をめぐる三角関係として、一角に名倉、苫があり、まず彼らは犯人と死者に位置づけられ、彼らの代わりに捜査官としての勝永が登場し、苫の日記から小高を犯人として連行するに至る。だが曽根隊長も含めた分遣隊の人々のアリバイ問題も浮上してきて、「夢魔」にとりつかれたような事件の謎は深まるばかりだった。
もうひとつの三角関係としての小高、恒子、瑤琴には言及できなかったけれど、『内部の真実』の真の謎とは、植民地における混住、そこから必然的に生じてしまう倒錯的イメージであるようにも思えてくる。