本連載でも23 の佐々木譲『真夜中の遠い彼方』を始めとして、難民に象徴されるベトナム戦争後の物語を取り上げてきた。前回の矢作俊彦の『ロング・グッドバイ』も時代設定は今世紀に入った二〇〇〇年であるが、ベトナム戦争に物語の起源を発し、主要な登場人物たちも、その戦争と時代から召喚されている。それはアメリカ軍に属していたビリー・ルウたちばかりではない。例えば、冒頭に出てくるハンバーガー屋のチエン=チャン・ピントロンはベトナム解放戦線の幹部だった。ところが戦後に入ってきた北ベトナム政府から追放の憂き目に会い、難民として香港に流れつき、英国に情報を売ることで、中国名での英国のパスポートを入手し、日本へとやってきたとされる。それはヴァイオリニスト海鈴やフランス人神父なども同様で、ベトナムを出自とし、いずれもが二一世紀を迎えた横須賀基地の周辺にいて、『ロング・グッドバイ』の物語を支えるパーソナリティを形成する。そうした意味において、矢作のこの作品は横浜を舞台とし、ベトナム戦争に関わった人々が混住することによって生み出された四半世紀後の物語、つまりベトナム戦争後日譚とも呼べるであろう。
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だが本連載でもすでに言及してきたように、日本でも多くのベトナム戦争後の物語が提出されてきた。それらの中でも一九八〇年前後に先駆けて刊行されたのは、船戸与一の処女作『非合法員』(講談社、一九七九年)と谷恒生の『バンコク楽宮ホテル』(同前)だったと思われる。前者は拙著『船戸与一と叛史のクロニクル』(青弓社)で詳細に論じているので、ここでは後者にふれてみたい。
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その前に、これらの二作だけでなく、『ロング・グッドバイ』の登場人物たちの背景とも共通する戦争後のベトナム、及びインドシナ半島周辺国の社会状況とはどのようなものであったのかを、まず確認しておく。
それは一九七五年から八〇年にかけてのクロニクルであり、もはや四十年の歳月が過ぎているので、もう一度たどり直す必要も生じているはずだ。『20世紀全記録』(講談社)から抽出してみる。
1975・4/ 南ベトナム民族解放戦線軍が首都サイゴンを進攻。グエン・バン・チュー大統領と代わったドン・バン・ミン新大統領は無条件降伏し、解放戦線軍はサイゴンに無血入城。アメリカ大使館は閉鎖され、大使館員はヘリコプターで脱出し、ベトナム戦争に終止符が打たれた。 一方で、カンボジアでもカンプチア民族統一戦線が首都プノンペンを制圧し、5年にわたる内戦が終息。ロン・ノル大統領は亡命し、アメリカ軍も撤退。 1975・8/ ラオスでもパテト・ラオ(ラオス愛国戦線)がピエンチャン州を制圧し、国土全域に支配権。 1975・11/ 南北ベトナム代表がサイゴンで再統一政治協議を開始。 1975・12/ ラオスは王政を廃止し、ラオス人民民主共和国発足。 1976・4/ カンボジアのシアヌーク元首が辞任し、キュー・サムファンが元首、ポル・ポトが首相となる。 ベトナムで南北統一総選挙実施。ベトナム社会主義共和国誕生。 1976・5/ タイに亡命してきたカンボジア人が、国内における政権反対派の大量虐殺を告発。 1976・10/ タイで軍部がクーデターを起こし、全土に戒厳令。 1977・7/ タイとカンボジア両軍が国境地帯で衝突。 1977・12/ カンボジアが侵略を理由として、ベトナムと断交。 1978・5/ ベトナムの中国系住民の国外脱出が増え、すでに13万3000人に及ぶと香港紙が報道。 1978・8/ 中越国境で中国軍とベトナム国境警備隊が衝突。 1978・11/ ベトナム難民を乗せた汽船がマレー半島沖で座礁、沈没し、203人が死亡。ボートピープルは75年には数百人だったが、76年に5000人、77年に1万6000人と増え続け、78年には8万6000人、79年前半には月間5万人を上回るようになった。 1979・1/ ベトナム軍がカンプチア救国民族統一戦線とともにカンボジアの首都プノンペンを攻略し、ポル・ポト首相の民主カンボジア政府崩壊。カンボジア人民共和国政府樹立。 1979・2/ 中国軍が大兵力でベトナムに侵攻。ベトナムの国境侵犯に対する反撃との名目だが、西側の観測はカンボジアのベトナム軍を牽制し、ポル・ポト政権を支援し、ベトナムに経済的打撃を与えるためとされる。 1979・7/ インドシナ難民、その中でも海上からのベトナム難民、ボートピープルが国際問題となっており、ジュネーブで国連難民会議が開かれる。 1980・6/ ベトナム軍がカンボジア領からタイ領内に侵入。
これらが一九七〇年代後半のインドシナ半島国家の状況であり、ベトナム戦争後の周辺諸国の動向に他ならない。このような東南アジアの現代史の流動状況をふまえ、谷の『バンコク楽宮ホテル』は書かれている。彼は一九七七年に海洋冒険小説『喜望峰』と『マラッカ海峡』(いずれもKKベストセラーズ)を同時刊行し、デビューしている。この二作は谷の外国航路を回る現役の1等航海士としての経験をダイレクトに反映させたものだったが、『バンコク楽宮ホテル』はこれらの海洋物と異なり、いわば陸物(おかもの)で、私見からすると、金子光晴の『どくろ杯』(中公文庫)などの東南アジア放浪記の影響下に書かれたようにも思える。
(徳間文庫版)(角川文庫版)
主人公の加田=「私」が巣喰っているバンコクの楽宮旅社は、タイトルに示されたホテルというよりも木賃宿にふさわしく、そのヤワラーと呼ばれる中国人街は「ごみごみした正体不明の路地が蜘蛛の巣のように錯綜している」。そして路地裏には「腐ったパイナップルのようなすっぱい臭いが充満し」、物乞いたちが通りすがりの人びとに哀れっぽく手を合わせている。このような描写は金子の『どくろ杯』における上海の街の体臭である「性と、生死の不安を底につきまぜた、蕩尽にまかせた欲望の、たえず亡びながら惨んでくる悩乱するような、酸っぱい人間臭」を想起させる。
日本の詩人ならぬ駆け出し作家である加田=「私」が物語の狂言回しを務めることになるのだが、やはり楽宮旅社に滞在したりしている日本人は自称ギャンブラー、フリーライター、旅行代理店現地ガイド、ボランティア志願者、ドラッグ中毒者、フォトジャーナリストたちで、ほとんどがバンコクでの体験を売りものにして、日本で有名になりたいと考えている。これらの登場人物たちも『どくろ杯』と共通し、時代の相違はあっても、七〇年代における所謂日本人ヒッピーのアジアでの跋扈を浮かび上がらせ、それとパラレルに大手新聞社特派員や難民ボランティアで名を馳せた女史評論家なども相対化される。なぜならば、それらの人々が日本における難民狂騒曲の発端だったからだ。
これらの日本人たちに加えて、楽宮旅行社を根城にしているのは娼婦たちで、その相場は日本円で五百円から千円とされる。『バンコク楽宮ホテル』はそのメオの描写から始まり、彼女の存在がこの物語とホテルを表象しているかのようだ。「メオは娼婦である。半年ほど前からこの旅社の隅の部屋にウィンユーと一緒に住みついている。メオとウィンユーはラオスから流れこんできた俗にゆう難民」であるゆえに、旅社に居つく他の娼婦からは疎外され、陰湿な確執も生じていた。メオの胸にある青い蛾の刺青は警察につかまった密入国の娼婦のしるしで、それは「ラオスを棄て、タイのバンコクで客をひさいでいる彼女の刻印」だった。
(徳間文庫版)
しかしメオは自らの選択でラオスを棄てたわけではない。真偽のほどは定かではないが、彼女は相当な家柄の娘、インテリ軍人だった父親がベトナムに後押しされたラオス革命政府による弾圧を恐れ、ビエンチャン陥落の一週間後に、一家全員でメコン川を渡り、タイのノンカイに脱出しようとした。ところがベトナム軍のスコールのような機銃掃射を受け、メオ以外はメコン川に沈んでしまった。彼女は無我夢中で泳ぎ、対岸のノンカイにたどりつき、野生のバナナや野ねずみを食べ、飢えをしのいでいたところ、タイの兵隊に発見され、輪姦され、放り出された。それからメオは盗みや身体を売ることを覚え、今日まで生きのびてきたのだ。だがチェンマイ出身の娼婦であるトワムワイはいう。
「プノンペンが共産主義者どもに占領されてから、ラオス人がタイにどんどん入りこんできてさ。頭にくるよ、あたいたちだった苦しいんだ。チェンマイの百姓は月三百バーツで地主の土地を耕してる。どの家も、子だくさんでさ、だからあたいたちはバンコクに稼ぎにこなきゃならない。それなのに、ラオスのやつらが自分の国を放り出し、居ついちまうから、ますますあたいたちの暮しが苦しくなる。だって七十万人のラオス人をあたいの国が食わせていることになるんだよ。事情を知らないよその国は難民難民って同情するけど、同情してもらいたいのは、あたいたちのほうさ」
ここに語られているのは娼婦と難民の関係だが、娼婦の仕事を他に置き換えれば、民族の混住を認めようとしないナショナリズム言説に共通するものだといえよう。しかし最も留意すべきは、出稼ぎ者や難民が娼婦となるしかない社会構造であろう。楽宮ホテルにたむろする日本人たちもいう。タイはどこにいっても娼婦(おんな)が安く、この二十年間で値上りしないのは娼婦だけだし、タイで最も豊富な資源は女で、外貨の稼ぎは一番ではないか。
「それにラオスから七十万人が流れこんいますし、カンボジア難民が百万人、ベトナムのボートピープルだった二十万人はくだりませんからね」
「そのうちの半分は女なものですから、女の大半がバンコクへもぐりこんで娼婦となる。自分の身体しか稼げるものはありませんからね、(……)。
日本は東南アジアではない。極東(ファーイースト)なんだ(……)。タイと日本を比較するのは無意味なことです。比較するなら、ラオスとタイ、インドとタイ、バングラデッシュとタイというように地続きの国ですね。そうなればタイのアジアで占めている国家的位置がわかるというものです。娼婦だってそうです。日本と較べられたらバンコクの娼婦も立つ瀬がありませんが、ビルマやバングラデッシュ、インド、カンボジアなど東南アジアの貧乏国の女と較べれば、彼女たちはどれだけしあわせかしれませんよ」
このような発言に露出しているのは八〇年前後におけるタイの日本人たちの実態、及び東南アジア諸国の娼婦と難民状況であり、『バンコク楽宮ホテル』はまさにそれらの三者の混住を必然的に描いてしまうことになる。またそこから逆照射されるのはインドシナ半島の戦争がもたらしたもの、もしくはアジアでいち早く消費社会化した「極東の貪婪な経済大国」日本とタイの関係に他ならず、それはアメリカと占領下にあった日本のメタファーで語られ、この物語にこめられた谷の眼差しを伝えているように思われる。
やはり一九八〇年代前半に毎日新聞特派員としてバンコクに駐在した永井浩は、八六年に『見えないアジアを報道する』(晶文社)を上梓し、タイの女性の位相についてレポートしている。そこで彼はチュラロンコン大学のパスク助教授の著書“ From Peasant Girls to Bangkok Masseuses”を援用し、タイにおけるセックス産業の発展は歴史、経済、社会的要因が積み重なり、独自の形態をとるに至った経緯にふれている。それらは供給地としての農村における女性の経済的な地位と役割、強い母系的色彩と経済的責任にまず求められ、その一方で、バンコクを中心とする都市の上流階級の一夫多妻や妾を持つことが富や権力のシンボルという男性優位イデオロギーが重なる。そして同様のイデオロギーを有する華僑の流入による、米を始めとする商業部門の支配、資本主義経済と都市の発展を通じてのそれらのイデオロギーの蔓延、インドシナ戦乱を契機とする米軍基地の設置、その撤退後に生じた国家的外貨獲得のためのセックス産業支援などが挙げられている。それらの大半が『バンコク楽宮ホテル』のベースに埋められた社会的ファクターだとわかるし、谷はそれらを難民の娼婦に象徴させ、書こうとしたのだと了承される。
しかしその谷恒生も先年鬼籍に入り、ボートピープルに象徴される難民の存在を「国境線上の第四世界」(『現代思想』1993年8月号所収)と呼んだ船戸与一も同様に今年に入り、亡くなってしまった。だが日本でも3.11によって難民が生じ、また現在のシリア内戦は国内外で人口の半分を超える一千万人以上の難民を生み出し、それらは今世紀を迎えても難民の時代が終わっていない事実を突きつけているのだ。
なお続編として2002年に『バンコク楽宮ホテル残照』(小学館)が書かれている。また現在のバンコクは、幼児売春や臓器売買をテーマとする、梁石日の『闇の子供たち』(幻冬舎文庫)でも描かれている。