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古本夜話510 渡辺海旭と相馬黒光『黙移』

本連載506などで、渡辺海旭が大東出版社の名付け親にして後ろ盾であったことを既述しておいた。その渡辺の生涯に関して、同じく大東出版社から刊行された芹川博通の『渡辺海旭研究―その思想と行動』(昭和五十三年)を参照してきた。その第四章「渡辺海旭と仏教界」の第四節が「出版物による布教」と題され、『大正新修大蔵経』の「刊行主旨」は高楠順次郎と海旭の名前で出されているが、海旭によるものであること、それに先立って、これも本連載105で取り上げた国民文庫刊行会の『国訳大蔵経』も海旭が監修していること、前回の東方書院の三井晶史(昌史)がその門下であることなどを教えられた。前回、昌史は晶史の誤植ではないかと書いておいたが、昌史が本名で、晶史のほうは編集者ネームとでも考えていいのかもしれない。

これらの出版のことはともかく、同じ章の第六節は「渡辺海旭の信者たち」で、相馬黒光を中心とするメンバーたちのことが語られている。海旭は増上寺で日曜講演を行ない、そこに集まった人々が相馬夫妻を中心として、命日の二六日に海旭をしのぶ壺風会を開いていた。この記述を読んで、本連載143「岡田虎二郎、岸本能武太『岡田式静坐三年』、相馬黒光」をすぐに連想した。黒光は静坐法の岡田の死後の空白を埋めるかのように、海旭に帰依していったのである。あらためて黒光の『黙移』(法政大学出版局、平凡社)を開いてみると、そこには岡田と海旭のそれぞれ一ページ写真が収録され、それは黒光にとって二人の存在がいかに大きかったかを示唆しているといえよう。
黙移   黙移

深く心酔していた岡田の大正十年の死に続いて、黒光は同十四年三月に長女をも失ってしまう。その葬式の大導師は海旭で、戒名も彼によるものだった。そのことを通じて、初めて黒光は仏縁を結ぶことになる。海旭は明治四十三年にドイツから帰国し、宗教大学、東洋大学教授となり、翌年には浄土宗立芝中学校長に就任する一方で、深川区に浄土宗労働共済会を設立し、仏教教育事業と社会事業の道を歩み出す。そして大正十二年からは増上寺教監となり、二年間にわたって早朝日曜講演を行なっている。これに黒光は参加したのであり、彼女は書いている。

 (前略)芝増上寺の葵の間で日曜講演の続講があると聞き、予めお許しを得て、維摩経を初めて渡辺先生に伺いましたのが、仏教入信の門出でございました。死んだ娘の見えない手が、とうとう母をここまで道案内してくれたものでしょう。
 先生が宗派にとらわれず、自由無礙の立場で現代と結びつけてお話し下さるのは、初学の私にはどんなに幸福であったかもしれません。(中略)
 しかし先生は大乗仏教を真向からふりかざして深遠な教えを説かれました。まず仏国品より方便品、弟子品、菩薩品と、回を重ねるに従ひ、私の魂はぐんぐんと奥へとひかれていきました。文殊師利間疾品に進み、そのクライマックスに達した時は全身を耳にして、一字一句でも聴き洩らすまいと努力する聴聞者の異状な緊張と感激と、薀蓄を傾ける氏の情熱とが融合一致した一種の法悦境にいる自分を見出す時、私の老いたる胸も歓喜にふるえるのでした。

これには若干の注釈が必要であろう。本連載でも後にふれるつもりだが、『維摩経』は大乗仏教経典のひとつで、従来の仏教のパラダイムを批判し、在家者の立場から大乗の空の思想を昂揚した戯曲的構成の傑作とされる。インドの長者で病中にある維摩を菩薩や仏弟子たちが見舞うのだが、全員が維摩にやりこめられてしまう。ただ文殊菩薩だけが維摩と対等に問答し、最後に維摩は沈黙によって究極の境地を示すに至る。

つまりいってみれば、海旭の『維摩経』講演における病中の維摩は、そのまま黒光の身に置き代えられ、その大乗仏教の教えは黒光にとって現代の物語として蘇り、講演者と聴聞者は一体化し、それが「一種の法悦境」をもたらすことによって、「私の老いたる胸も歓喜にふるえる」のだった。

これは黒光の有するシャーマン的体質を除いて考えても、彼女だけが体現していたものではなく、大正時代特有のシンドロームだったのではないだろうか。岩野喜久代の大正時代は一種のルネッサンスだったという『大正・三輪浄閑寺』における言を引いておいたが、黒光が伝える講演会メンバーも、「女性は絵かきが比較的多く、歌人など芸術的の人が大部を占めて」いたのは、まさに「何かその時代の色を語るものがある」と考えるべきだろう。

だがその海旭もまた昭和八年に亡くなってしまう。黒光の『黙移』はその翌年に『婦人之友』に連載され、同十一年に刊行されている。彼女は戦後の昭和三十年、八十歳まで生き、その間に『晩霜』も出し、一周忌記念として『滴水録』も上梓されているが、彼女がその後、岡田虎二郎や海旭のような存在に出会ってようには思われない。それも時代の宿命というべきものなのだろうか。

最後になってしまったが、芹川の著作における間違いを指摘しておかねばならない。本文や「年譜」で十二歳の海旭が明治十七年に「博文館の小店員となる」と記されているが、この事実を裏付ける注等は付されていない。海旭が博文館出身だという履歴は確かに興味深いもののように映るけれど、博文館の創業は明治二十年であるので、これは合致していない。しかしまったくちがっているわけでもないように思われる。坪谷善四郎による博文館の創業者『大橋佐平翁伝』を確認してみると、明治十七年に佐平は故郷の長岡で『越佐毎日新聞』を発行するかたわらで、『北越名士伝』という一書を出版している。また十九年には新潟で仏教新聞を発行し、仏教講読会を開いてもいる。おそらくこれらのどちらかに海旭は小店員として関わり、そのことで博文館にいたとされたのではないだろうか。


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