『〈郊外〉の誕生と死』や本連載115 などで、アメリカが消費社会化したのは一九三九年であり、それが世界でも突出して早かったことに関して、その主たる要因は三〇年代におけるモータリゼーションの普及に伴う全国的なスーパーマーケットの誕生と成長、その産業化にあったのではないかと指摘しておいた。
それならば、その時代にアメリカの農耕社会はどのような位相に置かれていたのだろうか。アメリカもまた十九世紀後半までは紛れもない農耕社会で、一八七〇年には総人口の半分を農業人口が占めていたが、一九三〇年には25%と半減していた。そのような中で、まさにアメリカが消費社会化した三九年に、スタインベックの『怒りの葡萄』が出版された。この作品はアメリカ社会と農業の転換期を浮かび上がらせるもので、オクラホマの小作農ジョード一家が土地を追われるところから、本格的に物語が動き出す。どうして小作人たちは土地から出ていかなければならなかったのか。その声を聞こう。
この土地はじいさまが手に入れたのだ。それにはインディアンを殺し、インディアンを追っ払わなければならなかった。それからおやじがこの土地で生まれたが、おやじは雑草と蛇を殺したのだ。それから不作の年が来て、親父は少々金を借りなければならなかった。それからおれたちもここで生まれたのだ――あそこのあの家で――おれたちの子供もここで生まれた。そうしておやじは金を借りないわけにはいかなくなった。そうして土地は銀行のものとなったが、おれたちはここに残って、作った物の少しばかりを手に入れてきた。
だがその小作制度ももはや用をなさず、トラクター一台で十数世帯の小作の代わりを務めることができるのだ。「ここで生まれ、ここを耕し、ここで死ぬ」と思っていた小作人からすれば、立ち退きを迫る銀行がそうであるように、トラクターもまた「怪物」として描かれる。その操縦士も人間のようには見えず、「怪物の一部分」であり、トラクターの播種器は「ペニス」にたとえられ、それによる播種は「ギアでオルガスム」に至った「情熱なき強姦」と見なされる。それは「銀行がその土地を愛していないのと同じように、彼もまたその土地を愛していなかった」からだ。
そのようにして土地を追われたジョード一家は中古のセダンをトラックに改造し、十一人の一家全員でカリフォルニアをめざす。これも二〇年代からのモータリゼーションブームの広い浸透を示すもので、すでに中古車市場が立ち上がっていることを告げているし、実際にそうした店の現状が書きこまれている。また自動車業界の繁栄が、トラクターなどの農業機械の開発に結びついているのだろう。カリフォルニアには仕事があると伝えられ、東部から西部へアメリカ大陸を横断する国道66号線を進んでいく。国道はおなじような車であふれていた。その道中で家族の何人もが死に、脱落し、失踪してしまう。そうした旅路の果てに出現したカリフォルニアの現実とはどのようなものであったのか、それはオクラホマと異なるカリフォルニア社会と農業状況に他ならず、それもまたアメリカの三〇年代を照射することになる。
ただ『怒りの葡萄』は出版の翌年の四〇年に制作されたジョン・フォード監督、ヘンリー・フォンダ主演のロードムービーの印象も作用し、農民小説というよりも、ロードノベルの色彩が強い。それもあって、「逃亡者の道」とされる国道66号線やキャンプ場、それにハンバーガースタンドなどのロードサイドビジネスの描写はリアルそのもので、この物語の独立したトポスのように迫ってくる。
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それに反して、『怒りの葡萄』はオクラホマの大地とトウモロコシの描写から始まっているが、その農業の実態は明確なかたちで提出されておらず、こちらの知識の欠如もあり、いまひとつ曖昧な感じが否めなかったし、ずっと払拭できないままだった。農業不況についても、単に凶作と一九二九年のニューヨーク株式市場の崩壊に端を発するものだと思いこんでいた。ところが偶然ではあるけれど、一冊の経済書を読み、それが氷解するに至った。その一冊とはピエトラ・リボリの『あなたのTシャツはどこから来たのか?』(雨宮寛、今井章子訳)であり、『怒りの葡萄』以外にも教えられることが多々あったので、それらに言及してみたい。原題は邦訳タイトルとニュアンスが少しばかり異なるので、先にそれも記しておく。
“The Travels of a T-Shirt in the Global Economy: An Economist Examines the Markets, Power, and Politics of World Trade.”
リボリは一九九九年にジョージタウン大学で、つぎのような演説を聞いた。それは反グローバル化の女性活動家によるもので、ナイキのTシャツを例にとり、それがベトナムやインドの子供や女性たちの悲惨な労働環境の中で作られているというものだった。それが発端で、リボリは自分がマイアミビーチのドラッグストアで買った一枚5ドル99セントのTシャツの出自、その誕生に関わった人々、及び政治と市場経済、グローバル化の物語をたどり、その一生を追うために三つの大陸を旅することになった。そしてそれは一枚のTシャツの生涯だけでなく、その生涯を取り巻く世界、すなわち歴史や政治をも照らし出すに至ったのである。
その白地のTシャツには派手な色づかいのオウムが描かれ、「Florida」という文字が書かれ、また背中のラベルには「シェリー・マニュファクチャリング」、その下には「中国製」とあった。リボリはフロリダの殺風景な工業団地のビジネス街にあるシェリー社のゲイリー・サンドラー社長を訪ねる。会社は彼の父が第二次世界大戦直後に創業したもので、独立系の卸売りとして商売を始め、ビーチの店々に北部からやってくる観光客向けのみやげ用アクセサリーなどを売っていた。
一九五〇年代に入って、一番人気はフロリダ風のモチーフがデザインされている綿の小さなスカーフであることに気づいた。その製造とプリントは日本製で、その仕入と販売価格の差が圧縮され始めたこともあり、マイアミに自社プリント工場を設けた。そこで白Tシャツはちょっとした旅行記ができそうな多くの名がプリントされ、観光客は旅の思い出に買っていく。
倉庫に満載のこれらの無地のTシャツはメキシコ、エルサルバドル、ボツワナ、インド、香港などから買い付けたもので、先述したように、リボリが購入したのは中国製だった。彼女の推測によれば、それは一九九八年後半に上海を出て、数週間後にマイアミの港に着いた。シェリー社は一枚1ドル42セントで仕入れ、そのうち関税は24セントで、当時の中国からアメリカへの衣料品割当からすると、このTシャツは輸入枠2500万枚のうちの一枚だったことになる。
それならば、このTシャツは中国のどこからきたのか。それは「シュー・ジャオ・ミン。上海織物」からで、シュー・ジャオ・ミンは商取引のあるアメリカ人たちからパトリックと呼ばれていた。彼は年に二回アメリカに出張して営業し、欧米ファッションをつぶさに見て、自分の工場にそのアイディアを持ち帰り、東洋と西洋、途上国と発展国、共産主義国と資本主義国などを問わず、ビジネスに励む。そのしなやかなバランス感覚を失うことはないので、国際競争によって、自社の白Tシャツの将来性はあまりないと考えていた。
そのパトリックに誘われ、リボリが中国に赴き、生産現場の工場見学も行ない、さらに綿の生誕の地を尋ねると、彼は多分「テクサ」じゃないかと答えた。それは地球儀の中国と反対側にあるアメリカのテキサスのことだった。リボリのTシャツの綿は、「世界一コットンな街」を自負するテキサス州ラボックで生まれた可能性が高い。彼女は次にそこでラインシュ綿農園を営む八〇代のネルソン夫妻を訪ねる。そしてアメリカにおける綿産業の歴史が語られていく。
綿作はもう昔のように骨の折れる重労働ではなくなった。それでも二人は毎年、大自然や市場の気まぐれと格闘している。夏には暴風や砂塵や猛暑や虫の大群と戦い、秋の収穫期には世界市場で七〇ヵ国以上の生産者としのぎを削る。ラインシュ家の四〇〇ヘクタールに及ぶ農園の綿花生産高は最大で訳二二七トン。Tシャツに換算するとざっと一三〇万枚分だ。生涯にわたって同じ職業にずっと就いていることは、ネルソンという人間について多くを語っている。そして、米国の綿産業についても……。
世界市場において、およそ優位性というものは常に一時的なものでしかないということは、歴史が証明している。ある国の産業がどんなに目覚ましい勝利を遂げても、最後には比較優位性の移行という厳しい結末が待っている。(中略)ところが綿の世界市場においてだけは、米国が二〇〇年以上にわたってあらゆる意味で圧倒的な覇者であり続けており、他国、とりわけ貧しい国々には、追いつける可能性さえ無いに等しい。米国は、綿の生産高、輸出高、農場規模、単位面積当たりの収穫高において、常に一位を独占してきたのだ。(ただし、生産高は近年中国に次ぐ二位となり、輸出高は時にウズベキスタンを下回る)。
高度資本主義消費社会のアメリカにあって、どうして単純な綿作が繁栄を続け、世界覇権を維持してきたのか。それはアメリカの綿補助金制度などに加え、生産者の卓越した適応性と事業的センスの豊かさによるとリボリは述べ、その歴史をもたどっている。
世界で最初の工場は綿の繊維工場で、十八世紀の英国で産業革命が起きたのは綿布や綿系の生産が事業として発展し、紡績や製織技術が進化し、大量生産が可能になったからだ。そうして綿産業の生産性が大きく向上し、価格も劇的に下がることで、これまでおしゃれに縁がなかった民衆も安価になった綿服を着るようになった。野良着から晴着への移行である。本連載116 のゾラの『ボヌール・デ・ダム百貨店』の背景にあるのは、このような衣服に関する消費の変化にほかならず、服部春彦『フランス産業革命論』(未来社)においても、そのベースに資本制綿業の確立、工業の発展と繊維業の構造転換が不可欠のものとして言及されている。
英仏の綿需要の動向に合わせ、産業革命初期にはアメリカのシェアはほとんどなかったが、その後驚くべき急成長を遂げ、南北戦争の勃発の時代に南部は年間四五万トンを超え、全世界の生産高の三分の二を占め、綿は輸出総額の半分を占めるに至った。しかし南部の綿農園は奴隷制度に支えられたもので、それが綿産業の爆発的成長のコアでもあり、その事実はTシャツ製造についての市場経済批判派の言説と通底している。さらに先に引いた『怒りの葡萄』で、小作人が語るインディアンを殺し、手に入れた土地であることも付け加えるべきだろう。
この奴隷制度、綿生産の拡大、ホイットニーの綿繰り機の発明により、南部の綿の市場独占が続いていたが、南北戦争によって奴隷制度が廃止された後、小作制度が導入された。地主は労働の見返りとして、小作農に住居や食料、狩りや釣りの権利を与えることで、労働者を土地に縛りつけていた。それは『怒りの葡萄』の場合、地主=銀行だったが、まだ保たれていたことになる。
そして二十世紀に入ると、テキサス州とオクラホマ州にいくつもの大規模農園が開かれ、トラクターの使用という技術革新が導入され、「工場」方式による綿の大規模生産システムが稼働し始める。それはおそらく科学的管理法やフォードシステムに基づく農業の工業化であり、綿産業へと躍進していく回路を開き、小作農や小作人の衰退と退場をもたらしていく。さらにそれを決定的にしたのは、三〇年代前半の不況下のもとでの綿価の暴落であり、三三年にニューディール政策の一環として制定された農業調整法(AAA)に他ならなかった。
これは過剰農産物の価格保証と休耕補助金の導入で、地主にとって小作人たちを休耕させ、補助金を受け取ったほうが割のいいものだった。かくして「大農園主はAAAでトラクターを買い、大戦前には小作農をすっかり刈り取って(トラクターアウト)しまった」という残酷なジョークだけが残されたとリボリは述べている。これが『怒りの葡萄』の背景であり、この作品は綿栽培をメインとする小作農、小作人の悲劇を物語っていると了解されるのである。そういえば、ヘンリー・フォンダを始めとして、映画の登場人物たちはほとんど全員が綿の衣服を着ていたし、それがまたアメリカの野良着にして、アメリカの農民の物語だということを表象しているのだろう。
しかしここであらためて、アメリカは日本占領下で農地改革を遂行したが、本国においてはそれを実行していないし、そのことによってアメリカ農業が世界的に絶対の優位を得ている事実、また日本の農業基本法やコメの減反政策と補助金も、アメリカのAAAに類似していることに気づかされた。それと同時に、『怒りの葡萄』における、ゾラの『ジェルミナール』やフランク・ノリスの『オクトパス』の影響、ジェームズ・ケインの『郵便配達夫はいつも二度ベルを鳴らす』との時代を同じくする通底性を確認することになった。これらの三作は本ブログ「ゾラからハードボイルドへ」で、いずれも論じているので、ぜひ参照されたい。
そして最後に一言付け加えておけば、リボリのTシャツをめぐる物語は、その三分の一ほどを紹介しただけであり、こうしたアメリカの三〇年代に限定されるわけではなく、綿産業をめぐる各国の歴史、及びその政治との関係は広く長きにわたり、入り組んで複雑であり、このような『怒りの葡萄』に関する部分の抽出は、彼女の著作に対する私の恣意的な読解となってしまうことを危惧する。それゆえに、私もTシャツを着てこの拙文を書いているが、読者も直接『あなたのTシャツはどこから来たのか?』に目を通し、自分のTシャツの出自を確かめてほしいと思う。
なおテキストは集英社版『怒りの葡萄』(野崎孝訳、『世界文学全集』66)を使用した。