前回の『団地ともお』とほぼ同時代の二一世紀初頭に、それとまったく対極的な家庭と社会状況に置かれた中学生を主人公とするコミックが提出されていた。それは古谷実の『ヒミズ』という作品である。
この奇妙なタイトルの「ヒミズ」とは『日本国語大辞典』(小学館)によれば、「ひみずもぐら」と同じで、その説明として、『日葡辞書』(岩波書店)の「Fimizu(ヒミズ)〈訳〉太陽を見るとすぐ死んでしまう、鼠に似た小さな動物」が引かれていた。この「ひみずもぐら」そのものは『ヒミズ』に姿を現わさないけれど、主人公の「オレはモグラのようにひっそりと暮らすんだ……」という言葉に重なって表出している。また同じく主人公が土手の上に出てきて蟻に襲われているミミズを見つけ、これも自らを重ねるように、「お前にチャンスをやろう……もうミスるなよ」といって、土に戻してやるシーンがあり、それも「ひみずもぐら」のメタファーとなっているのだろう。それらに加えて、まさに『ヒミズ』の主人公の中学生の住田も、そのような存在として設定されているし、登場人物たちにしても、ほとんどがその近傍にあると見なしていい。
『ヒミズ』は中学からの帰り道で、住田が夜野に語りかけているシーンから始まっている。それは次のような住田のモノローグに近いものでもある。「ほとんどの人間は超極端な幸不幸にあう事なく一生を終える」、これが「普通の人間」に他ならない。それに対して、幸不幸に出会ったり、幸運や才能に恵まれているのは「特別な人間」であり、こちらは「この世を司る何かによって選ばれた者」だ。だが「そんな奴はめったにいない」し、要するに「普通ナメんな! 普通最高 !! 」というものだ。いってみれば、つまり「特別な人間」思想ではなく、「普通の人間」哲学が語られていることになろう。
そうした物語のイントロダクションの進行につれて、やはり中学生の登場人物たちが住田の前に顔を揃えていく。いじめられっ子で、才能があるように見えないが、マンガ家をめざしている赤田、そのイトコでマンガの師匠格のきいち、それに夜野も「マンガ家=金持ち」になりたくて、きいちの家に赤田と同行する。きいちは「ただ金持ちになりたいだけ」でマンガを学ぶつもりの夜野を拒否する。そこで夜野は叫ぶ。「世の中金だろうがぁ――!!!(中略)金こそすべてだぁ――!!! 金は幸せを買える紙 !! この世に唯一存在する魔法 !!! 」だと。きいちも反論する。「……人の魂だけは……絶っ対に買えない」と。
するといつの間にか、そこにきていた住田が「買えるね、絶対に買えるね。金さえあれば、お前の魂なんてよゆーで買えるね。もちろんお前の両親のだってたやすく買える」と発言するのだ。それに対して、きいちの姉も賛同し、後に赤田も夜野と「二人して超ビッグなお金持ち」になることを誓う。しかし住田ときいちは「買える」「買えない」で、さらに言い争い、殴り合いの喧嘩になってしまう。先に住田による「普通の人間」と「特別な人間」の二元論を見たが、ここでもそれは同様で、この「買える」「買えない」は高度資本主義消費社会における最大の問いであるのかもしれない。「愛は買えない」という言葉は過去の歌の中のものだし、若いベンチャー経営者が公然と「金で買えないものはない」とうそぶく時代を迎えようとしていた。それはもはや精神も物質と同じく金と交換可能だと広く信じられる時代の到来でもあった。
そして住田の考えからいえば、きいちも自分や赤田や夜野も含め、多くは「普通の人間」=魂を買える人間であり、夢を叶えることのできる「特別な人間」ではないのだから、魂を買えないと主張することは許せないのである。「普通の人間」と「特別な人間」というシリアスなモノローグ的定義から始まった『ヒミズ』は、このような高度資本主義消費社会の大問題をめぐるダイアローグへと引き継がれ、同時代と物語のベースを形成することになる。
その一方で、主人公の住田が暮らすトポスとその環境が描かれていく。それはまだ明確にされていないが、郊外の河口に近いところに位置し、そこで住居も兼ね、釣り舟やボートを貸す仕事を営んでいるらしく、そこには彼の母親もいて、屋外には応接セットが置かれている。だがその河原には何か異形の者が佇んでいるようなのだ。ところが次第に「たまに見える」得体の知れない異形の者が一目小僧のようにクローズアップされ、住田を凝視めていることがわかってくる。「お前は何だ !! 」と発するが、「ちがう! ちがうぞ !! ……あれは目の錯覚だ !!! 」とも自問自答する。住田は「この世を司る何かによって選ばれた者」としての「特別な人間」ではないわけだから、その異形の者が「この世を司る何か」ではないはずだが、それが住田と『ヒミズ』の物語を支配するドッペルゲンガーのように姿を見せるようになる。
そこに夜野が赤田ときいちを連れてやってくる。もちろん住田の言い分を認めたわけではないけれど、きいちが殴ったことをあやまりたかったからだ。彼らの訪問によって、住田のところの家業がボート屋で、住んでいる家が「コンテナ」であることが明らかになる。そしてきいちとの会話から、ボート屋を継ぎ、「中学出たらすぐに働くんだ。(中略)お花見やらカップルやら釣り人やら……こんなボロでも一年中いろいろな客がくる……何とか食っていけるんだ」という住田は「普通の人間」として生きていく決意を表明する。「お前からしたらクソのような人生か?」と思うかもしれないが、「オレはここでのんびりボートを貸す。たぶん一生……ここには大きな幸福はないだろう。オレはそれで満足だ」と。
しかし「普通の人間」をめざす住田の周囲にも、すでに異形の者が出現し始めているし、それにオーバーラップするかのように、住田の「元とーちゃん」が訪れてくる。住田はいう。「オレの中で『死んだら笑える人』NO.1の男だ。世の中にはよ……いるんだよ。本当に死んだ方がいい人間が。生きていると人に迷惑ばかりかけるどーしようもないクズが」。
それでも住田のもとには『ヒミズ』の奇妙なヒロインともいうべき同級生の茶沢景子さんもやってくる。彼女もまた夜野や赤田と同様にエキセントリックな存在で、兄が殺人犯だという「ウソ」話をし、その一方で「住田君 超好き」と告白したりする。そうしているうちに夏がきて、住田は母親が数万円の現金と手紙を残し、釣り好きの客の「オッサンと愛の逃避行」に走ったことを知る。住田は「マジかよ」と呟くしかなく、夜野も同じ言葉を繰り返す。するとまたしても異形の者が姿を現わし、住田は「笑ってんじゃね――よ、バケモノ!」と叫ぶのだ。
そのために住田は自らボートやを営み、新聞配達をするようになり、学校を休み始める。それを知った茶沢さんはいう。「親に捨てられて学校行けなくなって、一日中働いている中学生なんて……もう普通じゃないよ」。それでも「がんばれよ」とも。それは夜野も同様で、常習であるスリを重ね、「親友」の住田のために金を稼ごうとしているし、「もう普通じゃない」住田を支えようとする。また立場は異なるにしても、住田の理想の投影たるきいちはマンガで賞を獲り、夢を叶えつつあった。だが「コンテナ」に一人で暮らす住田が現代の孤児と化したことは紛れもない事実だった。
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ところがそのような状況の中で、さらに「普通じゃない」ことが押し寄せてくる。ベンツで高利貸が用心棒を連れてやってきたのだ。「君のオトーサン」が「家族のタメにって」600万円借り、返していないという。住田は用心棒に殴られ、切りつけられ、血を流す。それでも住田は挫けず、「……たまたまだ……だがオレはクズじゃない。オレの未来は誰にも変えられない」「オレは必ず立派な大人になる !! 」と夜野にいうのである。その夜野は600万円を得るために、スリ仲間が提案した二千万円泥棒に加わり、強盗殺人、死体遺棄をも体験するはめになり、分け前の一千万円で住田の代わりに高利貸に金は返したものの、住田の「百倍フツーじゃなく」なってしまった。同じ頃、顔に傷を負い、眠っている住田のそばに、「痛いか? ほっぺ」と囁く「バケモノ」が現われ、暗闇の中で「死ね。みんな死ね」と呟いたようだった。
雨が降り続いている。ボート屋に客はこないので、住田は「くだらない事ばかり考えてしまう。考えたくないのに考えてしまう……すると決まって頭痛が始まる……」。雨に打たれる河とボート、杙が並ぶ桟橋が描かれ、住田はその一本に墓標のようにブロックがかまされているのを見つけ、それを取り、地面に投げつける。あの「バケモノ」が置いていったのではないだろうか。
住田の頭痛がひどくなってくる。「全部あいつだ! 全部あいつのせいだ !! 」というモノローグに合わせ、父親の顔が浮かび上がり、それに「お前はオレの悪の権化だ !! 死ねっ!! 死んで責任をとれ !! 」との言葉が書きこまれる。 そして住田は「コンテナ」の中に倒れこむように入り、「もうだめだ!」と繰り返し、布団をかぶり、苦悶の声を挙げる。それを外で聞いた茶沢さんはなすすべもなく、雨の中を帰っていった
ずっと雨が『ヒミズ』という物語の涙のように降り続いている。この雨の日が住田の臨界点、「普通の人間」が殺人に至る環境とその瞬間へと追いやられた魔の刻だったのだ。彼自身も少し前に「だいたい人殺しする奴としない奴の差なんて大した事ねぇよ。要は環境だろ」と語っていたではないか。
その日の夜になって雨が止み、「コンテナ」に父親が金を無心に訪れてくるが、母ちゃんの「愛の逃避行」と住田の一人暮らしを聞き、そのまま帰っていく。住田は靴下のまま外に出て、昼間放り投げたブロックを手にし、父親を追いかけ、振り向いたその顔にブロックを叩きつける。その瞬間は見開き二ページでクローズアップされ、俯瞰ショットも含め、五ページにわたって繰り返し叩きつける「ゴッ」という擬音も合せ、続いていくのである。父親の今わの際の言葉は「オレがお前に」というものだった。そうして夥しく血を流している父親の死体、その血にまみれている息子の姿、それらのシーンに住田のモノローグが重なっていく。
冷静だ……実に冷静だ……罪悪感はない……ただ何より残念だ……よりよい未来のタメに今までがんばってきた日々や守りとおしてきたモノを……今日すべてなくしてしまった……オレが普通じゃないからこんな事になるのか?……ちがうだろ?……オレじゃなくたって…………
「普通の人間」を至上としてめざしていたにもかかわらず、思いがけない母親の「愛の逃避行」と父親の借金という「環境」のドラスチックな変化は、住田をして「普通じゃない」人間へと追いやっていく。そして「この世を司る何か」のようでもある「バケモノ」の出没も重なり、「特別な人間」へと変身したかのように、父親殺しの瞬間へと追いやられていったのである。
そして住田は死体を埋め、自首もせず、その後を一年限りの「オマケ人生」として、「きいちのように社会のタメに」生きようとするのだが、結局のところ、何をしても何を求めてもその姿は茶沢さんがいうように、「ゾンビみたいに街を徘徊して」いるだけなのだ。それでもあの一目小僧のような「バケモノ」は姿を現わし続けている。
そんな時に住田はあの高利貸の用心棒と街で偶然に出会い、送ってもらうが、「お前は今“病気”だ」、「暗闇の中をはいずりまわり、パニックを起こして死にかけている」と指摘される。そしてさらに人を殺すのであれば、これを使えと拳銃を与えるのだった。
相変わらず「バケモノ」はつきまとい、住田は茶沢さんに父親殺しを告白するに至る。彼女は「君が死んだら……この先悲しくてやってられません」といい、警察に通報したうえで、明日の出頭を促し、二人でその最後の夜を「コンテナ」で過ごす。しかしその夜にも「バケモノ」はやってくる。住田はいう。「やっぱり……ダメなのか?……どうしても……無理か?」。
初めてクローズアップされた一目の「バケモノ」は応える。「決まってるんだ」。住田も応じる。「そうか……きまっているのか」。そして坂のところでうつむき座っている住田の姿が描かれ、次に河原の夜景の中で、「パン」という音が発せられる。それを耳にし、茶沢さんは目覚め、住田がいないことに気づき、外を見る。最後のページは老朽化し、放置されたボートがある草むらの中にうつ伏せで倒れている住田の姿が描かれ、それを照らしている雲がかかった月を最後の一コマとし、『ヒミズ』は終わっている。
『ヒミズ』という物語の前半の部分とそのクロージングを抽出し、トレースしてきたが、その登場人物たちにしても、その全体や展開にしても、完璧な整合性は求められていないし、とりわけ住田の父親殺しの後の「オマケ」の物語は齟齬が生じている印象を与えるし、前半から後半への展開はギャップを感じてしまう。
しかしそれでもこの『ヒミズ』というコミックは、現代の様々な不可視の問題へと突き刺さるという読後感を残す。そしてさらに「普通の人間」が父親殺しに至ってしまうこと、絶えずまとわりつく「バケモノ」のメタファーは何であるのかということ、その世界の静かな終末のようなクロージングなども含め、現在の日常に起きている惨劇、犯罪や事件とリンクするツールのようにも思えてくる。
『ヒミズ』ではもはや近代家族は解体されてしまっている。それは住む家が様々に解釈できる「コンテナ」であることにも象徴されているし、前回江藤淳の『成熟と喪失』の中に記された家族を支えるイメージとしての「母親のエプロンのすえたような洗濯くさい匂い、父がとにかく父としてどこかにいるという安心感」も、当然のことながら失われてしまっている。それらを代行するのは「金こそすべてだぁ――!!! 金は幸せを買える紙 !! この世に唯一存在する魔法 !!! 」ということになり、そこには高度資本主義消費社会の鏡像が示されている。だが江藤が続けているように、「そういうものがなければ実は人は生きられない」し、『ヒミズ』はそのように終わる。
またその「バケモノ」とは柳田国男が『一目小僧その他』(角川文庫)で述べているように、「古い信仰が新しい信仰に圧迫せられて敗退する節には、その神はみな零落して妖怪となるものである。妖怪はいわば公認せられざる神である」のかもしれない。すなわちこの「古い信仰」とは近代家族であり、「新しい信仰」とは高度資本主義消費社会の謂であるのかもしれないと思えてくる。
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これはふれられなかったが、二〇一一年に園子温監督・脚本で映画化されていることも付記しておく。
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