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古本夜話508 鈴木大拙と大東出版社版『日本的霊性』

もう一冊大東出版社の本を取り上げてみたい。それはやはり『世界聖典全集』の執筆者で、『大正新修大蔵経』の会員でもあった鈴木大拙『日本的霊性』である。これは昭和十九年十二月に初版が出されているが、私の所持しているのは戦後の二十一年三月の再版である。初版は未見のままだけれど、こちらはA5判並製、ザラ紙の三百五十余ページで、戦後の印刷と紙の供給状況を彷彿とさせている。

日本的霊性 (大東出版社、新版)

昭和四十七年になって『日本的霊性』は岩波文庫に収録されたが、これにはどうしてなのか、大東出版社版にあった「序」と「第二刷に序す」が削除されてしまっているので、この出版にこめられた大拙の意図と時代的意味のフレームがぼやけてしまった印象を与える。それは昭和二十年秋十月の「第二刷に序す」に鮮烈に表出し、次のように書き出されている。
日本的霊性 (岩波文庫)

此書は昭和十九年の春頃から秋にかけて草せられたものである。其当時と今日とを較べて見ると誠に感慨無量だ。僅か一箇年の事だと云へばさうでもあるが、凡そ事の成るも破れるも一朝一夕のことでない、累年に培はれて来たものが、兪々熟して来ると一時に潰決する。さうして汎濫の濁浪はどこまで拡がるかわからない、その勢に任せるより外ないとさへ思はれる。我国の今日の状態は正に此の通りである。軍国主義の一たび決算せらるるや、国民はあらゆる方面で言語に絶する苦難を経験しなければならなくなつた。(……)

軍閥主義を形成していた軍閥、官僚、財閥は「道義の敗壊」をさらけ出し、日本は「外力」に支えられ、本当に「痛憤の限り」だが、これも「日本人の世界観及人生観が深さと広さを欠いて居たところ」に起因している。それに加えて、日本人の宗教意識が未成熟なゆえに、仏教に含まれる哲学的宗教的なものに他ならない「日本的霊性」を呼び覚ますことを怠ってしまった。そして大拙はいう。「日本崩壊の重大原因は、吾等の何れもが実に日本的霊性自覚に欠如して居ると云ふところにあるものと、自分は信ずる」と。したがってこれからは日本的霊性に支えられた社会を実現させなければならない。だが再生の危惧さえ覚える戦火の後、焼野原となった多くの都市などを見るにつけ、「霊性的日本の建設には如何に多くの犠牲を払うべきであつたことか!」。このような切実な思いで、大拙は「第二刷」を送り出したことになる。

大拙によれば、霊性とは宗教意識であり、日本的霊性とは仏教、とりわけ浄土系思想や禅に純粋な姿を表すものとされる。そうして『日本的霊性』において、その歴史と顕現と様相がたどられていく。しかしここではこの日本的霊性に関する問題はこれ以上深入りせず、私の所持する『日本的霊性』にまつわる大拙のひとつのエピソードを伝えたい。そのことをこの一冊が強いてもいるように思えるからだ。

この一冊は名古屋の古本屋の均一台で、三百円で買い求めたものだと記憶している。その古書価にふさわしく、表紙と背ははがれ気味で、まさにそれなりの再生手段を施すことに危惧を覚えるような状態だった。それでも購入したのは、大東出版社から『日本的霊性』が出されていることを教えられたからである。しかし読むにあたって、あらためて開いてみると、見返しに筆による献辞の言葉とサインがあり、『鈴木大拙全集』岩波書店)に散見する筆跡などを確認してみると、それが大拙によるものだと気づいた。誤読の危惧を恐れず、写してみる。

鈴木大拙全集

   病中ノ看護ノ一役ヲ果たされた記念としての微意
                               大拙

長縄宗悟君
        昭和二十一年七月

そして巻末に長縄本人と思われるメモがはさまれていた。これは高校の授業レジュメの一枚を四分の一に切ったもののようで、その裏側に次のよう書かれていた。

 昭和二十一年七月、夏季休暇に入って帰省しようとしていた矢先、先生の入院を知らされ、早速病院(京都府立病院)に駆けつけた。肺炎であった。そこで仰せつかった用件は先生の食事を自宅から病院まで運ぶことであった。先生は病院の食事は好まれず、主として洋食風の自家製の食事を常に愛好されていたからである。毎日三回先生の宅から病院まで運搬を繰返すこと約一ヶ月、無事退院された先生から病中看護の御礼として戴いたのがこの本である。私の25才の頃であった。

おそらくこのメモが書かれたのはかなり後だったように思われる。

『鈴木大拙全集』第三十巻所収の「年譜」を繰ってみると、昭和二十一年、七十六歳で、「七月 肺炎に罹り、京都府立医科大学付属病院に入院す。」とある。大拙がアメリカ人ベアトリスと結婚したのは明治十四年、そして昭和二十三年に亡くなる関口このが家政婦として迎えられたのが大正三年であるから、大拙夫妻の「洋食風の自家製の食事」は彼女によってずっとまかなわれていたと推測される。それは昭和十四年のベアトリス夫人の死後も同様で、このメモを書いた長縄宗悟なる人物は、家政婦の手作りの食事を一ヶ月にわたって「毎日三回先生の宅から病院まで運搬を繰返すこと」になり、それが大拙の献辞にある「病中ノ看護ノ一役ヲ果たされた」ことの説明になろう。彼は大拙が教授を務めていた大谷大学の学生だったと思われ、その後メモの裏側にうかがわれるような高校の教師になったのではないだろうか。

ここでは大拙の『日本的霊性』についてというよりも、むしろ彼の日常生活の近傍にいた二人の人物を取り上げ、箸休めのような一文を草してみた。なお最後になってしまったが、「第二版に序す」に「岩野君」の名前が出てくることからすれば、この一冊は大東出版社の岩野真雄の要請によって、戦時下と戦後に送り出されたことになろう。
日本的霊性 角川文庫

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