一九七〇年代前半にコンビニやファストフードは都市の内側において誕生し、その後半から郊外化していった。それらはストリートビジネスからロードサイドビジネスへと変容することで、八〇年代の郊外消費社会の隆盛に不可欠な装置となり、その機能システムとしてのフランチャイズ化、マクドナルド化、科学的管理法に起源を持つインダストリアルエンジニアリングなども他のロードサイドビジネスに継承され、広範に伝播していった。
これらについては本連載で続けて言及してきたが、それらの他にもうひとつ共通するシステムが存在している。それは出店に際してのオーダーリース、もしくは借地借家方式と呼ばれる形態である。このシステムに関しては前回の『小説スーパーマーケット』の中でもふれられている。スーパーはチェーン店化を必然的にめざすことになるので、絶えざる新規出店を試みていかなければならない。ところが新規出店のためにその都度、土地を買収し、新店を建てていくことは、それらの投資を銀行からの借入金に依存するリスクが高いので、限度がある。むしろ新規出店の土地や建物に対して、大きな固定投資をするよりも、店舗数の増加に資金を投じるべきことが、スーパー業界でも自明になり始めていた。それは車社会化と郊外かの進行に伴い、スーパーもまたロードサイドビジネス化し、広い駐車場を確保する必要が生じてもいたからだ。
(講談社文庫 上)
(下)
『小説スーパーマーケット』においても、その新規出店は「地主に土地を提供してもらい、その上に、当社が出した保証金で建物を建てさせてもらうという方法をとっている」と説明されている。これが先述したオーダーリース=借地借家方式ということになる。このシステムの契約内容は、土地の広さと立地条件、出店側の資本力の大小、土地所有者が個人であるか法人であるかの問題、及び出店側との力関係、複数の出店希望があった場合の競合状況などによって、定型はなく、多くのバリエーションがあったと思われる。
『小説スーパーマーケット』の例を補足すれば、スーパー側が新規出店の建設費に当たる金額を保証金として、地主に供託し、それによってスーパーの要望どおりの新店を建ててもらうことを意味する。この場合、スーパーのメリットは、土地建物の公租公課が発生せず、家賃は経費計上できるので、自前の土地建物よりもコストもリスクも少ない。また土地所有者側にしてみれば、スーパーが建設費を保証金として供託してくれるために、金利とその変動を伴う銀行借入金に依存することがないし、建設供託金も家賃と相殺のかたちで返済するので、安定した家賃収入を得られるのである。
それゆえに建前上は双方にとっていいことずくめのように見えるが、多くのリスクが孕まれている。それはこの場合も例外ではなく、「転抵当」というタームが持ち出されている。このタームはスーパーが銀行から建設保証金を調達するために、地主の土地を抵当に入れてもらうことをさす。スーパーの業績が順調であれば、問題はないけれど、もし悪化して倒産でもした場合、家賃が入らなくなり、土地は銀行に差し押さえられてしまうことも生じるであろう。
こうした一例からわかるように、オーダーリースシステムにはその他にも建設費、適正賃料、投資と利回り、契約期間、中途解約に関するペナルティなどの多くの問題がつきまとい、一筋縄ではいかない仕組みになっている。ちなみに六〇年代に、先駆けてスーパーオーダーリースシステムを導入したのはイトーヨーカ堂であった。一方でダイエーは土地を買収し、自前の店を建てることを続けた。それも一説によると、出店用地の倍の面積を買い、出店するとその半分の土地も値上がりするので、それを売って新規出店コストをまかなったという。そうした地価は上昇するという土地神話、そこから生まれる含み益に支えられている時代はよかったけれど、九〇年代初頭のバブル崩壊の影響もあり、ダイエーはついにバニシングポイントにまで追いやられてしまったことになる。つまり、それがもちろんすべてではないが、新規出店におけるオーダーリースシステムの導入が、イトーヨーカ堂とダイエーの明暗を分けたともいえるのである。
それはさておき、そのような出店を重ねることで、スーパーは産業として六〇年代に急成長し、七二年にダイエーは売上高三千億円を達成し、百貨店の三越を抜き、小売業の一位となり、八〇年年代には小売業界最初の売上高一兆円を突破している。
やはり同時代に急成長していたのがプレハブ住宅メーカーで、それは自動車や家電に続いて、住宅産業と呼ばれ始めていた。鈴木一他著『住宅産業界』(教育社)などによれば、プレハブ住宅とはPrefabricated House のことで、工業化住宅、工場生産住宅とも呼ばれ、在来工法の木造住宅が現場で加工することに対し、工場で前もって生産された部材を用い、現場でこれを組み立て、建築する住宅をいう。
その始まりは一九五九年に大和ハウス工業が発売したミゼットハウス、同年に積水ハウスが開発生産したセキスイハウスA型であった。この二社に続いて、六〇年代に入り、永大産業、松下電工(後にナショナル住宅産業)、日本鋼管(後にエヌケーホーム)、三澤木材(ミサワホーム)もプレハブ住宅の生産販売に参入し、住宅産業が形成され始め、六〇年代後半に住宅金融公庫の融資対象となったことから、建築戸数が飛躍的に増加した。下川耿史家庭総合研究会編『増補 昭和・平成家庭史年表1926−2000』(河出書房新社)は、五九年が「プレハブ時代到来」で、七三年には全新築住宅の70%に当たる22万4000戸がプレハブ住宅で占められるようになったと記している。もはや家は建てるものではなく、買うものになりつつあったのだ。
本連載 8 のハルバースタムの『ザ・フィフティーズ』に、「家を大量生産した男」として、ビル・レヴィットのことが描かれている。彼は戦後のアメリカの四〇年代後半から五〇年代にかけて、フォードの大量生産方式を郊外住宅建設に持ちこみ、レヴィットタウンという一戸建て郊外住宅地を各地に出現させたのである。まさに日本の六〇年代において、プレハブ住宅メーカーはレヴィットのような役割を果たしたといえる。
それらの中でもダイワハウスは、戦後の創業から「建築の工業化」を唱え、パイプハウスやミゼットハウスから始めて、本格的で様々なプレハブ住宅ダイワハウスの生産に向かい、一方で大和団地やネオポリスの開発、リゾートやマンション事業も推進し、九六年には一兆円企業へと成長するに至る。そうして構築された全国各地の事業部と営業所、住宅や建築事業のグループ会社を背景にして、七七年に流通店舗や事業部を発足させ、「土地オーナー(Land Owner)」と「テナント企業(Company)」を結びつける「ダイワハウスLOCシステム」をスタートさせる。これはダイワハウスが介在するオーダーリースシステムで、大和ハウスが「土地オーナー」と「テナント企業」を結びつけ、自らが新規出店の建設を担当するビジネスである。
こうした不動産プロジェクトは、信託銀行が都市のテナントビルなどに活用してきた土地信託システムに範が求められるといっていい。この銀行の信託システムの場合、基本的に「土地オーナー」は土地を銀行に信託し、その不動産プロジェクト収益を配当として受け取るものである。それゆえに銀行がその投資ファイナンスを担い、「テナント企業」も事前に用意し、建設はゼネコンなどに発注されていた。
「ダイワハウスLOCシステム」は建設会社が「テナント企業」を「土地オーナー」に紹介し、建築も担当し、土地と建物を一括してリースする仕組みであるから、いわば大和ハウスはオーダーシステムのプロデューサーの立場を務めることになる。しかもそれは信託銀行と異なり、融資は切り離されているのである。だが「土地オーナー」にしてみれば、「テナント企業」からの保証金だけで建設費のすべてを充たすことはできないので、やはりそれなりの銀行借入金が必要であり、テナント中途解約リスクが生じてしまう。そこで大和ハウスの子会社が「土地オーナー」と「テナント企業」の間に入り、その土地と建物を一括借り上げ、転貸借するという「転貸LOC」というサブリースシステムも導入されるに至っている。
そのような新たな土地をめぐる事業が可能になったのは、そうした業務を担ってきた信託銀行などが都市の不動産プロジェクトには通じていたものの、急速に浮上してきた郊外と新たな企業といえるロードサイドビジネス市場に対して、まだアプローチしていなかったことに尽きると思われる。
『大和ハウス工業の40年』の中にそれに相当する記述を見つけることができる。その部分を引用してみる。
流通店舗事業が活発になった昭和五十年代後半は、モータリゼーションの進行によって、各地に外食産業が進出した時期である。それを追うように、郊外に広い駐車場を持つ物品販売チェーンが展開していった。
そういう企業にとっても、大和ハウスは頼りになる存在だった。(中略)
たとえば、チヨダ(靴量販店―引用者注)が四国に出店しようと計画しても、その土地に馴染みがないことが障害になる。そういう場合は、四国においても実績のある大和ハウスのネームバリューを利用することもできる。
こうして、日本マクドナルド、ロイヤルホストなどの外食チェーン、アオキインターナショナルや青山商事などの紳士服チェーン、靴のマルトミ、自動車部品のオートバックスなど、いわゆるロードサイドの量販店の全国展開に、協力することになったのである。
これに付け加えれば、靴のマルトミはその後倒産し、郊外消費社会から退場することになったが、それに代わるように、やはり大和ハウスとジョイントしたユニクロが一大成長を飛べていく。ただユニクロの柳井正が初期出店事情について、『一勝九敗』(新潮文庫)で証言しているように、大和ハウスの社史が語るほどには「頼りになる存在」には見えず、おそらく八〇年代から試行錯誤を繰り返しながら、流通店舗事業を成長させていったと推測できる。
しかしいずれにしても、ナショナルチェーンであるハウスメーカーと、これも全国展開をめざすロードサイドビジネスの結びつきは、各地の郊外の風景を均一化することを加速させていく。これらの店舗はすべてがCI(Corporate Identity)によって規格化されているので、建物ばかりでなく、看板、ロゴ、配色、照明、植栽に至るまで統一されている。その事実は八〇年代以後、郊外の風景に中に大和ハウスとロードサイドビジネスが規格化された同様の建物を大量供給し、均一的な郊外消費社会を成立せしめたことを物語るものである。
そしてこれらの店舗はストリートをベースとする商店街と異なり、経営者や従業員が居住することはないので、日常の生活は発生しない。つまりそれは店舗が契約期間の定められているオーダーリースシステムによっているように、ロードサイドビジネスが定住ではなく、ノマド的発想によって構築されていることを如実に示している。これらの店舗が次々に退場していく日も訪れてくるかもしれない。それゆえに郊外消費社会が、ある日突然消えてしまうかもしれないエフェメラ(はかなきもの)の空気を漂わせているのも、そのためなのだ。
このようにして、全国各地に出現した郊外消費社会にも少子化と高齢化の影が忍び寄っているし、その一方では巨大な郊外ショッピングセンターに包囲されつつあり、これらは二一世紀の進行につれて、どのような影響をもたらしていくことになるのだろうか。