(毎日新聞社版)
本連載120の矢作俊彦『ロング・グッドバイ』がレイモンド・チャンドラー『長いお別れ』の本歌取りとして刊行されたことにふれたが、それに続くかのように二〇一二年にやはり同様の作品が発表された。それは高村薫の『冷血』であり、これもいうまでもなく、トルーマン・カポーティの原作タイトルを”In Cold Bood” とする同名のノンフィクションノベルの本歌取りに相当している。
カポーティ『冷血』(滝口直太郎訳、新潮文庫)もまたアメリカの「フィフティーズ」の最後の年、すなわち一九五九年に発生した殺人事件をテーマとしている。それはその年の十一月にアメリカ中西部カンザス州のホルカムという農村で起きたのである。ホルカムは日本人も含んだ多様な混住社会で、大半が牧畜農業に従事していた。そのうちのドイツからの移民である一家四人、夫婦、息子、娘の家族全員がロープで縛られ、ガムテープで口をふさがれ、至近距離から猟銃で射殺されていたのだ。残虐な殺人事件そのものだったが、家族の誰もが他人から恨みを買うような人たちではなく、また何も盗まれておらず、動機が不明だった。
カポーティは『遠い声遠い部屋』(河野一郎訳、新潮文庫)や『ティファニーで朝食を』(滝口直太郎訳、同前)とは異なる、現実に起きた事件に基づく小説を書いてみたいと考えていたので、ただちにこの殺人事件の取材に赴いた。そしてありとあらゆる関係者たちに会って話を聞き、さらにベリーとディックの二人の犯人が逮捕されると、た。その犯行前後の足跡をもたどり、彼らの内面と心的現象の細部にまで迫り、この犯罪の本質を浮かび上がらせようとしたのである。それらの取材と資料は六千ページに及んだとされ、六年後の六五年に『冷血』』は上梓に至り、ノンフィクションノベルという新しい分野を確立しただけでなく、ドキュメントやルポルタージュにも大いなる波紋と影響をもたらした。日本の作品に例をとれば、ただちに佐木隆三の『復讐するは我にあり』(講談社、一九七五年)が挙げられるだろう。
ちなみにカポーティの詳細な取材と記述は、『冷血』が本連載119や120とも無縁でないことを伝えているので、それらをふたつほど示しておこう。二人の犯人の愛唱歌はアメリカの女流詩人ジュリア・ウォード・ハウの「共和国の戦いの歌」で、その一節は「わが目は見たり、主の来ます栄光を/主は踏みにじりたもう酒蔵を、怒りの葡萄蓄えし」である。ここからスタインベックの『怒りの葡萄』のタイトルがとられている。またペリーは朝鮮戦争にアメリカ陸軍の一兵卒として加わり、横浜でひと夏を過ごしてもいるのである。
これらの『冷血』に関する取材のディテールは、ジョージ・プリンストンの伝記『トルーマン・カポーティ』(野中邦子訳、新潮文庫)、及びフィリップ・シーモア・ホフマン主演、ベネット・ミラー監督の映画『カポーティ』でも描かれている。前者には現場の家と殺害された一家四と犯人二人の写真も収録され、とりわけ後者はそれに焦点を当て、ホフマンはそのカポーティと見紛うばかりの迫真の演技で、二〇〇五年のアカデミー賞主演男優賞を受賞したが、今年になって麻薬中毒による事故で死亡している。また〇六年には笹田雅子氏による新訳(新潮文庫)も出されている。
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このような近年のカポーティと『冷血』の再評価や再発見の流れの中で、高村の『冷血』も構想されたと見なしていいだろう。実際にポリフォニックな構成、四人の被害者家族、二人の犯人のキャラクター造型などはカポーティに範を得ているし、それらをベースにして、高村は『レディ・ジョーカー』(新潮文庫)や『太陽を曳く馬』(新潮社)の警視庁捜査一課の会田雄一郎を召喚する。そして郊外消費社会と、それに寄り添うヴァーチャルな空間としてのネットの出現と存在がクロスしたところで起きた殺人事件を書いている。それゆえにこれはカポーティの『冷血』から半世紀後に書かれた高村の、二一世紀版『冷血』として読むことができる。
「2002年2月17日火曜日」の日付が示された第一章の「事件」は、クリスマスイブに被害者となる少女の長いモノローグから始まり、犯人たちの同じくモノローグへとつながっていく。その一人の戸田吉生は求人サイトに書き込まれた《スタッフ募集。一気ニ稼ゲマス。素人歓迎》を見て、池袋での落ち合う場所へと向かっている。一方でそれを書き込んだ井上克実は愛車GT−Rの中にいて、国道16号線沿いのガストの駐車場で朝を迎えていた。これは『ロング・グッドバイ』で、横須賀基地の前の道路が合流する国道である。昨夜彼の車はやくざに襲われ、叩き壊されてしまった。
井上にとって、それは「朝がここで一時停止し、ここが世界の意味の消失点になる」という思いをもたらした。そして外の風景が描写される。
白濁したガラスの外は、横浜の旭区あたりの、保土ヶ谷バイパスではない国道16号線だった。ざらざらごろごろする継ぎ接(は)ぎだらけの荒れた路面の音と、間断がないというほどではない通行車両の微妙な間合いで、眼をつむっていてもそうと分かる16号線は、横浜の西区から千葉の富津岬まで、東京を遠巻きにするようにして走っており、畑と工業団地と新興住宅地の広がる沿線は、どこも自動車メーカーの販売店にパチスロ店、ファミリーレストランにコンビニエンスストアが吹き溜まりをつくる。少し市街地を離れると、空き店舗のシャッターが朽ち、不法投棄の資材や鉛管が野ざらしになった空地があり、暴力的なほど平坦な風景が続く。首都圏の運送会社で働いたことのある人間なら眼や耳以前の皮膚で分かる、地方都市の臭いだ。
ロードサイドビジネスが林立し、畑と工業団地や新興住宅地が混住する典型的な郊外の風景だ。少しばかり古いデータになってしまうが、西村晃の『日本が読める国道16号』(双葉社、一九九四年)は横須賀から八王子、川越、春日部、柏、千葉、君津まで「東京を遠巻きにして走って」いるその地図を示しながら、次のような数字を挙げている。この国道16号は東京都心からおよそ30キロ圏を一周する環状道路で、沿線人口は東京23区の800万人を超える1000万人であり、団塊の世代の人々が多く移り住んできたことで、団塊ジュニアも加わり、人口はほぼ倍増したことになる。
そのために国道16号の沿線市町村は日本の最大の消費者層にして、戦後の消費社会のコアに他ならない団塊の世代とその子供たちが集中的に住んでいる地域だと。つまり国道16号線は拙著『〈郊外〉の誕生と死』において、図表で示しておいた東京50キロ圏の「1975から1980年にかけて新しく登場した急成長の都市」のすべてを横断するロードなのだ。
板橋で新聞配達をしている戸田と元トラック運転手の井上は池袋で出会い、ロッテリアでハンバーガーを食べながら、初対面だが、二人とも刑務所に入っていたことを確認し合い、歯痛に悩む戸田は現在からの「脱出」を願い、井上のほうはさしたる根拠もなくATM強奪を提案する。ネットへの書き込みも同様に、あのガストでなされたのだ。
そうして二人の道行は始まるのだが、その主たる舞台は必然的に国道16号線ということになる。町田インターから国道16号線に入り、多摩ニュタータウンから相模原に入り、そこの健康ランドで日付が変わるのを待ち、トラックを盗み、町田郊外の郵便局のATMを襲うが、失敗に終わる。それから二人は次にハイエースを盗み、明け方にデニーズに入り、ハンバーグライスとビーフカレーを食べる。そして戸田がスーパー銭湯に入っている間に、井上は朝から行列ができているまっ赤な外壁の巨大なパチスロ店で大当たりをとったりしていた。それでも二人の破滅へと向かう道行は続く。
イノウエが運転するハイエースは沿道の量販店やガソリンスタンドやファミリーレストランへの車の出入りが引きも切らない町田街道から、やがて多摩境駅にでて東京方向へUターンした。そのとたん、眼に飛び込んできたのは、何もない造成地の闇の真っ只中を、数珠つなぎのヘッドライトが光の川になって延々と続いている光景だった。(中略)
吉生は突然アメリカだと思った。ドがつく田舎のショッピングセンターにガキどもが車を連ねて集まってくる風景は、ほとんどアメリカの中西部だ、と。二十歳のころ(中略)観たうっとおしい映画―『パリ、テキサス』という変な題だった――そこに出てきた土地。(中略)そういえば、朝見た薬師台あたりの分譲地も、笑ってしまうほどアメリカ東部の住宅地っぽいつくりだったから、この多摩境が中西部でもおかしくはないだろう。そうか、町田は多摩だったのか。
『パリ、テキサス』はこの後も様々に言及されるので、少しばかり注釈を加えておこう。これは一九八四年公開のサム・シェパード脚本、ヴィム・ヴェンダース監督のロードムービーである。主人公のトラヴィスはテキサス砂漠に実在するとされるパリという地を求めて放浪しているうちに、妻は失踪し、息子だけが残され、弟夫婦に引き取られていた。そこでトラヴィスは息子を連れ、妻(母)を捜す旅に出るのだが、その道行はこの映画が砂漠のシーンから始まるように、荒野の中を彷徨うイメージが強く、戸田のモノローグでもそれと自分たちの道行、及び郊外の新興住宅地と消費社会の風景をオーバーラップさせているのだろう。
ここでは言及されていないが、カポーティの『冷血』の舞台はアメリカ中西部の片田舎にほかならず、まさに井上と戸田はペリーとディックに重ねられているのである。それから二人はコンビニを襲い始める。「コンビニエンスストアが二十四時間営業なら、そこに押し込む強盗も二十四時間営業だ」。しかし二店で奪ったのは十四万円ほどで、「いったいこれは現実だろうか――? 大の男が二人がかりでコンビニ強盗だ。体力も気力もある三十代でここまで堕ちたら、あとはもう無銭飲食ぐらいしか堕ちるところがない。いや、こんな現実のほうが狂ってやがるのだ」という思いに捉われる。国道16号線から始まった二人の道行は、ロードサイドビジネスの表層の明るさの奥に潜むアモルフな暗部を浮かび上がらせ、郊外消費社会の闇の部分、そこにうずまっているもうひとつの「現実」を照らし出しているかのようだ。
二人は再び別の車のシルビアを盗み、逃げるかのように国道16号線を走り続け、夜中に赤羽駅近くの二十四時間サウナに入る。そうして二人の道行と犯罪の臨界点ともいうべき一家四人殺しの現場へと近づいていったのだ。戸田の宿痾とでもいうべき歯痛と故郷の思い出、井上の歯医者に関する過去の記憶は連鎖して、二人を赤羽に近い西が丘の歯科医院へと向かわせる。そしてその自宅に押し入り、犯行へと至るのである。彼らはキャッシュカードを奪い、暗証番号を聞き出し、犯行後六十八時間で十六ヵ所のATMから千二百万円の現金を引き出していた。それらはすべて16号線のコンビニで、川越、狭山、入間、横浜、横須賀、鎌倉、藤沢、東川崎、木更津、千葉のセブン‐イレブン、ファミリーマート、ローソンの名前が逃亡の痕跡を示すかのようにリストアップされる。
そのような痕跡から二人は逮捕される。だが二転三転する二人の供述と様々に絡み合う事実から、「携帯電話の求人サイトで出会っただけの見ず知らずの人間同士が、会って四日後に一か四人殺しをやっている」ことの真の動機が問題となり、それが『冷血』の大きな謎を形成してくる。そして合田は思うのだ。
この一家四人殺しに、いったい言葉で語られるに足る内実はあるのか、と。自分たちが目の当たりにしているのは、たまたまどこからか現れた男二人が、ほとんど何も考えず、目的すらはっきりしないままに、なにがしかの気分に任せて動いた結果の一家四人殺しであり、まさしくそれ以上のどんな深みも真相もない、事実という名の空洞があいているだけではないのか。
仮にそうだとすれば、自分たち警察が捜査と呼び、事件の解明と呼んでいるものは、ただ社会秩序のためにその空洞を言葉で埋める行為ということになるが、空洞とそれを埋める言葉は別ものだ。(中略)いったい自分たち警察も社会も、この被疑者たちに何を求めているのだろう。欲しいのは、彼らをともかく刑場に吊るすための理由ではないだろうか。
ここに表出しているのは、高村の『冷血』がカポーティのみならず、ドストエフスキーの『罪と罰』からカミュの『異邦人』 を継承し、今世紀に入って起きた様々な犯罪や未解決事件をふまえ、成立していることの証左であろう。
そのような視座の下に、デラシネ的な郊外消費社会としての国道16号線が描かれたこと、及び合田が拘置所の井上に長塚節の『土』などを送り、井上の返事も書かれていることは、高村のクライムノベルにこめられた思想の一端を伝えているのではないだろうか。