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古本夜話531 新渡戸稲造『武士道』と桜井鷗村

これもまったくの偶然だが、浜松の時代舎で農文協『明治大正農政経済名著集』全二十巻と Inazo Nitobe, Bushido : the Soul of Japan (Tuttl Publishing) をほぼ同じころに購入している。前者に山崎延吉の『農村自治の研究』が収録されていることは既述したが、また思いがけずに、本連載528で裳華房の出版物にふれたことで、『明治大正農政経済名著集』7所収の新渡戸稲造の『農業本論』と英文『武士道』の両書がいずれも裳華房から刊行された事実を知った。また出版年などを確認してみると、新渡戸が日本語の最初の著作として、『農業本論』を送り出したのは明治三十一年で、その翌年に続けてBushido : the Soul of Japan も刊行に至っている。そしてこの二冊の出版は新渡戸の生涯にとっても重大な転機だったとされる。

農業本論『農業本論』農村自治の研究『農村自治の研究』

しかし農文協の『農業本論』は明治四十一年再販の六盟館版『増訂農業本論』を定本としているためか、裳華房からの出版経緯や事情についてはまったくふれられておらず、それは英文『武士道』に関しても同様である。すでに、本連載226「六盟館と新渡戸稲造『ファウスト物語』」で出版社と著者のことを書き、また『農業本論』ではゾラの拙訳のある『大地』への言及も見出されるので、こちらも論じてみたいのだが、今回は英文も含めた『武士道』とその翻訳のことに限定したい。
大地

現在入手できる最もポピュラーな『武士道』は昭和十三年に出され、ほとんど版が絶えることなく、ロングセラーであり続けている矢内原忠雄訳の岩波文庫版であろう。その「訳者序」において、まず矢内原は英文『武士道』の出版史を述べている。同書は一八九九年、明治三十二年にアメリカ滞在中の新渡戸によって、フィラデルフィアのThe Leeds and Biddle Company から刊行され、翌年に日本の裳華房からも出された。その後それぞれに版を重ねたが、一九〇五年、明治三十八年の増補改訂版となる第十版はアメリカではニューヨークのG.P.Putnam’s Sons、日本では丁未出版社からの発行だった。その新渡戸の「増補第十版序」によれば、その間にドイツ語を始めとして翻訳され、フランス語、中国語訳も進行中で、今回の版はニューヨークとロンドンで同時に出されることになっていた。
武士道 Bushido

しかし英文『武士道』の日本語訳が出現するのはそれから三年後の明治四十一年で、桜井鷗村によって訳され、こちらも丁未出版社から出された。したがって日本語で『武士道』が読めるようになったのは、英文『武士道』刊行から十年近く過ぎてのことだった。幸いなことにこの桜井訳は筑摩書房の『明治文学全集』88の『明治宗教文学集(二)』に書影も含め、全文が収録されている。
武士道

そうはいっても、これは岩波文庫版と異なり、桜井訳は「此書初めて成りしより既に十年、未だ和訳の出づる無し」という出版状況において刊行されているので、これを紹介してみたい。桜井は明治三十五年に共著として、裳華房編『英文武士道評論』を上梓し、それに基づき、「訳序」にもあるように、「訳文は悉く博士の校閲を経たり」したこともあって、おそらく新渡戸自身も自らの意にかなった日本語訳として提出されたと思われる。また岩波文庫版訳者の矢内原にしても、桜井訳は「なかなかの名訳」であるのに、翻訳を試みた理由として、「すでに久しく絶版であって容易に発見せられないこと」をひとつの理由として挙げているからだ。

まず第一章のBushido as an Ethical System、桜井訳の「武士道の倫理学」の英文と日本語訳の双方を引いてみる。

 Chivalry is a flower no less indigenous to the soil of Japan than its emblem, the cherry blossom : nor is it a dried-up specimen of an antique virtue preserved in the herbarium of our history.

 日本の武士道は、之を表象する桜花と共に我国土に特性せるの華なり。斯花たる、今や乾枯せる古代道徳の標本として、僅かに其形骸を、歴史を腊葉品彙に存するものに非らず。其力、其美、尚且つ浩然、旺盛剛大なるものありて、我民族の心理に生々たり。

このように武士道はヨーロッパのChivalry、すなわちもやは死して顧みられない騎士道に通じるものだが、日本では「我民族の心理に生々」として根づき、それは武人階級に伴う「尊貴の責務」(ノーブレス・オブリーヂ)をさすと始まっている。そして「Samurai」の歴史が語られ、その背景としての仏教、禅、神道、天皇の意味についても言及され、武士道の義、勇、仁、誠などが様々な事例とともに展開されていく。

しかも新渡戸はこの『武士道』を語るにあたって、エドマンド・バークの、おそらくは『崇高と美の観念の起原』(みすず書房)、あるいはマルクスの『資本論』やヴェブレンの『有閑階級の理論』やカーライルの『衣服哲学』(いずれも岩波文庫)などを挙げながら進めていく。それゆえにバークはともかく、同時代の思想のパラダイムの中で、日本の「武士道」と「さむらい」が論じられ、位置づけられたことになり、『武士道』は世界に向けて発信された内なるオリエンタリズムの一冊と呼べるものだったのではないだろうか。

崇高と美の観念の起原 資本論 有閑階級の理論 衣服哲学

『武士道』に日進戦争の勝利も武士道の教訓によるとの言が見えているが、日露戦争後に日本語訳『武士道』が出版されたのも、明らかにナショナリズムの問題と絡んでいるのだろう。訳者の桜井に関しては『増補改訂新潮日本文学辞典』に簡略な紹介があるので、それを引く。

 桜井鷗村 さくらい・おうそん 明治五・六・六―昭和四・二・二七(一八七二―一九二九)評論家、教育者、実業家。本名彦一郎。愛媛県生れ。明治学院を卒業し、青柳有美と並んで後期の「女学雑誌」の中心人物となって同誌に女子教育論の筆陣を張り、渡米して視察後、津田梅子とともに女子英学塾[津田塾大]を設立した。新渡戸稲造『武士道』などの翻訳のほか、『近松世話物語』(大一〇刊)などの著がある。

桜井の『武士道』の「訳序」に「博士の初め此書を脱稿する、予は実に米国費府マルヴアーン村の博士の仮寓に泊して、其大旨を聞けり」とあるが、それは立項に示された「渡米して視察」の時期と重なっているのだろう。それからほぼ十年後に桜井による日本語訳が刊行されたのである。

これらのことをもう少し確認するために、桜井をめぐってもう一編書かなければならない。

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