太平洋戦争における日本の敗戦とGHQによる占領が強制的といっていい混住社会を出現させたことに関して、本連載でも繰り返しふれてきた。しかしそれは日本ばかりでなく、その混住の位相は異なっていても、日本の植民地でも起きていた現実に他ならない。例えば、それは台湾も同様であった。戦前の台湾については本連載104と105で取り上げてきたが、ここでは同106に続いて、戦後の台湾を見てみたい。そこではどのような状況が出来していたのか。
その前に伊藤潔の『台湾』(中公新書)などを参照し、台湾の歴史をトレースしておこう。十六世紀半ばにポルトガル人によって発見された台湾は、全域に及ぶ多様なマレー・ポリネシア系の先住民(現在では高山族、日本占領下では高砂族)とわずかな漢族系の移民からなる島国だった。なお先住民に関しては、本連載104「ウェイ・ダーション『セデック・パレ』」において、すでに言及しているので、そちらを参照されたいが、その後彼らはアメリカ大陸の先住民インディアンやインディオと同じ運命をたどることになる。
その始まりは十七世紀前半におけるオランダの台湾占領で、それは意外にも先住民や移住民の抵抗を受けず、むしろその協力を得て、オランダはただちにゼーランジャ城とプロビンシャ城の二つの城塞を築いた。プロビンシャ城は今日の台南市の発展の基礎となり、この城塞を中心にオランダの支配地域は拡大していった。それとパラレルに先住民は初めて支配される立場に追いやられ、自由な天地を失ってしまった。そのために先住民の抵抗と蜂起も数多く生じた。オランダの支配はキリスト教による教化と武力による鎮圧だったが、宣教師たちが最初に台湾にキリスト教とヨーロッパ文化をもたらしたことも事実である。その一方で、オランダは先住民の土地と移住民の労働力によって莫大な利益を上げ、中継貿易でも暴利をむさぼり、すべての土地をオランダ連合軍インド会社の所有とし、農業開発を推進し、とりわけ砂糖きびのプランテーションを通じて、砂糖産業を育成し、その後三百年に及ぶ重要な輸出物へと成長させた。
オランダの台湾支配時代にあって、中国の明王朝は清王朝に取って代わられようとしていた。明王朝は東アジア海域に勢を張る海賊の頭領の鄭芝竜を招撫し、その軍事力と資本力に期待をかけた。鄭芝竜は日本人女性との間に、後に名を成功と改める長男の鄭森をもうけた。鄭成功は明王朝再興実現のために、台湾を侵攻し、オランダの三十八年にわたる台湾支配に終止符が打たれた。鄭氏政権下の台湾はオランダ所有の土地を没収し、新政権のものとなし、新たな農地開発と土地の私有制度を導入するに至る。鄭成功は台湾に到着して一年足らずのうちに亡くなるが、その重臣陳 栄華が台湾経営を引き継ぎ、統治の基本となる行政機構と制度を整え、住民教育や海外貿易も進めた。
しかし清王朝は反清復明を国是とする台湾の鄭政権の存続を認めず、鄭氏を裏切った施琅に台湾を攻略させ、二十三年間の鄭氏政権は幕を閉じ、清国は台湾領有の詔勅を下す。それは一六八四年で、その後二一二年にわたって続くことになる。ただ清国の台湾経営は消極的で、治安維持に重点がおかれたのも、風土病の蔓延、毒蛇の棲息といった生活環境、「五年一大乱三年一小乱」という多くの移住民による武力蜂起や騒擾事件のためだった。だがその後、阿片戦争の余波を受け、欧米列強へと開放されていき、日本も台湾進出を目論んだ。
日本は一八七四年の台湾出兵を経て、九五年に日清講和条約締結後に台湾を占領した。当時の台湾人は先住民四五万、移住民二五五万の三〇〇万人と推定され、先住民、移住民の双方が日本の占領に対して激しく抵抗し、日本軍戦死者が二七八名だったことに比べ、台湾側の戦死者と殺戮された者は一万四〇〇〇人に及び、まさに玉砕戦の様相を呈していた。武器らしき武器もなかった台湾側は日本軍の近代的兵器の前に敗れるしたかなかったのである。そして日本の台湾統治が始まっていく。ただ権力を集中させた台湾総督府にとっても、武力抵抗に対する鎮圧は困難を極めたようだ。だがそれは台湾人の日本国籍化の選択、台湾総督府民政局長後藤新平による「生物学的植民地経営」に基づく台湾財政の独立と統治の確立を通じて、つまりアメとムチを併用することで、武力抵抗を終息させていった。
またその一方で、学校教育の普及、インフラの整備、産業の振興が推進され、二〇世紀に入ると、台湾は目覚ましい産業の発展によって財政の独立をも達成するに至り、植民地の鏡のような存在となった。一九一九年に落成した台北の台湾総督府はそれらを象徴するものだった。しかし四一年の太平洋戦争の始まりによって、日本の植民地である台湾も否応なく戦時体制となり、台湾人の「皇民化」、台湾産業の「工業化」、台湾を東南アジア進出基地とする「南進基地化」が当地の基本政策となった。だがそれらも日本の敗戦で大転換を迫られることになった。それは在台湾の軍人も含めた約五〇万人の日本人も同様で、そのうちの四六万人が本土に引き揚げ、台湾総督府も廃止され、四六年に日本の台湾統治は終わりを迎えたのである。
これに代わって、台湾は蒋介石の国民党軍により占領され、すべての土地を住民は中華民国国民政府(国民党政権)の主権下に置かれることになった。そして台湾は「祖国」に復帰し、台湾人の国籍は中華民国となり、「本省人」と称され、中国から新たに渡ってきた中国人は「外省人」と区別された。国民党政権は台湾占領により、領土と莫大な財産を手中にし、日本の統治機構を継承し、それらは数年後の政権の中国からの台湾移転を可能とする棚ボタ式恩寵ともいえた。
しかし新たな統治者となった国民党政権の独裁、官僚の汚職や着服の横行、特務による監視網、経済破綻と社会混乱は台湾人の怒りと不満を招いた。それは四七年の「二・二八事件」へと突出する。台湾人寡婦が密輸タバコを売っていたところ、取締員がタバコだけでなく、所持金まで没収し、しかも殴打され、血を流して倒れたことから、群衆が憤激し、取締員たちを攻撃した。すると取締役が発砲し、一市民が即死するに及んだ。それを機にして、群衆が抗議デモを行なうと、憲兵が機関銃で掃射し、数十人の死傷者が出る惨事となったことで、台北の市民が立ち上がり、市中は騒然となった。それに対し、警備総司令部は台北市に戒厳令を出したが、抗議と騒動は全台湾に及び、国民党政権への不満と怒りが爆発したのである。憲兵隊や警察の発砲による鎮圧は事態をさらに悪化させるばかりだった。
台湾人側からなる事件処理委員会は官僚汚職と政治改革の実現をめざしていたが、国民党政権は中国から増援部隊を呼び寄せ、台湾人の無差別殺戮と粛清に取りかかり、一ヵ月余の間に殺害された台湾人は二万八〇〇〇人に及んだという。台湾人の指導者や知識人はほとんどが殺害されたり、長期にわたって投獄されてしまった。「二・二八事件」にふれることはタブーとなり、国民党一党独裁と蒋家の支配体制と戒厳令が八〇年代後半にまで続いていくのである。
台湾の近世、近代史を簡略にたどるつもりだったけれど、オランダに始まり、鄭氏政権、清国、日本と続き、そして戦後の国民党政権に至るまでの四百年近くに及ぶ植民地化と統治、占領は、日本のアメリカによる七年間の占領の比ではなく、つい長くなってしまった。それは先住民と移住民からなる台湾人の反乱と蜂起、抵抗と粛清の歴史でもあったからだ。
このような台湾近代史とパラレルに生きた一人が邱永漢で、彼は一九二四年台湾に生まれ、台北高校を経て、東大経済学部に入り、日本が敗戦した四五年九月に卒業し、大学教授になるつもりだったので、そのまま大学院に進んだ。ところが四六年二月、台湾に日本人復員者や引揚者を迎えにいく船が出るので、再び日本の土を踏むことができるだろうかと思いながらも、邱は両親のもとに帰ることになった。それは日本の戦後の惨状と占領下の現実を見ていたからだ。その日本に比べ、台湾は希望の地に見えたのである。邸は『私の金儲け自伝』(PHP文庫)の中で、その時の思いとそれに続く「純真な気持ちをもった青年にとって、あまりに見るに耐えない現実」について書いている。
台湾に帰るとき、私は「これで台湾も植民地統治から解放された」から「自分たちの新天地をつくることができるぞ」という意気込みだったが、実際は植民地解放どころか、日本時代よりもっとタチの悪い腐敗と恐怖の支配者が大陸からやってきていた。国民政府が派遣してきた陳儀の政府は史上稀に見る恥知らずの汚職官吏の集まりであり、のちに陳儀自身が中共に寝返りを打ちそこなって蒋介石に処刑されている。
帰国後、そのような状況において、邱は紀伊國屋文左衛門ばりの生き方を選ぼうとし、当時貴重品だった砂糖の漁船での日本への密輸を試みたが、三回も失敗し、なけなしの金を失ってしまった。それで生活の糧を得るために銀行に勤めた。そこに「二・二八事件」が起きたのである。邱は事件に直接関わっていなかったので、殺されずにすんだけれど、台湾の東大仲間三人が殺されていたこともあり、その後、彼は香港から国連に宛てて「台湾に国民投票を実施するための請願書」を出した。それは世界各地に報道され、台湾でも無視できないニュースになり、しかも台湾からきた銀行関係の人間が書いたものだという噂が伝わり始めた。邱は身の危険を感じ、金を工面し、四八年十月に香港へと逃れた。その翌日に警備司令部の捜査員がやってきたことからすれば、間一髪で命拾いをしたことになる。それから彼は香港で六年間暮らし、A級国事犯とされ、亡命者として台湾へも帰れない身となったのである。
そして邱は香港で「金儲け」に携わる一方で、戦後の体験に基づき、小説を書き始める。「私は、戦後の台湾に二年、香港に六年も住み、ふつうの日本人には想像もできないような異常な体験を積んだので、体験を一種の貯金と考えれば、相当の文学的貯金を持っていた」ことにも起因している。それもあって、五四年に日本へと向かい、小説家としての生活を送り始める。香港での体験は『香港』(近代生活社)として結実し、直木賞を受賞するに至る。台湾の「二・二八事件」は『密入国者の手記』『濁水渓』(現代社)、『刺竹』(清和書院)などで様々に変奏されて描かれ、台湾の戦後ならではの社会状況と光景を浮かび上がらせることになる。
ここでは前々回「戦争花嫁」に言及し、また邱の砂糖をめぐる仕事にもふれたので、『密入国者の手記』に収録された五編の作品のうちの、最も短いものではあるけれど「敗戦妻」を取り上げてみよう。これは同書の「検察官」などの「二・二八事件」をテーマにした作品ではないが、台湾の戦後と日本の敗戦が交錯し、ありえたであろう「敗戦妻」の存在を描き出している。
この短編は四五年末から翌年にかけての徐義新の回想からなり、当時は花形である砂糖のブローカーをしていた。砂糖の産地は台中から高雄にかけての台湾中南部地帯だが、その中でも嘉義平野が宝庫といってよく、莫大な砂糖が製糖会社の倉庫だけでなく、田舎地主の穀物倉庫にまで堆く積まれたままで終戦を迎えていた。戦後砂糖一斤は野菜一斤より安いという奇現象を呈していたが、そこへ上海商人が買い付けに押し寄せたことで、砂糖の値段は鰻上りとなり、北部と南部とでは砂糖の相場に開きができていた。
そうした戦後の砂糖ブローカーとして義新は安い砂糖を求め、月に何度も嘉義まで降りてきていた。そのパターンは夜明けに嘉義駅で降り、旅館を陣拠とし、砂糖を現金で買い付け、それを積んだ貨車に乗りこみ、台北まで運ぶというものだった。ある時、義新は下り列車の中で中年の商人と隣席になり、嘉義の旅館はきたなくて、いつも大入満員だとこぼしたところ、その商人は嘉義で一度も旅館に泊まったことがなく、「旅館よりも清潔で、きれいな日本人の女までいる所」に泊まると応じた。そして「生活に困った日本人が考えだしたものでしょうが、旅館と同じだけの金を出すと、女がいて適当に賄ってくれる。旅先にいながら、まるで家にいるようで、女もなかなか親切ですよ。しばらくいると、だんだん帰りたくなくなります」と続けていた。
義新にとっては耳寄りな話で、彼にその紹介を頼むと、名刺にそれを書きこんでくれた。そこで嘉義駅に着くと、人力車で教えられた番地をめざした。そこは「公学校らしい建物の見える付近に、ぽつぽつと焼け残りの日本家屋が並んでいる」一帯にあった。ただどの表札も「本島人名前」に変っていて、それは家屋の接収にくる中国人の目を避けるためだと思われた。
仲介役の中年の「日本人の小母さん」は義新の喋る日本語が流暢だったことからか、好意的で一戸建の三間の小さな家に案内してくれた。そこには丸顔で色白の可愛らしい目つきの二十一、二歳ぐらいの南美子という女がいて、彼の知っている女の子にはっとするほどよく似ていた。彼女は通学途中のところに住んでいた、おそらく総督府に勤めていた内地人の娘で、名前も知らなかったが、道で顔を合わせているうちに笑顔を見せるようになり、彼はひそかに恋するようになった。もちろん「彼の恋は単なる独りよがりで、自分でも片思いが遂げられるとは思ったことがない。たとえてみれば、お伽噺の中で、王女様に恋する黒人の奴隷のような気持」だったのである。
だが南美子のほうは台湾生まれの内地人で、日本が戦争で敗けたことで「王女様」のようではなく、とても「哀れっぽい顔」をしていた。彼はそれを気の毒だと思いながらも、「敗戦は不思議な効果」をもたらすと考えた。彼が仕事を終えて帰ると、すでに夕食の用意ができていて、彼女は風呂で彼の体をも流してくれが。話からすると、どうも彼女の両親も不慮のうちにあるようなのだ。
いずれ金に困ったのでなければ、こんな暮しをやらないにきまっている。戦争が終わってからはなにもかも逆になってしまったのだ。本島人の上に君臨していた内地人は同じ役所に勤めても、本俸の上に六割の加給がついており、ある年限がくれば恩給で安易な老後を送ることができた。(……)この五十年来、台湾は日本人にとって文字どおりの楽園であった。それが敗戦によって逆転してしまったのである。金のある連中は家財道具を売って暮らす手もあるが蓄えのない連中はその日の生活にも困るようになってしまった。街を歩くと道端で物売りをしている日本人がたくさんいる。それらの人々のなかでも、南美子の一家はおそらく最も悲惨な境遇に追いつめられたのであろう。
そのような事情ゆえに、引揚げの船を待ちながら、家族を養うために、南美子は私設旅館と娼婦を兼ねる仕事を始めていたと推測できるのだが、義新にとっては「長いあいだの夢が実現」したことになる。彼女と一緒の嘉義滞在生活は「まるで新婚家庭のような、新鮮な空気が家の中に溢れていた」からだ。そして二人は初恋の人のことを語り合う。南美子の初恋の人は台北大学の学生で、台北空襲で死んでいた。
しかし半月後に義新が嘉義にやってきた時、その家に南美子の姿はなかった。内地へ引き揚げたと隣家の者から聞かされた。彼は彼女との短かった生活が紛れもない敗戦がもたらした不思議な「蜜月」だったと思うのだった。この作品を読み終えると、あらためて「敗戦妻」というタイトルがリアルに迫ってくるのである。
なお「敗戦妻」が収録された『密入国者の手記』のテキストは、一九七二年に刊行された徳間書店の『邱永漢自選集』第1巻所収によった。