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古本夜話479 プロレタリア大衆文学と貴司山治『ゴー・ストップ』

『戦旗』において繰り拡げられた、所謂「芸術大衆化論争」は未来社『現代日本文学論争史』上巻に収録されている。これは中野重治、蔵原惟人、鹿地亘、林房雄の論考に加えて、日本プロレタリア作家同盟中央委員会名での「芸術大衆化に関する決議」も添えられている。だがこの三年間にわたる論争とパラレルに、貴司山治が提出した「新興文学の大衆化」といったプロレタリア大衆文学の提起は『戦旗』ではなく、『東京朝日新聞』などに掲載されたために、ここには収録されていない。

現代日本文学論争史

これらの論争を読んでみて最も印象に残るのは、芸術の価値とその面白さは別のものではなく、芸術そのものの中にあり、大衆が求めているのもまさにその芸術の息詰まるような魅力だという中野重治の「いわゆる芸術の大衆化論の誤りについて」における指摘であり、また「大衆のために面白さを盛らうとするものは心がけのいい、けれども藪医者に過ぎない。それは甘草だけを処方する代診に過ぎない。甘草は舌の先に甘いだらうが病人は死ぬる」との言だった。

しかし中野の言がいかに説得的に聞こえても、「無際限なブルジョワ的読物等々の洪水」とか、「厖大な資本家的商品生産方法によるブルジョア的読物の洪水的生産」とかいった紋切型言説は彼のマルクス主義的な読者の限界を露呈し、近代読者史と出版史から見るといった複眼的視点の欠如を示している。

この中野に対して、林房雄は「プロレタリア大衆文学の問題」で、「文化的に高い読者」のためにのみ書いていた「進んだ層に受入れられる文学」と「文化的に低い大衆」のために書かれる「遅れた層に受入れられる文学」の二種類にわけ、後者をプロレタリア大衆文学と呼び、それを「書くことを忘れていた」と述べている。そして現在の大衆が愛読している大衆文学を学ぶべきで、そのことによってプロレタリア大衆文学はまず現実の大衆に読まれなければならないと結ばれている。ここに中野とは異なるプロレタリア文学側からの大衆文学への架橋的提言がなされている。

だがこの論争の総括ともいえる「芸術大衆化に関する決議」は明らかに中野の言を受け、具体的にプロレタリア大衆文学としての「忍術武勇伝に於ける『忍術』又は『恋愛』の要素」をまったく否定している。この「忍術武勇伝」こそは貴司が『戦旗』昭和五年二月号に発表した作品であり、彼はその中央委員だったにもかかわらず、自らが属する日本プロレタリア作家同盟からも作品を認められなかったことになる。また尾崎秀樹『大衆文学』紀伊國屋書店)の中で言及しているところによれば、貴司の『ゴー・ストップ』出版後における左翼作家へのアンケートに対して、プロレタリア大衆文学への賛否に問うたところ、一人も貴司を支持したものはいなかったという。
大衆文学 ゴー・ストップ

それでは貴司の『ゴー・ストップ』はどのような作品なのであろうか。それを読んでみることにしよう。テキストは『細田民樹、貴司山治集』(『日本プロレタリア文学集』30新日本出版社)所収を使用する。『ゴー・ストップ』の最初の章の「プチブル階級社会寄生虫だ」は次のように書き出されている。
(『日本プロレタリア文学集』30)

 野々村参平が築地河岸を歩いていると、
 「助けてえッ……」
 という女の金切り声がした。
 「おヤ?……」
 と思って、彼は闇の中をすかしてみた。
 築地市場の方にある人通りのない淋しい橋のたもとに、白い人影がちらりとみえた。

この冒頭の部分だけを読むならば、誰もがプロレタリア文学とは考えず、ありふれた大衆小説の書き出しだと見なしてしまうであろうし、数ページ読み進めて、「銀座は闘争的になれないインテリとプチ・ブルが生活意識をごまかしにくる場所だ」という一文に出会い、ようやくこれが単なる大衆文学ではなく、プロレタリア小説だと思い至るのではないだろうか。そう、まさに『ゴー・ストップ』はこのように始まっているが、貧民窟に住む小学校教師で、人道主義的著作も出している野々村を主人公とし、教え子の女優、盲目の新聞売り、スリを配し、ガラス工場の労働争議を描いている。そこに組合を結成する地下共産党員、それを支持する日本労働組合評議会の投資、争議団を襲撃するヤクザの親分が絡んで展開し、工場経営者からの要求を勝ち取ることに成功するのだが。左翼を総検挙する三・一五事件が起こり、登場人物の多くが刑務所送りになってしまう。だが残された者たちが活動を続けていく。

『ゴー・ストップ』は貴司が影響を受けた賀川豊彦『死線を越えて』、大衆文学としての探偵小説からのプロットや、三上於菟吉などの現代小説の話体などを物語へと導入し、貴司が主張するプロレタリア大衆文学の実現をめざした作品と思われる。

死線を越えて

現在から見れば、ご都合主義的で稚拙と思われる作品も、昭和三年から四年にかけて、下町の読者を対象とする『東京毎夕新聞』に連載され、当時の左翼労働者にむさぼり読まれたという。しかし先に見たように、日本プロレタリア作家同盟からはプロレタリアリアリズムの不徹底を強く批判され、これが前回記した実録文学研究会設立へのモチーフとつながっていったのであろう。

そしてさらに出版史に関することを付け加えておけば、『ゴー・ストップ』小林多喜二『蟹工船』や徳永直『太陽のない街』と同様に、戦旗社からの出版を慫慂されたが、「労働大衆の娯楽読み物」の出版に対する視座が明確でなかったので、中央公論社の牧野武夫の出版申し入れによって出版したが、発禁処分を受けてしまった。
蟹工船太陽のない街

その後貴司は文学案内社を興し、雑誌『文学案内』『詩人』を創刊し、単行本も刊行しているようだが、それらは未見である。またナウカ『小林多喜二全集』刊行も貴司の手になるとされている。

さらにこれは偶然のつながりといえるかどうかわからないのだけれど、貴司は大正九年に『大阪時事新報』の懸賞小説に応募したことがきっかけで、四年間の記者生活を送り、その同僚が片岡鉄兵、竹田敏彦、岩崎栄だったという。竹田や岩崎は『文学建設』の同人であるから、これらの人脈は連鎖していったと推測できる。

このように貴司をめぐる様々な環境は実に興味深いが、彼の提起したプロレタリア大衆文学は昭和初年に否定され、消えてしまったわけではなく、戦後の社会派推理小説へと引き継がれていったのではないだろうか。

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