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古本夜話492 五味康祐と斎藤十一

少年時代に新潮文庫などに収録されていた時代小説を読み始めたのだが、私の当時のリテラシーと物語嗜好も反映して、愛読したのは柴田錬三郎山田風太郎である。その他にも手当り次第読んでいき、司馬遼太郎早乙女貢なども読んだけれども、面白いと思えず、それ以後現在に至るまでまったく読んでいない。

そのような時代小説体験を回想すると、いつも今ひとつわからないという印象を与える作家と作品があったことを、今さらながらに思い出す。それは五味康祐『柳生武芸帳』新潮文庫)だった。あらためてそのストーリーを簡略に述べてみる。

徳川二代目将軍の娘である興子が幕府の圧力を背景に後水尾天皇の女御に挙がり、高仁親王を生むが、この親王は不可解な死を遂げる。これは徳川の血を引く者が皇統を継ぐことを憎んだ天皇の陰謀であり、それを担ったのは祖先を春日神職とし、朝廷と縁故の深い柳生一族であった。天皇は柳生門人名簿にあたる武芸帳から暗殺者を極秘に人選し、それが誰だったかは柳生一族も知らされていなかった。武芸帳は三巻あり、これを揃えると、暗殺者が判明するとされている。柳生は皇室への忠義のために幕府に背いたのであるから、三巻の武芸帳が揃い、この秘密が世にでることを極力阻止しなければならない。だがこの秘密を嗅ぎつけた者たちが現われ、問題の武芸帳の入手をめぐって、兵法者、忍者、柳生一族、幕閣の主要人物たちが入り乱れ、全国的な集団抗争劇の様相を呈していく。

この簡略なストーリーの紹介だけでも、物語が多様な人物を登場させた複雑多岐なものであることがわかるだろう。さらにこのストーリーの展開にあって、五味ならではの挿話が次々と加えられていくのである。もちろん五味のこのような物語の文法も、前述したように「今ひとつわからない」との印象も与えられたが、それよりもむしろ他の時代小説と異なる感触をもたらしたのは、その文体を含んだスタイリッシュ性であり、それは他の時代小説家には見られないものだった。天皇と柳生一族の関係といった物語の背景に加え、五味の独特なスタイリッシュ性が何に由来しているのか、当時の中学生の読者にとって、それがわかるはずもなかった。

それらをいささかなりとも理解したのは大学生になってからで、もはや五味の時代小説を読んだことを忘れていた頃だった。橋川文三『増補日本浪曼派批判序説』未来社)を読んでいた時、時代小説家などは出てくるはずもない論旨と文脈において、三島由紀夫竹内好の名前に続き、「やはり思想など信じていそうもない五味康祐『秘剣』保田与重郎のいかなる指導によって鋳られたか」という文章にいきなり出会った。そればかりでなく、この一文には注が施され、そこには「些かこじつけの意見になるが、五味康祐は日本ロマン派の美意識の右翼的・通俗的継承者」で、「五味の保田与重郎、前川佐美雄、亀井勝一郎などとの交渉を書いた『その人の名をさして』は、私には珍重すべき日本ロマン派論の材料であると思われる」と記されていたのである。
増補日本浪曼派批判序説 秘剣

この橋川の指摘を読んで、五味の作品に対する不可解さがとけたように思った。柴田錬三郎山田風太郎は時代小説を書いていたにしても、彼らは西洋の十九世紀末文学を明らかに反映させていた。それに対して五味は保田与重郎や日本浪曼派、及び反戦後的なるものを時代小説へと表出させていたのだ。そのような物語のメカニズムが年少の読者にとって、「今ひとつわからない」印象を与えていたことになるし、それはいうなれば、昭和初期に定型化された新しい大衆文学としての時代小説を異化する試みであったとの認識に至った。

そして橋川が挙げている「その人の名をさして」を読みたいと思ったが、見つからないままであった。しかし何気なしに入った古本屋の棚に、集英社の『新日本文学全集』が十冊ほど並んでいて、その中に『五味康祐集』を見かけたので、手に取り開いてみると、時代小説に混じって、そこに『指さしていう』と題する一編が収録されていた。橋川の挙げているタイトルと異なるが、内容は同じだとわかった。『指さしていう』は時代小説ではなく私小説といってよく、無名の文学青年だった五味の、前川佐美雄の義妹との結婚、亀井勝一郎への弟子入りと破門、結婚の媒酌をしてくれた保田与重郎への私淑を描いた作品で、五味の時代小説家としてデビューする以前の生活と、戦後の五味を取り巻く環境をリアルに伝えていた。
五味康祐集 指さしていふ

それらの五味の前史をふまえると、『二人の武蔵』といった作品の成立事情も理解できるような気がした。『柳生武芸帳』と同様に『二人の武蔵』も従来の、つまり吉川英治『宮本武蔵』をいわば脱構築する試みに他ならず、もうひとつの歴史を提出する時代小説を意識していたのであろう。それは既述してきた村雨退二郎たちの歴史文学とも異なり、日本浪曼派の美学にその起源を求められよう。ただ歴史文学によっていた戸伏太兵=綿谷雪の実証的研究「宮本武蔵は何人いたか」(『剣豪』所収、現代教養文庫)によれば、武蔵は政名と玄信の二人がいて、これはまったくの別人だとの説が展開され、「この点をにらんで『二人の武蔵』を書いた五味康祐氏の史観は、たしかにするどい」と述べている。私にはこの戸伏や五味の史観を検証する素養を備えていないが、そこに実録文学研究会から八切止夫に至るまでのオルターナティブな時代小説の探求をうかがうことができる。歴史とはまさにプリュリエルで、ポリフォニックな個人の生としても表われるのである。またそこに時代小説の可能性が探られようとしたと思われる。これは牽強付会に受け取られるかもしれないけれど、五味と八切こそは、それをきわめて意識的に追求した作家であったかもしれない。
二人の武蔵 宮本武蔵 

この一文を書くために、あらためて『五味康祐代表作集』第十巻所収の『指さしていふ』を読んだところ、その巻には短編「私小説芥川賞」も収録され、文字通り「喪神」で芥川賞を受賞するまでの、新潮社の斎藤十一の庇護下にあった生活が描かれている。斎藤は後に新潮社の「陰の天皇」と称せられる編集者であり、彼こそが『週刊新潮』の創刊立案者で、五味に『柳生武芸帳』柴田錬三郎『眠狂四郎無頼控』を連載させたのだ。

五味康祐代表作集(第一巻『喪神』)眠狂四郎無頼控

斎藤と日本浪曼派や保田与重郎との関係、時代小説も含めた大衆文学の目利きとしての斎藤のポジション、多くの作家たちを大衆文学へと誘った斎藤の編集者としてのアングル、これらはまだ語られていない大衆文学史と出版史の要点であるように思われる。

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