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古本夜話564 大川周明、井筒俊彦、東亜経済調査局

前回挙げた大塚健洋の『大川周明』中公新書)の中に、大川がポール・リシャールと親交を重ねる一方で、東亜経済調査局に採用され、その編輯部長となったことが記されている。てもとにその東亜経済調査局編の一冊があるので、大川とイスラム井筒俊彦との関係を書いてみる。ちなみにこれは昭和七年に先進社から刊行された『一九三〇年一九三一年支那政治経済年史』である。編者の東亜経済調査局は東京市麹町区内山下町一‐一東洋ビル三階にあり、代表者は佐藤貞次郎となっている。
大川周明

司馬遼太郎との対談「二十世紀末の闇と光」(『井筒俊彦著作集』別巻所収、中央公論社)における井筒の発言によれば、大川周明がオランダから、アラビア語の基礎テキストの「イスラミカ」、イスラム研究の全文献の「アラビカ」のふたつの叢書を大金で買い求め、それらを東亜経済調査局の図書室に入れた。そしてその整理を井筒が担当し、自分が利用するだけでなく、日本にいる大学者ムーサーのために借り出したりした。だが敗戦によって、それらの蔵書は占領軍に接収され、小さな大学の地下室に積んでおかれ、だめになってしまったという。

そこで東亜経済調査局をトレースすれば、明治三十九年に創立された南満州鉄道株式会社、通称「満鉄」は初代総裁の後藤新平の「文装的武備論」の意向のもとに、これは植民地経営のソフトな文化戦略と見なせようが、四十年に満鉄調査部を発足させる。そして大連の本社に調査課、東京に東亜経済調査局、満鮮歴史地理調査部、自然科学の分野では大連などに中央試験所、地質学研究所、農業試験場、さらに旅順に旅順工学堂(後の旅順工大)、奉天南満州医学堂(後の満州医大)を設置した。この系譜上に大連図書館や奉天図書館、建国大学も設立されたと考えられる。このようなシフトからすれば、東亜経済調査局は満鉄調査部の東京支社とよんでいいかもしれない。

それをふまえ、あらためて『一九三〇年一九三一年支那政治経済年史』を開くと、菊判八百ページを超える同書が月刊『東亜』の時事評論と研究からなり、「凡例」には「一九三一年九月十八日の柳條溝事件を一契機として、満蒙は、新たなる急展開の過程にある」と記されていた。紛れもないリアルな現代史資料として編まれていたのだ。

ここでは山田豪一の『満鉄調査部』(日経新書)、草柳大蔵『実録満鉄調査部』』(朝日新聞社)などを参照し、東亜経済調査局をたどってみよう。明治四十一年に東亜経済調査局は「世界経済とくに東亜経済にかんする諸般の資料を蒐集整理し、これを基礎として、日本および満蒙の経済的立脚点を知悉せん」とする目的で設立された。日本で最初の組織的経済調査機関の基盤構築、資料収集、整理分類のために三人のドイツ人顧問が雇われ、アルファベットと数字の組み合わせによるカードシステムが導入された。そして資料収集のための欧米各国の新聞、雑誌、書籍の大量購入、内外の官庁、特に欧米の経済調査機関、大会社間での報告書、刊行物、資料類の交換によって、膨大な資料が蓄積され、大正に入って月刊で『経済資料』が刊行できるようになった頃から、その資料の独自性が確立された。
満鉄調査部実録"満鉄調査部"

二代目の局長の松岡均平は東亜経済調査局について、「資料局すなわちArchive に相当する」と考えていたが、外部からわかりやすい名称ということで、「調査局」と名づけられたと語っている。さらにそこに集められた人々は「まるで右翼から左翼まで、思想のオンパレードを見るようなもの」で、「東亜経済調査局はインテリの“梁山泊”だった」(草柳大蔵)のである。右翼は猶存社、左翼は新人会のメンバーが揃っていたからだ。

その中に一人が大川周明で、大正七年に入局し、八年に編輯課長、調査課長、財団法人化された昭和四年には理事長になり、その間の大正十四年には『特許植民会社制度研究』(宝文館、昭和二年)という論文で、法学博士となっている。それは東亜経済調査局に収集された資料を十全に読みこなしたゆえの業績だった。「大川は数ヵ国語に通じた語学の才があった。ヨーロッパ第一級の資料局に準じ、整然と分類された欧文資料は、大川によって最適の利用者をえた」(山口豪一)とされる。

特許植民会社制度研究書肆心水

そしてこれは東亜経済調査局のエピソードではないが、山田も草柳も満鉄調査部の特筆すべき文献収集にふれ、ソビエト・ロシア研究のための三万冊のコレクション、白鳥庫吉やその助手津田左右吉が属していた満鉄東京支社の満鉄歴史地理調査部のために購入した朝鮮文献などに言及し、草柳はいみじくも「満鉄が社員が必要とする古籍をポンと買ってしまうのは、一種の“御家芸”のようになっている」とも書いている。

大川周明もその「御家芸」を発揮して大金を払い、イスラム文献をオランダから購入したにちがいない。もちろんこの事実は満鉄調査部の歴史には出てこないが、東亜経済調査局」図書室に収められたそれらの高価なイスラム文献を井筒俊彦が整理分類し、大学者ムーサーの要望で借り出し、昭和十年代の東京で、もう一人の大学者イブラヒムと交代するかのように、アラビア語イスラム研究の深化が計られたのであろう。なおその一方で、やはり東亜経済調査局にいて、日本最初のロシア語辞典を編纂した嶋野三郎は、イスラム諸国を味方にする「マホメット工作」を担当し、昭和十三年に代々木上原に回教寺院を建立している。イスラムと東亜経済調査局の関係は深い。

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