本連載123『アメリカ教育使節団報告書』で、私もその一人であるオキュパイド・ジャパン・ベイビーズ、つまり占領下に生まれた子供たちが遭遇せざるを得なかったアメリカの影に覆われた教育状況に言及しておいた。だが教育状況だけでなく、私たちの成長とともに起きていた産業構造の転換、社会インフラの構築、それらに伴う日本列島の変貌などの、戦後社会の大きな物語もまた同様だったのではないだろうか。それらは私たちの小さな物語としての生活や労働、住居や職業にも反映され、敗戦と占領から始まった戦後社会のベースを支える装置のように機能していったようにも思われる。
『佐久間ダム建設記録』(「重厚長大、昭和ビッグプロジェクト」シリーズ4、5)という二枚のDVDがある。これは第一部は一九五四年に間組の企画として、英映画社によって製作された「昭和28年春〜昭和29年末までの工事記録」、第二部は同じく五六年製作の「昭和30年始〜昭和31年秋までの工事記録」で、前者は45分、後者は58分に及ぶ高度成長期以前のダムプロジェクトのドキュメンタリーフィルムに他ならない。
この佐久間ダムプロジェクトは一九五〇年に施行された国土総合開発法に基づくものだった。その国土総合開発法の第一条は「国土の自然的条件を考慮して、経済、社会、文化等に関する施策の総合的見地から、国土を総合的に利用し、開発し、及び保全し、並びに産業立地の適正化を図り、合わせて社会福祉の向上に資することを目的とする」と記されている。
講談社の『昭和二万日の全記録』第十巻の昭和28年4月16日には「佐久間ダム建設はじまる」という見出しを付した大きな写真入りの見開き二ページが割かれ、次のような説明がなされている。
この国家プロジェクト(国土総合開発法―引用者注)は、のちの工業力の増大とあいまって既成工業地域への集中的投資、それに次ぐ工業地域の地方への分散化など、もっぱら工業化の推進へと変容していったが、当初のねらいは食料の増産と電源の開発が基本となっていた。こうしたなか昭和二八年四月十六日、国土総合開発のシンボルとして着手されたのが佐久間ダムだった。
この佐久間ダム建設計画は天竜川に高さ一五〇メートルの堰堤を築き、三億三〇〇〇万立法メートルの水をせきとめ、一三三メートルの落差を利用し、最大三六万キロワットの電力を獲得するというコンセプトで、その規模は日本最大、総工費は二六〇億円、工期は三年以内とされた。この大プロジェクトは国土総合開発法施行に基づき、一九五一年に天竜東三河地域が開発地域に指定され、翌年に「電源開発五カ年計画」公布、五三年の電源開発株式会社設立と進められた。そしてその建設を間組などがジョイント受注し、DVDケースの裏カバーに記された「戦後の経済復興を象徴する、当時日本最大」にして、「電源開発史に一大革命を起こし日本の土木技術を一躍世界の最大水準に引き上げた」「天竜川・佐久間ダムの建設記録」を残すことになったのである。
もちろんそれは施工者の間組などの側から見られた「建設記録」に他ならないけれど、時代や状況のことを考えれば、よくぞ残してくれたという感慨を禁じ得ない。
フィルムの第一部は天竜川の山村を映し出す。それは当時どこにでもあったような山村で、そこがダムの湖底に沈んでいく前の風景としてとどめられている。そこに開発の機材が運びこまれ、建設に従事する人々のための住宅などが設営され、道路や橋も新設されていく。そして山の岩盤がダイナマイトで爆破されるシーンが繰り返し挿入され、それらは山村という生活空間が開発地域へと変容していくプロセスを物語っている。その開発を担う主役のようにして、ブルドーザー、ダンプトラック、クレーン車、コンクリートミキサー、パワーショベル、削岩機などが次々と登場してくる。それらの大型重機は明らかに日本のものではなく、手作業で肉体労働に従事している日本人労働者の姿とは対照的である。
この記録は「日本の土木技術」の成果として仕上げられているが、注意深くたどっていくと、アトキンソン会社事務所、及び作業現場における英語表記も見ることができる。長谷部成美の『佐久間ダム』(一九五六年、東洋書館)によれば、アトキンソン社とは佐久間ダムプロジェクトにおいて、電源開発株式会社が助力を仰いだアメリカの土建会社で、先に挙げた大型重機などはそこから調達されたものだ。それに映像には示されていないのだが、それらの運転手や技術者もまた、アトキンソン会社から派遣されてきたアメリカ人だと考えるべきだろう。そのような視点からすれば、この佐久間ダムプロジェクトは、アメリカによる日本の山や川の開発のようにも思えてくるし、それは戦後なるものをも象徴する、ひとつの村の死と三百世帯の住民たちのディアスポラ化を浮かび上がらせる。
それに重なるように、第二部は建設の殉職者たちに捧げられて始まっている。長谷部の同書には死者八七人、重傷者一九九三人と述べられている。また小学校の桜も映され、夏休みの生徒たちも出てくる。それに大きく手を振って村を去っていく人々が見えなくなるまでのシーンもフィルムに収められ、それらは「戦後の経済復興を象徴する」佐久間ダムプロジェクトの背後で起きていたひとつの共同体の消滅、山村の水没を告げている。この佐久間ダムを起点として、戦後のダム建設が各地において始まっていったことも忘れるべきではない。
そしてこれも先の『昭和二万日の全記録』に見えているが、佐久間ダムプロジェクトは「日本のTVA」と呼ばれていたという。TVAとはTennessee Valley Authority(テネシー流域開発公社)の略称で、一九三三年にニューディール政策の一環として設立されている。二九年のニューヨーク株式取引所における株価大暴落に端を発する大恐慌は、アメリカのGNPを半減させ、千三百万人の失業者を生み出し、銀行危機をも招来させていた。その渦中の三三年にローズヴェルトは大統領の地位についた。
ウィリアム・ルクテンバーグの『ローズヴェルト』(陸井三郎訳、紀伊国屋書店)は当時のアメリカ社会状況に関して、次のようなひとつの回想を引いている。「歴史にのこるあの一九三二−三年の残酷な冬は、ほんとうにたくさんの人びとを世界の終末のように絶望させた。……それはこごえるような風だった。私たちの住んでいる家までがちぢみあがり、実際救いの望みもなかった」。そこにローズヴェルトは恐慌対策としての失業者救済、農民への融資と生産統制による農産物の価格維持のためのAAA(農業調整法)、地域総合開発を志向するTVAの設立、金融・証券制度の欠陥の是氏、復興金融公社による銀行の立て直し、総合的産業政策としてのNIRA(全国産業復興法)などのニューディール政策を講じたのである。とりわけTVAは電気料金を下げ、多くの失業者や農民に仕事を創出したことで、その特筆すべき成功例とされている。これらの政策に携わった人々や支持者たちは、ニューディーラーと称されるようになっていく。
ローズヴェルトのニューディール政策は、ケインズ経済学でいうところの大きな政府によって賢明に管理された資本主義のアメリカ版の実践でもあった。しかし三九年のヨーロッパでの戦争の勃発やドイツの直接的脅威を背景とし、アメリカ経済も戦時体制に組みこまれていき、七年間に及んだニューディール政策の時代も終焉を迎えることになる。
だがそれで終わったわけではなく、ニューディール政策は、一九四五年以後の敗戦国の日本へと移植されていったように思える。GHQによる日本占領の初期にはニューディーラーたちがそのコアとなり、日本国憲法の草案に携わったことは伝えられているが、電力会社の再編に加えて、五〇年の国土総合開発法の成立も占領下におけるものであり、おそらくアメリカのニューディーラーの影響下に立案され、それゆえにTVAを範とし、そのシンボルとも称される佐久間ダムプロジェクトへと結びついていったのではないだろうか。
本間義人の『国土計画を考える』(中公新書)などによれば、国土計画という言葉はナチス・ドイツの「国土計画Landesplanning(自動車道路、住宅建設計画等)」にならった用語で、日本では太平洋戦争下の一九四〇年に企画院が国防国家体制の強化、生産力拡充、開拓・移民促進といった国策のために策定した「国土計画設定要綱」で初めて使用された。それは戦後になって内務省に引き継がれ、植民地を失ったことで国土が限定され、しかも復員や引き揚げで人口が急膨張する中において、経済復興をめざさなければならないとして、四六年に最初の国土計画案である「復興国土計画要綱」が発表された。だが四七年に内務省は廃止となるので、国土計画は経済安定本部、後の経済企画庁に移され、繰り返すが、五〇年に国土総合開発法が制定、施行されるのである。
そして先述してきたように、五三年からその象徴としての佐久間ダム建設が始まっていく。しかし五〇年代は佐久間ダムなどの水力発電や地域開発が主流で、全国的な総合開発計画は策定されていなかった。それが本格的に始まるのは六〇年代に入ってからであり、現在まで続いている全国総合開発計画のスタートでもあった。その年度、策定時内閣、その背景をチャート化してみる。
* 一九六二年 池田内閣 /全国総合開発計画(一全総)/高度成長経済への移行、過大都市問題・所得格差の拡大、所得倍増計画(太平洋ベルト地帯構想) * 一九六九年 佐藤内閣 /新全国総合開発計画(二全総)/高度成長経済、人口・産業の大都市集中、情報化・国際化・技術革新の進展 * 一九七七年 福田内閣 /第三次全国総合開発計画(三全総)/安定成長経済、人口・談業の地方分散の兆し、国土資源・エネルギーなどの有限性の顕在化 * 一九八七年 中曽根内閣 /第四次全国総合開発計画(四全総)/人口・諸機能の東京一極集中、産業構造の急速な変化などによる地方圏での雇用問題の深刻化、本格的国際化への進展 * 一九九八年 橋本内閣 /二一世紀の国土のグランドデザイン(五全総)/地球時代(地球環境問題、大競争、アジア諸国との交流、人口減少・高齢化時代、高度情報化時代
このように五次にわたる全国総合開発計画を並べてみると、戦後生まれで、高度成長期とともに育ち、産業構造の転換に伴う消費社会の出現を見て、現在の人口減少、高齢化、高度情報化社会を迎えるに至ったオキュパイド・ジャパン・ベイビーズが、これらの国土計画の中で生きてきたことを実感させられる。
ダムだけではなかったのだ。郊外や消費は会の出現も、また経済も社会も家族の生活も、これらの国土計画と無縁ではなかったし、国家の大きな物語の中に置かれていたといえるのである。しかしその果てに出現してくる社会とは何なのか。それが二一世紀のイメージを造型するための、まさに大きな問題と化しているように思える。
なお脱稿後に日本人文科学会『佐久間ダム』(東大出版会、一九五六年)という総合的研究書が出されていることを知ったので、付記しておく。