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古本夜話527 洛陽堂と山崎延吉『農村教育論』

大正三年に洛陽堂から山崎延吉の『農村教育論』が出されている。定価一円九十銭、菊判上製五百五十ページに及ぶ大冊といっていい。私の所持する一冊は裸本だが、おそらく箱入だったと思われる。凡例の言からすると、山崎にとってこれは『農村自治の研究』に続く二冊目の著書とされる。この奥付には六月初版、七月三版発行とあり、その「第三版序」には「此著今三版を重ぬるに至る、之れ書肆の売るに勧めたる結果か、抑も亦読者の要求切なるによるか」という一文が見えていた。

『農村教育論』の内容は農村と農業の現在状況を鑑みた上で、農村の様々な教育問題を論じ、農村と農民は国家政治、国民経済の根底と見なし、両者の隆盛は農村教育の在り方によっていることを訴えている。それらはタイトルからして当然なことだが、この一冊と照応していると思われる巻末の一ページずつの四冊の広告が気にかかるものだった。

 1 新渡戸稲造国府種徳、横井時敬序
    天野藤男『農村と娯楽』
 2 徳富蘆花国府犀東序、平福百穂
    天野藤男『田園趣味』
 3 石黒况齋翁、井上神社局長他序文
     山本瀧之助『地方青年団体』
 4 石黒男爵序文
    山本瀧之助『一日一善』

まずどうしてこれらの山崎の著作を含めた農業、農村関連書が洛陽堂から出されたのか、その事情を知りたいと思った。それは従来の洛陽堂の『白樺』や「白樺叢書」などの文芸書のイメージと合わないからだ。それから私は本ブログで「混住社化論」を書いているが、その72で論じた内務省地方局有志『田園都市と日本人』(講談社学術文庫、原タイトル『田園都市』博文館、明治四十年)と、これらの出版物が併走するような関係にあるのではないかと思われたことにも起因している。
田園都市と日本人

そこで橋川文三の『昭和維新試論』(朝日新聞社、昭和五十九年)を再読してみた。これは日清、日露戦争を経て起きつつあった明治日本から帝国日本への移行における政治と大衆の意識の隔離を背景とする、まさに「昭和維新」がテーマとなっている。すると明治末期に始まる官僚の国家構造再編運動、すなわち「第二の維新」としての「地方改良運動」の章に山崎の名前は出てこないが、その推進者だった官僚として、『田園都市』の監修者井上友一、その近傍にいた内務省嘱託の漢詩人国府犀東が登場している。橋川は国府の「故井上友一君断片伝」を引きながら、書いている。
昭和維新試論(『昭和維新試論』、講談社学術文庫版)

 現実に「地方改良運動」の推進力となったものは、当時大学を出て地方の郡長になったばかりというような官僚を含めて、およそ二十代から三十代の新進官僚であったと見てよい。この運動の全体の印象をいえば、それはそれらの若年官僚が、全国各地から上京して地方局をたずねてくるおびただしい「町村長や篤志家、篤行者はいうもさらなり、社会事業家、神官、僧侶など」をまきこんで展開した、ほとんど「処士横議」というに近い運動であった。しかもそれは、たんに個人同士の接触というのではなく、「地方改良事業」という名目の予算措置を背景とする「地方改良事業講習会」を中心としてひきおこされたキャンペーンであった。

大正後半は各地で大部の「郡誌」が編まれ、「郡誌」の時代が出現し、各地方の社会民俗状況が記録されたのはこの予算のついた「地方改良事業」によっていると推察される。これに関連して、私も「郷土会、地理学、社会学」(『古本探究3』所収)という一文を書いている。
古本探究3

この「地方改良運動」に携わった内務官僚たちに多大な影響を与えたのが、日本における近代的青年団運動の創始者の山本瀧之助であるとし、橋川は先に引いた『農村教育論』巻末広告に見られる山本の『地方青年団体』を挙げている。山本によれば、帝国青年会は一万二千町村青年会からなり、これを教育から見ると実業補修学校、もしくは町村大学だから文部省、農事から見ると農商務省、軍事の側からは中隊で陸軍省が支配するところとなるが、何よりも重要なのは、この一万二千町村青年会をコアとする帝国青年会は内務省そのものを意味するのである。

つまり先述した洛陽堂の農業、農村関連書の出版は、このような内務官僚たちの「地方改良運動」に寄り添っていたことになる。それらの経緯と事情が田中英夫の『洛陽堂河本亀之助小伝』の上梓によって、ようやく明らかにされたのである。山本瀧之助は亀之助の同郷の向学心に富む後輩だったが、暮らしに余裕がなく、進学できず、十六歳で役場雇、それから小学校雇、准訓導になった。そして学校や役場からかえりみられない尋常小学校を出た若者たちを支える少年会を設立する。これが青年団の先駈けであった。それを全国に広めていくことを目的とし、同郷の亀之助とのつながりから、明治三十七年に山本は国光社を発行所、印刷人を河本亀之助として『地方青年』を刊行する。
洛陽堂河本亀之助小伝

その関係から亀之助が明治四十二年に創業した洛陽堂の最初の出版物として、山本の『地方青年団体』、続けてその五日後に竹久夢二の『夢二画集春の巻』を出している。さらに四十四年に亀之助は洛陽堂の別会社として良民社を発足させ、山本の個人編輯による青年団運動のための月刊誌『良民』を創刊する。山本は内務省の「地方改良運動」との連携ゆえか、小学校校長から実業補習学校長へと転任していた。

『良民』の読者兼寄稿者だったのが天野藤男で、彼は静岡県で小学校代用教員を務めていたが、前述の国府に見出され、上京して内務省嘱託として青年団と処女会の指導に携わっていたのである。それがきっかけとなり、大正二年に『農村と娯楽』、三年に『田園趣味』を上梓に至る。山本の『一日一善』もやはり二年だった。そして四年には月刊誌『都会及農村』が創刊され、この編集に携わったのも天野であった。つまり山本も天野も洛陽堂の初期において、白樺派よりも亀之助の精神的な意味も含めた近傍にあり、洛陽堂を支えた著者兼編集者だったことになる。そのような山本や天野の活動を通じて、山崎も洛陽堂の著者として召喚されたと思われる。

これで山崎延吉の『農村教育論』と巻末広告に見られた四冊の関係はほぼ解明できたけれど、山崎のことは『洛陽堂河本亀之助小伝』にも出てこないので、ここで言及できなかった。したがって山崎のためにもう一編書かなければならない。

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