前回の宮部みゆき『理由』のテーマのひとつは高層マンションに住む家族のイメージの変容であり、この作品は二一世紀を迎えようとしていた時代における家族レポートの色彩に包まれてもいた。また実際に二一世紀に入り、都市における住居の高層化はさらに進み、風景をも変容させ、それは地方にも及び、当初の違和感も見慣れるにつけ希薄化し、高層マンションのある風景は日常的なものへ転位していった。
だが高層に住むということ、その広範な日常化も『理由』にも示されているように、一九八〇年代以後の体験だと見なせよう。それならば、七〇年代以前において、高いところに住むことはどのような意味を付与されていたのだろうか。どこかで住むことについてのイメージの転換が起きていたのだ。そのことを確認するために、時代を半世紀ほど前に戻してみる。
一九六五年に刊行された庄野潤三の『夕べの雲』はそのことに関する問いから始まっている。
何しろ新しい彼等の家は丘の頂上にあるので、見晴らしもいいかわり、風当りも相当なものであった。三百六十度そっくり見渡すことが出来るということは、東西南北、どっちの方角から風が吹いて来ても、まともに彼等の家に当るわけで隠れ場所というものがなかった。
前からこのあたりに住んでいる農家をみれば、どういう場所が人間が住むのにいいか、ひと目で分る。丘のいちばん上にいるような家はどこを探してもない。往還から引っ込んだところに丘や藪を背にして。いかにも風当りの心配なんかなさそうな、おだやかな様子で、彼等の藁葺の屋根が見える。
農家の人たちがそういう場所を選んで住んでいるということは、この人たちの先祖がみなそうして来たことを物語っている。多分、それは人間が本能的に持っていた知恵なのであろう。丘の上がいいか、ふもとがいいかということで迷ったりする者はなかったのだろう。
この『夕べの雲』の主人公兼語り手である大浦の家の立地に関する述懐は新しい土地に移り、家を建てた者の実感がこめられている。確かに丘の上は見晴らしがいいけれど、吹きさらしで「隠れ場所」がない。先住する農家は丘や藪を背にしたふもとの風当りの心配のないところに住んでいる。そういう場所を選んでいるのは先祖代々からの知恵で、「それは人間が本能的に持っていた知恵」なのである。
大浦がこうしたことを考えるようになったのは、多摩丘陵の丘の上にこの家を建て、家族五人が引越してきて少し経ってからで、「古代人が持っていた知恵を持ち合わせていないこと」に気づいたのである。ちなみに庄野潤三一家も同じ家族構成で、六一年に東京の練馬区から川崎市生田に転居していることからすれば、『夕べの雲』の物語が庄野一家の日常生活を範としているように、この大浦の述懐も庄野自身の感慨と見なすこともできよう。
それはともかく、大浦は丘の上に家を建てた自分が「古代人以下ということ」に気づく。だがここに引越してきたのはキャンプをするためではなく、ずっと住むつもりだったからだし、「人間というものはなるべくならひとところに住みついて」、「何十年もそこに暮らしているのがよいのだ」。そうして長く暮らしていると、目には見えないが、「木のひげ根」が下り、住みやすい環境を用意してくれる。家の引越しはこれらの前の「木のひげ根」から断ち切られることを意味しているし、早く新しい「木のひげ根」を下すことを考えねばならない。「木のひげ根」という言葉に思わず「リゾーム」なるタームを想起してしまうが、庄野とドゥルーズ/ガタリの組み合わせはまったくふさわしくないので、ふれるだけにとどめておく。
そのような思いの中で、大浦は家を守るための「風よけの木」を植えようとする。それは昔ながらの所謂防風林、屋敷林のイメージが念頭にあったからだと思われる。ある日、関西の兄から新居祝いとして、ブッシュとつるばらの苗がそれぞれ五種類送られてきた。そしてそれらに加え、庭には植木屋から買った椿、柿、紅葉、山から運んできた萩、さらに家の周りには「風よけの木」として十二本の椎の木、三本のヒマラヤ杉が植えられ、「木のひげ根」が出るのを待つばかりになった。五年もすれば、これらの木も頼もしい姿になっているのかもしれない。ただそれまで台風に耐えられるかどうかはわからないのだが。
これらの大浦の「風よけの木」などの植樹に表出しているのは、未来へと向かう生活を守るために、古代から「人間が本能的に持っていた知恵」の活用や援用である。またそのことによって、過去、現在、未来が静かにつながり、家族の平和や団欒が保たれるのだと告げているようにも思われる。そのような生活の中で、大浦の五人の家族は丘陵の周辺の人々とその暮らし、季節と自然、景観と遊びなどに馴染んでいき、まさに生活の「ひげ根」も出そうに見えた。
それらの中で最も印象的なものを挙げれば、子供たちによる道の命名である。大浦や子供たちが山や学校から帰ってくるのは「森林の道」、車が通るのは「下の道」、最初に歩いたのは「まん中の道」、マムシに似たヘビを見つけたの「マムシの道」、その他にも「中学の道」とか「S字の道」などがあり、住み慣れてくるに従って、それまで気がついていなかった通り路が発見され、家族が歩く道が増えていったことになる。山の自然や動物もそれらの道に姿を現わし、「森林の道」では狸らしい動物に出会い、「マムシの道」ではコジュケイや山鳩を多く見かけ、「まん中の道」と「S字の道」のつながっているところには一休みするので「椅子の木」と呼んでいる櫟があり、その下は山で最も多く甲虫を取ることができる場所だった。
しかしそのような大浦一家と山や自然との蜜月は、二年目に夏を迎える頃に終わろうとしていた。「赤と白のだんだら模様の椿と測量の機材と木の枝を払うためのなたを持った青年がこの山へ上がってきた日から始まった。大きな団地が建つことになったのである」。それは大浦一家がここに移ってくる以前に決まっていたことで、団地がすべて完成した時には大浦の家、及びその裏の小松林とそれに続く崖の斜面の雑木林だけが残されることがわかっていたのである。ただその工事がいつ始まるのかはずっとはっきりしていなかった。それがついに始まったのだ。
(講談社文芸文庫)
大浦の家族がこのように彼等のいる丘と親しんだのは、二年半ほどの間であった。(測量の人たちが度々やって来るようになってから、木を伐り始めるまでにも一年近くかかった)
その間、彼等はいつも、
「まだ大丈夫、まだ大丈夫」
と思いながら、名残りを惜んだ。
日の暮れかかる頃に杉林のある谷間で安雄と正次郎の声が聞こえて来る。「もう夕御飯なにいつまで遊んでる気だ」と腹を立てながら、大浦は二人を呼びに行く。そんな時、彼はつい立ち止まって、景色に見入った。
「ここにこんな谷間があって、日の暮れかかる頃にいつまでも子供たちが帰らないで、声ばかり聞こえて来たことを、先でどんな風に思い出すだろうか」
すると、彼の眼の前で暗くなりかけてゆく谷間がいったい現実のものなのか、もうこの世には無いものを思い出そうとした時に彼の心に浮かぶ幻の景色なのか、分らなくなるのであった。
そこにひびいている子供の声も、幻の声かも知れなかった。
ここに『夕べの雲』のコアが表出しているように思われる。静かに営まれている大浦一家の平和な日常生活も、「まだ大丈夫、まだ大丈夫」という危うい均衡の上に成立したものであり、それが永遠に続くものではなく、いずれ「幻の景色」と化してしまうのではないかという諦念が読みとれるからだ。それは妻や子供たちばかりか、丘の上の家も谷間の景色も同様であるのだ。だからこそ、それらを「現実のもの」として支えるために、「風よけの木」や「木のひげ根」が必要となる。そのために大浦は「風よけの木」を植え、「木のひげ根」が出ることを願っていたのである。
実際に杉林は伐り倒され、山は削られ、マムシすらも居る場所を失い、「マムシの道」ではなく、「下の道」で死んでいたりするようになった。マムシにしてみれば、団地建設のための山の開発によって、大浦の「風よけの木」と「木のひげ根」に当たる「隠れ場所」を失い、車の通る「下の道」に彷徨い出て、車にひかれ死んでしまったことになろう。そうしたマムシの死を象徴のようにして、団地が誕生してきたといえよう。
また『夕べの雲』に示された大浦の姿勢に関して、江藤淳は『成熟と喪失』の中で、「治者」の観念を見ているが、それは一九六〇年代における、いわば「一戸建ての思想」だったようにも思われる。住む場所に対して、「人間が本能的に持っていた知恵」を失い、丘の上に家を建ててしまったけれど、「風よけの木」と「木のひげ根」にこだわることで、その家と家族の日常生活を支え、守ろうとする姿勢を強固に保ち続ける。それが『夕べの雲』の物語を貫く意志となっている。これを「一戸建ての思想」と呼ぶのである。
だがこれが一九八〇年代以後になると、このような「一戸建ての思想」は後退し、家は建てるものではなく、買うものとなり、それは必然的に家からマンションへと移行し、高いところに住むことが日常化していった。かつては「風よけの木」や「木のひげ根」が必要とされたのに、それはもはや見ることもできない。前回言及した宮部みゆきの『理由』はそれらを象徴的に物語っているようであり、庄野の『夕べの雲』とコントラストをなしているように思われる。
さらに付け加えておけば、『夕べの雲』は須賀敦子によってイタリア語訳されている。