前回の谷恒生の『バンコク楽宮ホテル』の一文を書くために、難民写真集、タイ文献などに目を通した。それらは谷の小説のモデルとされている人物たちによる『難民 終りなき苦悩』(文・犬養道子、写真・小林正典、岩波書店)や『難民 国境の愛と死』(写真と文/酒井淑夫、国書刊行会)、またタイ史を含んだ和田久徳他の『東南アジア現代史4』(山川出版社)や綾部恒雄他編の『もっと知りたいタイ』(弘文堂、一九八二年初版)といった関連書だった。そして最も印象に残ったのは、難民キャンプや収容所が必ず郊外に設営されていること、それからタイがまったくのアジア的農耕社会に他ならないことである。このふたつの事実はタイにおける難民キャンプや収容所が農村の近傍にあることを意味している。
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それならば、タイの農村とはどのようなものであったのか。『バンコク楽宮ホテル』でもチェンマイ出身の娼婦が、年に三度の田植時期には商売を休んで帰郷することが書かれていたし、マレー半島の水田風景が列車の窓から見えていたが、農村そのものは描かれていなかった。そこでもう一編、当時のタイの農村についてふれてみたい。
先の『もっと知りたいタイ』に収録された「経済活動人口の就労状態」によれば、第一次産業に当たる農村漁業に占める割合は、1960年が82.4%、70年が79.3%であり、その産業構造はちょうど日本の明治時代初期に相当し、それは本連載117の来日異邦人たちが見た日本の「逝きし世の面影」を喚起させる。また同書には「都市と農村」の章も設けられ、全人口の85%が住む農村において、工業化に伴う肥料代や燃料費の値上りで、米作は利益を生み出さなくなる一方で、広告や宣伝による消費欲望が高まり、現金の家計支出が増え、日雇い、出稼ぎが恒常的になってきた状況がレポートされている。
そうした農村に対して、タイで近代都市とよべるのは人口五百万人を有するバンコクだけで、二番目の都市チェンマイは十万人余、三番目のメコンラーチャンは九万弱にすぎない。このようにタイは紛れもない農耕社会であるが、政治、経済、文化は首都バンコクを中心とし、その格差は激しく、都市住民の年間一人当たり所得は農民の六、七倍に及ぶとされている。
そのタイの農村を舞台とする小説を一冊だけ読んでいる。それはカムマーン・コンカイの『田舎の教師(せんせい)』(冨田竹二郎訳、井村文化事業社刊、勁草書房発売)である。一九八〇年代半ばにNHKでアジア映画が連続放映され、その中に同名の映画も含まれ、それを観たことで、原作小説も読むに至ったからだ。このドワンカモン映画社のカムマーン・コンカイ原作映画は七八年一月にタイで公開され、超ロングランとなり、タイ映画史上の新記録となるほどの大成功を収めたとされる。それに合わせ、同年三月に出された原作もベストセラーになったと伝えられている。日本での翻訳刊行や映画上映は八〇年である。残念ながら映画はDVD化されていないようなので、もう一度観ることができない。先の同書には映画のスチール写真と解説が八枚収録され、その記憶を少しばかり喚起してくれるが、拙稿は原作小説に基づく。
訳者の冨田竹二郎は原作者の協力を得て、このタイの東北部のラオスとカンボジアに接するウボンラーチャーターニー県の辺地の村の小学校を舞台とする作品に、予備知識としての「始め」を寄せ、次にように記している。
タイ国で大都会と言えば、やがて人口五百万に達するであろう首都バンコクのみで、あとは人口十数万の数市を除けば、すべてこれ田舎である。日本に較べればバンコク以外は全部田舎で、県庁や郡役所のある町以外は全部「辺地」とも言える。電気、水道、ガス、電話、鉄道、バスの通じていない所は多い。しかしこの作品の題名は「辺地の教師」ではなく「田舎の教師」である。バンコク以外は何処でも似たり寄ったりの田舎だという考えである。
これはタイ語の原題「クルー・バーンノーク」がそのまま邦訳タイトル「田舎の教師」であることの説明になっていて、それはほぼ一世紀前の一九〇九年に日本で書かれた田山花袋の『田舎教師』との共通性を想起させる。だがタイの農村では「田舎の教師」といってもエリートであり、花袋の小説に漂う「田舎教師」の哀感はないことを断っておこう。それに作者のコンカイは花袋と異なり、小説家ではなく、実際にタイ東北の貧農の家に生まれ、師範学校を出て「田舎の教師」を経験し、当時は文部省学術局の部長の地位にあった。だからこれも巻頭の「作者より」に示されているように、『田舎の教師』は「小学校教員の本当の話で、内容には田舎の人の生活や、東北地方の慣習や文化をできるだけ多く見せる」ことを主眼にして書かれている。それゆえにラストシーンは別にして、大半はリアリズム小説として提出されているといっていいだろう。
『田舎の教師』は主人公のピヤがバンコク師範を卒業し、自ら望んで故郷のウボン県の狂犬沼村(バーン・ノーンマーウォー)に赴任するところから始まる。彼は両親を小学生時代に失い、バンコクで住職をしている唯一の親戚である伯父を頼り、そこに寄宿し、有名な師範を卒業するに至ったのである。同じように地方の教師を主人公とする島崎藤村の『破戒』が「蓮華寺では下宿を兼ねた」と書き出されていたことも連想してしまう。この作品も花袋の『田舎教師』とほぼ同時代の一九〇六年に刊行され、これらの教師を主人公とする双方が農村を背景として成立していることは『田舎の教師』とまったく共通するもので、日本とタイと、国は異なっていても、そのような社会と時代において、教師という職業が固有の社会的位相を体現している存在であることも物語っていよう。
ただそれでも日本のこれらの作品に比較し、突出しているのは『田舎の教師』の故郷への愛着で、両親は田畑や家も残してくれなかったにもかかわらず、故郷を思う気持が強かったのであり、それが帰郷を兼ねる赴任の最も大きな要因だった。
それでもなお彼は、幼少のころの生活状況を心に留め、そのすべてが今なお記憶に残り、彼をして故郷を追想するように誘うのである。田んぼ、疎林、丘、高原、谷川や沼であろうと、暑季の乾燥と灼熱、雨季の緑と豊穣、寒季の寒さであろうと、東北歌謡師(モー・ラム)、笙(ケーン)の響きを聞くたびに、また降雨雷鳴の音を聞くたびに、他の東北の田園出身者と同様に、ピヤは故郷が恋しかった。
また伯父もいう。「わしらの村に帰れ。帰って村の兄弟たちの役に立て」。同じ土地の人間は血がつながっていなくても兄弟だし、人間は勉学によって人間的に成長する。だから彼らに知識を与え、光明を授けるべきだと。ここでは都市での立身出世よりも、農村における知識人としての啓蒙の役割が重視されていることになる。それは一九七〇年代まで続いていたタイの社会的エトスの表出を伝えているのだろう。
そのようにピヤは新任教師として、バスで村に向かい、彼が他所者(よそもん)ではなく、同じ土地の者とわかり、校長と村長の歓迎を受ける。校舎はこの土地の木材を使った大きな木造家屋で、建ててからもう何年にもなるが、いまだに未完成だし、壁も入口の扉も窓もなく、床も地面のままだった。生徒は九十八人で、その顔つきや肌は栄養失調状態を示し、衣服は古び、色もあせ、継ぎが当たっていたけれど、新しい先生を見て、彼らの顔には微笑の色が浮かんでいた。ピヤは小三と小四の四十人を受け持つことになった。彼は「最良の田舎教師」たらんとし、他の生徒も含めて、「皆さんを弟や妹のように教え、しつけ、可愛がって行くつもりです」と挨拶する。その後で校長はピヤにいう。「何もそうたんと教えんでもええんじゃよ。算数と国語だけで十分じゃ」と。
ピヤの村と学校での生活が始まっていく。それらはおそらく一九七〇年代のタイの東北の農村の現実そのものだと思われ、学校の出来事とパラレルに村の生活とその実態も浮かび上がり、『田舎の教師』が小説と民俗のレポートの双方の役割を有しているとわかる。ピヤが下宿した校長の仕事や生活状況から、村の結婚式や葬式、田植えや穫り入れなども描かれ、とりわけ秋の収穫時はどの国でも共通するもので、「村内生活は幸福に満ち溢れ」、この地方特有の「田中の稲と水中の魚は豊穣であった」と記されている。田植えが終わり、穫り入れまでの間、女はござを編んだり、糸を紡いだり、機で布を織ったりする。その一方で、男は田と水牛と水を管理し、雑草を駆除し、魚や鳥などを獲ったりした。「みんなが生業(なりわい)を立てるために、めいめいする仕事があり、田舎の人には田舎の人なりに幸福がある」のだ。
(タイ叢書『田舎の教師』)
ピヤもまた中古自転車を入手し、前任者が住んでいた荒れ小屋を手入れして引越し、生活に必要な井戸を掘る。「わたしは幸せになりたい。そして他の人びとをも幸せにしたい」という思いで、貧しい生活の中で、飲食の習慣によって病に倒れた生徒一家を助けようとし、そのために生徒と一緒に魚とりに励んだりもする。その中で彼は村の人々からの信頼を得るようになっていく。このようなストーリーはまたしてもではあるけれど、島木健作の『生活の探求』(河出書房、一九三七年)を想起してしまう。
そうしたピヤを生徒たちの他に、同僚の若き女性教師ドワンダーオ、同じく現代的教師ピシット、気遣い幽霊と呼ばれる、楽器と魚とりの名人チャーン・ケーン、元衛生兵のにせ医者ゾムバットなどが取り囲むように配置される。ドワンダーオはGパンをはいた美人のお嬢さんで、物語のヒロイン的役割を担い、チャーンは村の変わり者としてトリックスター的存在を務め、小説としての『田舎の教師』に色彩を添えている。これらの主要な登場人物たちに対して、悪役として召喚されるのは村の分限者、商売と金貸しによって財をなし、精米所やバス事業を営むチャーン・コーン、その上に立つウボンの大商人で、華僑の舎・竜(シアーマン・コーン)であr。この二人は農耕社会に出現した近代的資本主義の象徴であり、後者は華僑としてヨーロッパにおけるユダヤ人のように造型されている。
そして秋になり、材木運搬用のトレーラーと十輪トラックが村に入り、学校の横を通り、ジャングルの奥に消えて行くのをピヤは目撃する。彼は森の中に残された車の跡をたどり、チェーンソーや巨木の倒れる音のする奥へと入っていった。すると出現したのは材木運搬トレーラーや巨木を伐り倒す職人の飯場小屋で、それは森林の価値と神秘性を破壊する密伐の現場だった。ピヤはそれらのすべてを写真に撮り、タイの全土に拡がっている森林破壊に抵抗するために、フィルムを友人の勤めるバンコクの新聞社に送った。
その記事と写真が掲載された新聞は、ドワンダーオが設置した新聞閲覧所でも読まれ、舎・竜たちの密伐はウボン県知事の責任問題にもなろうとしていた。そこで舎・竜たちは新聞社に写真を送った犯人探しに躍起になり、ピヤは殺し屋に狙撃され、即死してしまう。そしてラストシーンは次のように結ばれている。
ドワンダーオは、なぜピヤ先生のような人が、このように射たれて死なねばならないのか、理解できぬ子供たちに取り囲まれながら、少女がお気に入りのお人形を抱きしめるように、すでに霊魂の抜けた、ピヤの遺体を胸に抱きしめて支えていた。
先にこのラストシーンは『田舎の教師』のリアリズム小説と異なるものではないかと記しておいた。しかしベネディクト・アンダーソンの『比較の亡霊』(糟谷啓介他訳、作品社)の「現代シャムの殺人と進歩」の中で、タイにおける「ローカルな殺人」への言及を読み、このラストシーンも他ならぬリアリズムそのものであることを理解した。アンダーソンによれば、それは七〇年代に起きた「地主、実業家、汚職まみれの村長をはじめとする地方有力者の権力と利権を脅かすと考えられた農村指導者、労働組合員、ジャーナリストに対する殺人」で、「地方有力者が雇った殺し屋(ムー・ブ―ン)によって実行された」という。
確かに『田舎の教師』の殺し屋も、アンダーソンのいうベトナム戦争時代の殺人要員の一人のように描かれている。とすれば、コンカイの『田舎の教師』は現代リアリズム小説としては紋切り型で、物語としてタイの農村の学校状況、農村の風習や民俗のレポートの色彩も強く、文部省上層部に籍を置く人物が書いた映画原作と見なしがちだったけれど、コンカイがこの作品にこめた思いは、ピヤ=自分と等身大だった教師が殺されてしまう、タイにおける不条理を象徴させる、このラストシーンにあったのかもしれない。またそれゆえに映画も大ヒットしたと考えられる。
なお『田舎の教師』は二〇一〇年に同じ監督によってリメイクされているようだが、こちらは未見である。