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古本夜話533 桜井鷗村と文武堂

続けてふれてきた桜井鷗村に関することで、これは本連載230「田中英夫『山口孤剣小伝』と京華堂・文武堂『東都新繁昌記』」ともつながっているように思われることもあり、それも書いておこう。

『日本近代文学大事典』の桜井の立項は少しばかり長いこともあって、本連載531『増補改訂新潮日本文学辞典』の短いものに代えたのだが、前者には後者に記載されていない桜井の少年冒険小説の翻訳のことが記されていた。それらは文武堂から出された『勇少年冒険譚初航海』(明治三十二年)、全十二巻に及ぶ「世界冒険譚」(同三十三年〜三十五年)であり、また晩年には実業界へ転身し、北樺太石油開発事業に貢献したとも書かれていた。

これらの桜井翻訳書は未見だが、文武堂の書籍は二冊が手元にある。一冊は小川文雄『新案図解玉突術続篇』(明治四十四年)、もう一冊はほるぷ出版が復刻した押川春浪『海底軍艦』(同三十三年)で、前者はビリヤードのための実用書に他ならず、巻末広告もその正篇に当たる『玉突術』で、同じく実用書の川口清五郎『実地諸鳥飼養全書』が掲載されているだけだった。だが後者は桜井の翻訳と刊行時期が同じでもあり、巻末にはその「世界冒険譚」のうちの『金堀少年』『遠征奇談』『二勇少年』『続遠征奇談』、及び先に挙げた『勇少年冒険譚初航海』(以下『初航海』)の一ページ広告が収録されていた。
海底軍艦(『海底軍艦』)

桜井と押川の関係について、横田順彌、會津信吾共著『快男児押川春浪』(パンリサーチ出版局、昭和六十二年)を読んでみると、そのことが書かれていた。同書によれば、桜井家と押川家は親戚筋に当たり、松山市の双方の家は近くにあり、鷗村は、春浪の父で東北学院設立者押川方義に幼少の頃からかわいがられていたという。そして明治学院を出てから方義と親交の厚い巌本善治の『女学雑誌』の編集と執筆に携わり、巌谷小波論を書いたことから、小波主宰の『少年世界』にも巌本の代作寄稿をするようになり、小波とも知り合った。
快男児押川春浪(徳間書店版)

その関係から、小波の斡旋と尽力により、明治三十二年に鷗村は文武堂より『初航海』を刊行するに至る。これは幸いなことに福田清人編『明治少年文学集』(『明治文学全集』95所収、筑摩書房)で読むことができる。その桜井の「緒言」によれば、この作品は英国の冒険小説家メイン・リードのRun Away to Sea の「訳述」で、「勉めて、我邦の少年読者の解し易きを旨とせり」とあり、「稿成るや、出版は之を文武堂主に托し、校正の労は、之を小波兄の好意に委ね」ると記されている。
明治少年文学集

この文武堂は、博文館の子会社にして、取次の東京堂の出版部門で、明治二十四年秋に大橋省吾が創業している。彼は博文館創業者大橋佐平の次男で、佐平夫人の弟である高橋新一郎が立ち上げた東京堂の二代目を引き受けたが、博文館で編集にも携わっていたことから、自ら出版社も興したのである。しかもそれは『海底軍艦』の奥付に見られるように、発行所は文武堂となっているけれど、発売所は博文館、主取次は東京堂であり、流通販売は博文館の出版システムを踏襲するものだった。そこ大橋一族にあっての文武堂と大橋省吾の立ち位置をうかがうことができよう。

田中治男は『ものがたり・東京堂史』の中で、文武堂について、次のように書いている。
ものがたり・東京堂史

 文武堂の名称で上梓した図書は数多いが、「透谷全集」(三十五年十月)、「北清観戦記」(三十四年五月)等のほかに、少年の血肉を躍らせた押川春浪の武俠小説を数多く出版している。(中略)
 幸徳秋水「社会主義神髄」とか、田岡嶺雲「下獄記」の著書が明治三十五、六年に出版されているが、省吾が時代の流れを知った上で出したとしたら大変革新的な編集者だったといえる。また津田梅子の英語教科書をはじめ、かずかずの英文図書を刊行、「英学新報社」も併せて経営した。

ここで桜井が編集長だった『英学新報』(後に『英文新誌』)と文武堂のつながりが明らかになる。それもあって、この時代に文武堂から桜井の一連の少年海洋冒険小説が出されることになったのであろう。また『女学雑誌』に翻訳連載された若松賤子のバーネット『小公子』も、明治三十年に桜井の尽力で博文館から完本が刊行されている。これらは桜井が明治三十年代前半に、巌谷小波を通じて、博文館や文武堂の近傍にいたことを物語っていよう。

さて「世界冒険譚」だが、これが『日本児童文学大事典』に立項されているのを見つけたので、それを引いておく。

 鷗村は『初航海』の好評を受けて「世界冒険譚」一二編を刊行。英米の少年冒険小説を平易な口語体で自由に翻案し、少年の冒険心をかきたてた。表紙・口絵とも中村不折画。内容は航海・深境・戦争・砂金採取・原野開拓等における冒険譚で、教訓的な面もある。

この立項に続いて、第一編『金堀少年』から第一二編『絶島奇譚』までのラインナップも掲載されている。またこの立項によって、ほるぷ出版の『日本児童文学大系』第二巻が『若松賤子・森田思軒・桜井鷗村集』であることを教えられた。そこでこの巻を見てみると、桜井の『孤島の家庭』と「世界冒険譚」第八編の、『航海少年』が収録され、口絵写真として桜井、及び『孤島の家族』が連載された巌谷小波主宰『少年世界』の表紙、『航海少年』書影の掲載を知ったのである。そして岡保生による「桜井鷗村解説」と「年譜」を通じて、明治三十四年創刊の『英学新報』創刊、英学新報社発行・東京堂発売との記述を見出した。これは文武堂発売と見なしてもかまわないだろう。

またその後身の英文新誌社は四十年に丁未社と改称とあるので、前回推測したように、その中心にいたのはまさに桜井鷗村その人だったということになる。しかし大橋省吾は明治四十四年に亡くなり、文武堂も衰退に向かい、桜井も大正五年に実業界に入ったことで、丁未出版社も同様の道をたどったのではないだろうか。それゆえに最初に挙げた『東都新繁昌記』の版元文武堂はその名残り、もしくは末裔のように思われる。
(『東都新繁昌記』)

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