リッツアの『マクドナルド化する社会』(正岡寛治監訳)はアメリカで初版が一九九三年、改訂新版が九六年に刊行され、後者に基づく邦訳版は九九年に出されている。原タイトルはThe McDonaldization of Society で、直訳すれば、『社会のマクドナルド化』となる。また原著は二〇〇四年にNew Century Edition 改訂版の刊行もあり、ここではこの改訂版を参照している。なおこちらも〇八年に『マクドナルド化した社会』(正岡訳、同出版部)として邦訳された。
前回コンビニにおけるフランチャイズシステムに言及したが、リッツアも「マクドナルド化」のコアの装置に他ならないフランチャイズシステム展開に焦点を当てている。さらにエリック・シュローサ―も『ファストフードが世界を食いつくす』(楡井浩一訳、草思社)の中で、マクドナルドに象徴されるファストフード産業の基本思想が、今日の小売業のオペレーションシステムとなり、それが中小事業者を駆逐し、地域性を一掃し、全国に同じ店舗を増殖させ、「アメリカ人の生活のほぼすべての側面がフランチャイズ化」されてしまった事実を指摘している。シュローサーのこの著作も明らかにリッツアの『マクドナルド化する社会』の影響下に書かれ、それはアメリカだけにとどまらないファストフード産業とグローバリゼーション市場の問題へともつながっていく。
これらの問題は日本も同様であり、拙著『〈郊外〉の誕生と死』で詳述したように、一九八〇年代の郊外消費社会の隆盛はロードサイドビジネスの成長によって支えられ、そのロードサイドビジネスの背景にあるのはまさに「マクドナルド化」とフランチャイズシステムだった。すなわちロードサイドビジネス、「マクドナルド化」、フランチャイズシステムは三位一体のパラダイムを形成し、郊外消費社会を造型するに至ったのである。今回はその「マクドナルド化」についてトレースしてみる。
ただ念のために補足しておけば、リッツアの論じている「マクドナルド化」とは、マクドナルド店やファストフード企業そのものをさすのではなく、次のような事態を意味している。「ファストフード店の原理がアメリカ社会と同様に他の世界でも諸分野にますます支配的になりつつあるプロセス」なのだ。そしてその「マクドナルド化」の影響は飲食業界のみならず、教育、労働、刑法システム、ヘルスケア、旅行、レジャー、ダイエット、政治、家族、宗教などの社会のすべての領域にまで及んでいる。それゆえに「マクドナルド化」はその世界にあって、泰然自若に見える制度や地域の中にも速やかに拡がっていったように、まったくもって防ぎようのないプロセスとも見なされている。
リッツアは「マクドナルド化」の先駆として、形式合理性をめざす近代官僚制、近代的社会工学ともいえるホロコースト、テイラーによって生み出された労働者を支配するための技術体系である科学的管理法、フォードの発明によるロボットのような労働者を伴う工場の組立てライン、レヴィットタウンに象徴される住宅建設、モール化するアメリカを代表するショッピングセンターを挙げている。それらの原理を継承、吸収してマクドナルドは出現し、ファストフード産業へと発展し、さらに社会の全領域に「マクドナルド化」を伝播させていったのである。
マクドナルドの誕生については『マクドナルド化する社会』にもラフスケッチされているが、ジョン・F・ラブの『マクドナルド』(徳岡孝夫訳、ダイヤモンド社)のほうがリッツアのいうところの「マクドナルド帝国の創始者レイ・クロック」を物語の経糸にすえているので、こちらも参照してみる。一九三七年にディックとマックのマクドナルド兄弟はカリフォルニア州パサディナに小さなドライブイン兼ハンバーガー店を創業した。それが始まりで、四〇年にはロサンゼルスの労働者の新興住宅地サンバーナディーノのマクドナルド・ドライブインへと発展する。小さな店だったが、建物自体が八角形で、調理場が見えるというレストランの常識を破る設計だったことに加え、一二五台の駐車場も備えていたことから、四〇年代半ばにはティーンエージャーのたまり場となって繁盛し、兄弟はひと財産を築いた。
しかし問題となっていたのは競争相手の出現、コストの高い労働力、従業員の激しい転職だった。そこで兄弟はハンバーガーのクイックな提供、ロウプライス、マスセールをめざし、セルフサービスを導入することで、労働者の家族連れといった新たな幅広い客層を開拓した。さらにフォードの自動車の組み立てラインを範とし、ハンバーガー調理技術を流れ作業へと変えた。新たな料理器具とマニュアル化した生産方式の導入による技術革新がもたらされたのだ。「マクドナルド兄弟は、ハンバーガー店をまるで小さなアセンブリー工場のように変えてしまった。生産技術を洗練していくと、ユニークなレストランの型が出来上がった」のである。それはセルフサービス、ペーパーサービス、スピードサービスをコアとするファストフード産業の萌芽でもあった。だが兄弟は同じ店を増やすフランチャイズ化には熱心ではなく、まして全国チェーンへと成長させる目論見は抱いていなかった。
そこに登場したのが飲食店設備のセールスマンである、レイ・クロックで、それは一九五四年夏のことだった。彼は全国的にマクドナルドをフランチャイズする独占権契約を兄弟に提案して締結し、翌年フランチャイズ販売会社マクドナルド・システムを設立した。この会社はフランチャイズパートナーシップという哲学に基づき、フランチャイザーとフランチャイジーの双方の成功を目的とするもので、従来のフランチャイズとは異なり、当時としては革命的思想だったとされている。かくしてマクドナルド兄弟のハンバーガー店コンセプトと調理における技術革新に、クロックのパートナーシップに基づくフランチャイズ商法が接ぎ木された。
そして六一年にクロックはマクドナルド兄弟会社を買収し、マクドナルド帝国の実質的創始者の位置についた。さらに六五年には株式上場に至り、八〇年代には世界最大の外食産業へと成長した。九三年には世界中で一万四千店を展開し、売上高は二三六億ドルを計上するに至った。
それでもリッツアは冷静に書き留めている。ニューセンチュリー版によって私訳してみる。
クロックはマクドナルド兄弟社の特産品と技術を借用し、それに(フードサービスやその他の)別のフランチャイズシステム、官僚制、科学的管理法、自動車の組み立てライン原理を結びつけたのである。クロックの特異な本能は、これらの周知のすべてのアイデアや技術をファストフード産業に応用したこと、それに加え、フランチャイズ化によって、それをナショナルビジネスからインターナショナルなビジネスへと展開させていこうとする野心にも表われていた。それゆえにマクドナルドとマクドナルド化は新しい事態というよりも、むしろ二〇世紀を通じて見出されてきた一連の合理化のプロセスの行きついたところを表象している。
それらのマクドナルドと「マクドナルド化」について、リッツアは次の五つのタームを挙げ、実際にそのコンテンツにも言及しているので、次に示してみる。斜線上がターム、その下がコンテンツの要約である。
1 効率性(Efficiency)/これは製品の単純化、多様なプロセスの簡略化、従業員よりも先に客を働かせることを意味する。具体的にいえば、次のようなことをさす。ハンバーガーはフォークやナイフを必要としないフィンガーフードであり、メニュー選択肢の限定。メニュー限定調理ゆえに可能な作業工程の簡略化。客を働かせるということはセルフサービスによる駐車スペースと客度数の削減、同じく包み紙、発砲スチロール、プラスチックなどの持ち帰りから生じるゴミ処理コストの削減。
2 計算可能性(Calculability)/これは定量化を意識し、重視することである。定量化は決まった時間で仕事を行ない、決まった重さや大きさの製品をつくるために、人間によらない技術体系を生み出すことになる。それによってもたらされるのは、製品の質よりも量を重視すること、量への幻想を与えること、生産プロセスの簡略化による薄利多売システムの三つである。
3 予測可能性(Predictability)/これはどこでも同じ設備、予測可能な従業員の行動、やはり同様な商品として表われ、規律、システム化、ルーティン化を伴う。経営者やオーナーにしてみれば、従業員と客の双方を管理することに結びつき、また必需品や材料の必要量、人件費、売上、収益などを予測することに役立つ。それは店舗のコピー、マニュアルどおりの接客もその一環とされる。
4 制御(Control)/これは人間の技能から人間によらない技術体系への置き換えによる制御の強化を意味する。「マクドナルド化」におけるシェフやコックの不在、及び特別な注文をしたりする客の不在は、製品と生産工程の双方の制御にもつながっていく。従業員はロボットのように働き、コンピュータシステムは管理職の判断や決定をも奪うことになるかもしれない。また客の一種のベルトコンベアシステムの中に入って動かされ、ひとつの食事すらも制御された規範の中で管理される。
5 合理性の非合理性(The Irrationality of Rationality)/1から4は「マクドナルド化」の合理性に基づくシステムと呼べるものだが、これが必然的に非合理性を生み出していく。それは「マクドナルド化」がもたらす多くの否定的要因や結果を浮かび上がらせることになる。いってみれば、合理性システムとはその内部で働く者、もしくは客、あるいはサービスを受ける側の人間性、つまり人間の理性を否定する理不尽なファクターに満ちているからだ。
ここでは簡略なトレースを試みただけであるが、リッツアがこれらの五つの事項を挙げ、マクドナルドを通じて社会へと拡がり、「マクドナルド化」し、生活の全領域に浸透していった事実に肉迫していることを読み取ってもらえたであろうか。
とりわけリッツアがこだわり、問題としているのは、「マクドナルド化」の果てに招来された5の「合理性の非合理性」のことで、彼はそれをマックス・ウェーバーにならって、「マクドナルド化の鉄の檻」と呼んでいる。よく知られているように、ウェーバーは近代西洋文明の特質として「合理性」を見出し、それによって「非合理性」が乗り越えられていくことを指摘した。それは呪術が合理的信仰、迷信や民間伝承が経験科学、職人の手工業的生産様式が機械による合理的技術などに変わっていくプロセスだが、それらが社会の生産力の上昇、秩序の安定、生活の向上といった影響をもたらす一方で、貧富の差の拡大、新しいかたちの人間の隷属化、組織の官僚制化が起き、その支配下の中で、個々の自由は次第に奪われていく。
その結果として、官僚制下における管理社会の進行、抽象的な規制や画一的な手続きの拡散、労働のルーティン化とロボット的労働が蔓延していくのである。これをウェーバーは人々収監する「鉄の檻」とよび、A・ミッツマンはその伝記タイトルに『鉄の檻』(安藤英治訳、創文社)を付している。そしてリッツアは「マクドナルド化」していくグローバリゼーション状況の中に、ウェーバーのいう「鉄の檻」を見ているし、またその管理社会のイメージを恐怖に関して、オーウェルの『一九八四年』、ハックスリーの『すばらしい新世界』、ブラッドベリの『華氏451度』などのSFを挙げている。
そしてこのような「マクドナルド化」の根底にあるのは物質的利害と経済的目標と野心のアマルガムで、それを目標や価値とするアメリカ文化なのだ。そのような社会の変化に同調して「マクドナルド化」も生まれてきた。ディズニーランドもショッピングモールも「マクドナルド化」したシステムによって稼働し、近年では生も死も「マクドナルド化」の波が打ち寄せている。この「マクドナルド化」に抗することはできるのか。
リッツアは自らが「マクドナルド化」を「鉄の檻」と呼んでいるにしても、多くの人たちがこの合理的世界を好み、切望し、その持続的成長を歓迎していて、それが「ビロードの檻」であり、また他の多くの人びとはその多くの側面を嫌っているが、その魅力的な部分にも気づき、それでいて逃げ出すこともできる「ゴムの檻」だと認識していることにも言及している。私がどの立場にあるのかはいうまでもないだろう。日本の八〇年代以後の郊外消費社会の表層の繁栄の下にも、このような「マクドナルド化」が起きていたのであり、それが目に見えないかたちで、私たちを包囲し、息苦しくさせていたように思われてならない。そしてブラック企業などの問題も「マクドナルド化」と無縁ではないはずだ。
そのような「マクドナルド化」状況のアポリアをふまえ、リッツアはディラン・トマスの詩を引用することで、『マクドナルド化する社会』を閉じている。リッツアの引用はほぼ一行だが、ここではトマスの「あのやさしい夜のなかへと」(羽矢謙一訳、『世界名詩集大成10イギリス篇2』所収、平凡社)の最初の三行を示し、本稿を終えることにしよう。
あのやさしい夜のなかへと素直に入っていってはならぬ
老年は生涯の旅路の果てに燃え狂わねばならぬ
光の消えゆくことに逆って激怒せよ激怒せよ