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古本夜話516 マックス・ミュラーの小説『愛は永遠に』

これは戦後の出版ではあるけれど、マックス・ミュラーの唯一の文学作品『愛は永遠に』が昭和二十八年に相良守峯訳で角川文庫から刊行されているので、この小説も紹介しておきたい。

その前にこれまでマックス・ミュラーに言及してきたが、詳しいプロフィルを提出してこなかった。それゆえにまずは彼の生涯をトレースしてみる。ミュラーは一八二三年中部ドイツ生まれ、父は早逝した詩人で、その詩はシューベルトの「冬の旅」や「美しき水車小屋の女」といった歌曲にもなっている。父の影響もあり、ミュラーは詩を好み、音楽にも魅せられた。だがそれらの方面には進まず、ライプツィヒ大学に入り、古典文献学、サンスクリット、哲学を学び、二十歳で哲学博士号を取得する。その後ベルリンに移り、サンスクリットと、比較言語学者フランツ・ポップ、哲学者シェリングのもとでも学び、フランクフルトではショーペンハウエルとも会っている。それからさらにサンスクリットを学ぶために、パリのウージェーヌ・ピュルヌフのところに赴く。この頃ピュルヌフは『リグ・ヴェーダ』の講義を行ない、ミュラーヴェーダの校訂テキストの作成に取り組むように勧めた。テキスト校訂の仕事は文献学者と翻訳者の両者を兼ねるし、『リグ・ヴェーダ』は讃歌集であり、詩であるから、神話と宗教のテキストということになる。かくして彼は文献学者、神話学者、宗教学者となる道を歩んでいく。
リグ・ヴェーダ讃歌 (『リグ・ヴェーダ讃歌』、岩波文庫版)

一八四八年にミュラーは『リグ・ヴェーダ』のテキスト校訂と翻訳のためにイギリスに向かい、オックスフォードで文献学者としての生活を始め、五四年には教授の地位を得て、神話や宗教研究も進めていくことになる。また彼の妻はラスキンの娘で、二人は協力してカントの『純粋理性批判』の英訳を刊行している。『東方聖書』の企画編纂と翻訳、南条文雄や高楠順次郎との師弟関係は既述したとおりだが、日本のサンスクリット研究のみならず、宗教学、言語学、神話学もミュラーの大きな影響を受けていることはいうまでもないだろう。

ミュラーの軌跡と周辺事情について、少しばかり長くなってしまったが、ここで『愛は永遠に』、という小説に移りたい。これは八つの「思い出」からなる中編小説で、その「最初の思い出」は次のように始まっている。

 幼いものは、幼いながらに秘密と驚異とをもっている――けれど誰がそれらを物語り、また解き明かすことができよう。われわれは誰でもこの静かな驚異の森を通りぬけてきた。――われわれは誰でもかつて幸福なる眩惑のうちにこの眼を見ひらいた。すると人生の美しい現実は潮のごとく押し寄せて、われあわれの心を浸したものである。そのとき、われわれは自分がどこにいるのか、また自分が誰であるのかを知らなかった。――全世界はわれわれのものであり、われわれはまた全世界のものであった。それは始めも終りもなく―休止もなく苦痛もない――永遠なる生命であった。(……)

ここに表出しているのは紛れもないドイツロマン主義の揺曳で、それが「静かな驚異の森」のメタファーとして語られ、「私」の記憶が浮かび上がっていく。子供の頃、父と一緒に、教会の向い側にある多くの塔を備えた城に出かけた。すると美しい婦人が現われた。「私」はじっとしていられなくなり、駆けていって彼女にすがりつき、接吻をした。しかし父はそれを不作法だと叱り、母も同じ意見だった。「妃殿下」は好きになってはいけない「よその人」だったからだ。だが「子どもの心に目ざめる憧れは、最も純粋でかつ深い愛である。それは世界を包むところの愛である」のだ。それは永遠のものであるかのように再現されていく。

そうして少年となった「私」の前にマリアが現われる。彼女はいつも病気で寝椅子に横たわっていたが、眼には神秘的深みがあり、優しくて美しかった。「私」は大学生になり、夏休みに郷里に帰ると、マリアからの手紙が届き、会いたいと書かれていた。「私は仮面舞踏会にいくようなぎこちなさで出かけていったが、それは病が進行していた彼女も同様であった。それでも翌日もまた出かけ、彼女と神学論争を交わしたり、アーノルドの一編の詩「埋もれた生命」を読むように仕向けたりした。その一節は「いとしきものよ、汝が手をわが掌に置け/詞なく、ただ身を寄せて、/汝がさやけき瞳のうちに/心の深淵を覗かしめよ。」というもので、それが「私の告白」に他ならなかったからだ。

しかしその翌朝にマリアの老侍医が訪れ、彼女に合うことを止めるようにと伝えた。「私」は旅に出たが、田舎に引きこもった彼女のところに会いにいってしまう。すると彼女はワーズワースの詩「高地の少女」を読んでほしいという。それは別れを告げる一節を含んだ詩に他ならず、彼女の心境を伝えるものだった。そして彼女は最後に告げる。「私はあなたのものです。それは神の御こころなの。(……)来世にはもっと仕合せに生れて、ご一緒になり」たいと。二人は抱き合い、これが今生の別れとなる。

ゲルマンの森、城と貴族、無垢な少年、病に伏す美しく神秘的な娘、彷徨える大学生、病で若くして死んでいくマリア、成就しない恋と愛の不可解な謎、これらの『愛は永遠に』の物語コードはドイツロマン派の色彩に染められているが、サンスクリット文学も垣間見られ、このドイツロマン派的物語の隠し味になっているようにも思える。それはマリアの次のような言葉に表出している。少しアレンジして示す。「(……)人間は時々、森を飛ぶ鳥のようになって、木の枝の上でお互いに出会い、紹介もされずに一緒に歌をうたうような身分になりたいと思うこともある」。でも同じ鳥であっても梟や雀もいるし、同じようには唄えない。それが世の中というもので、その多様性が社会にとっては重要なのです。

このマリアの言葉から、私はル・クレジオ『物質的恍惚』豊崎光一訳、新潮社)のエピグラフに掲げた一節を想起した。それは「分かちがたく結ばれた二羽の鳥が、同じ木に住まっている。一羽は甘い木の実を食べ、もう一羽は友をながめつつ食べようともしない。」というものだ。『リグ・ヴェーダ』などが出典だと記されている。これもまたミュラーの『リグ・ヴェーダ』翻訳と編纂のこだまのように思われる。
物質的恍惚 (岩波文庫版)

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