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古本夜話506 『国訳一切経』と大東出版社

前回見たように、高楠順次郎の場合、出版は息子の正男をも巻きこむようなかたちで、大雄閣として広く展開されていった。

しかしそれは息子ばかりでなく、弟子や周辺の人物もまた同様だったように思える。『大正新修大蔵経総目録』の「会員名簿」や「関係者一覧」に渡辺楳雄の名前がある。渡辺は明治二十六年島根に生まれ、高楠と木村泰賢に師事し、大正六年に東京帝大文科大学印度哲学科」を卒業し、昭和三年以後、東洋大や駒沢大教授を歴任している。この渡辺は『国訳一切経』の訳者の一人で、私は一冊持っているだけにすぎないが、昭和四年の第十回配本『毗雲部一』(「阿毘達磨集異門足論」上)は本文扉に渡辺訳と記されている。
『毗雲部二』『毗雲部二』

『世界宗教大事典』平凡社)によれば、この『国訳一切経』は「漢訳大蔵経」の訓読で、本連載105『国訳大蔵経』、後に取り上げる東方書院の『昭和新纂国訳大蔵経』と同じ試みに分類され、百五十五巻、索引一巻という大部なもので、先に挙げた『毗雲部』だけでも三十一巻に及んでいる。また書誌研究懇話会編『全集叢書総覧新訂版』(八木書店)を見てみると、これは「印度撰述部」に当たり、昭和十一年には、「和漢撰述部」も刊行され、八十五巻予定が六十三巻で中絶してしまったようだが、両者は戦前、戦後を含め、昭和を通じ数次にわたって出版されたロングセラーだとわかる。ただ前述したように、「印度撰述部」の一冊しか見ていないし、「和漢撰述部」も未見であるが、訳者として渡名の他にも多くのメンバーが参加していたにちがいない。
世界宗教大事典

だがその版元の大東出版社に関しては本連載429「大東出版社と林若樹『集古随筆』」や「青蛙房と『シリーズ大正っ子』」(『古本探究2』所収)などで取り上げてきた。特に後者は岩野喜久代の『大正・三輪浄閑寺』(青蛙房)を中心にしているが、『国訳一切経』にもふれ、彼女の人生が仏教書出版とクロスし、それが結婚へと結びついていった事実に言及している。先にいっておけば、彼女は大東出版社の「大黒」ともなったのである。
古本探究2

岩野喜久代は大正十一年に東京府女子師範学校を卒業し、東中野の桃園小学校に赴任する。彼女の過ごした大正中期は文学、思想、学校教育も含めて、「一種のルネッサンスであった」とされているが、それは仏教書出版についても同様で、「現代意訳仏教経典叢書』を買い求めている。そのうちの浄土三部経、維摩経、勝蔓経の訳者が夫となる岩野真雄だった。彼の名前は『大正新修大蔵経総目録』の「会員名簿」に見えている。しかも真雄は彼女が講演を聴聞するようになった渡辺海旭の弟子で、渡辺もまた高楠順次郎とともに『大正新修大蔵経総目録』の代表者であったことから、高楠の出版事業を息子の正男が継承したように、海旭の「仏教文書伝道の志は岩野真雄が継いだ」ことになる。海旭は、高楠や南条文雄が真宗からオックスフォード大学に送られたことに対して、浄土宗海外留学生として、ドイツの大学でサンスクリット語とパーリ語を学んだ先達だった。そして大東出版社が設立されるのである。彼女は書いている。

 大正十五年に夫は仏教伝道を目的とした出版社を興した。大東出版社の名づけ親は渡辺海旭先生である。芝中学始まって以来の秀才と称された栗本俊道師が編集企画を、実直で数理経済に長(た)けた丸山俊成氏が助けて下さって、出発した。そして潰れもせず事業が伸びて行った(中略)。

大東亜戦争下にあっても、大東出版社は企業統制を免れ、仏書専門書に加え、これも本連載429で触れた岡本経一編集による「大東名著選」も好調で、浄閑寺が抱えていた多額の負債も皆済できたという。さらに戦後を迎え、岩野真雄は昭和四十三年に亡くなっているが、『国訳一切経』『仏書解説大辞典』『日本仏教辞典』などの良書刊行によって、四十一年には勲四等に叙せられたとも彼女は述べている。

このように大東出版社と岩野の出版事業はきわめて順調な経緯をたどり、それは高楠の『大正新修大蔵経』出版事業とまったく対照的であった。高楠はそのために一切の財産を失い、当時の金で三十万円の負債に責められ、昭和十九年に亡くなった。だが一方で、「私は『国訳一切経』のお蔭で老後を安泰に過ごさせていただけると思うと、時々、身もよもあらぬ慚愧の涙に暮れることがある」と彼女も記しているし、夫の死後、彼女は大東出版社主を務めていたからだ。

それはおそらく、同じ近代仏教界の先達、碩学だったにしても、真宗を出自とする高楠とは異なる、浄土宗の社会事業家であった渡辺海旭の配慮と手配も大きく影響していたのではないだろうか。大東出版社の出発に当たって、ただちに有能な編集者と経理担当者を差し向けたこともその表れであろう。海旭は『大正新修大蔵経』出版プロジェクトにあって、最初から高楠の近傍にいて、その編集と経済の苦難を目の当たりにし、出版事業の困難さを切実に感じたにちがいない。したがって海旭はそれを他山の石として、大東出版社のために様々な手を尽くしたと思われる。それゆえに『国訳一切経』の編集においても、また販売流通にしても、『大正新修大蔵経』とは異なる方針が採用されたはずだ。だがないものねだりは承知しているけれど、それらが何であったのかは岩野喜久代の『大正・三輪浄閑寺』の記述からは読み取ることができない。

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