吉田修一の『悪人』の冒頭には、まずその物語のトポロジーを提出するかのように、三瀬峠を跨いで福岡市と佐賀市を結ぶ全長48キロの国道263号線の現在の風景が描かれている。その起点は福岡市早良区荒江交差点で、一九六〇年代半ばから福岡市のベッドタウンとして発展してきたこともあって、周囲には中高層マンションが建ち並び、東側には巨大な荒江団地がひかえていた。また文教地区でもあり、福岡大学や西南学院大学なども点在していた。
その起点から263号線をまっすぐ南下すると、「街道沿いにはダイエーがあり、モスバーガーがあり、セブンイレブンがあり、『本』と大きく書かれた郊外型の書店などが並ぶ」ロードサイドビジネスからなら郊外消費社会の風景が続いていく。その風景の中を抜けると、真新しいアスファルトと白いガードレールの三瀬の峠道が始まり、福岡と佐賀の県境にある三瀬トンネルへと至る。これは「やまびこロード」と呼ばれる有料道路で、峠道の急カーブや急勾配といった交通難を解消するために、一九七九年に事業化され、八六年に開通していた。この峠道は昼間でも鬱蒼とした樹々に覆われていたし、夜間は懐中電灯を頼りに山道を歩くような心持になるし、昔から殺人事件などにまつわる「霊的な噂話が絶えない」トポスでもあった。だが長崎・福岡間は高速を使わず、この峠越えをすれば、トンネル代を払っても千円近く節約できたのである。この国道263号線と高速・長崎自動車道が、『悪人』の物語の血脈として出現してくる。
それらの道路と事件の関係、及びその概要が、実際にはエピローグとして読めてしまうが、物語のプロローグのように続けて叙述されているので、それを引いてみる。これはおそらく『悪人』が道路を血管として紡ぎ出された物語であることを示そうとしているのだろう。
二〇〇二年一月六日までは、三瀬峠と言えば、高速の開通で遠い昔に見捨てられた峠道でしかなかった。(中略)
しかし、九州北部で珍しく積雪のあったこの年の一月初旬、血脈のように全国に張り巡らされた無数の道路の中、この福岡と佐賀を結ぶ国道263号線、そして佐賀と長崎とを結ぶ高速・長崎自動車道が、まるで皮膚に浮き出した血管のように道路地図から浮かび上がった。
この日、長崎郊外に住む若い土木作業員が、福岡市内に暮らす保険外交員の石橋佳乃を絞殺し、その死体を遺棄した容疑で、長崎県警察に逮捕されたのだ。
九州には珍しい積雪のあった日で、三瀬峠が閉鎖された真冬の夜のことだった。
そしてこの事件には前回の窪美登『ふがいない僕は空を見た』や前々回の畑野智美『国道沿いのファミレス』と同様に、これも道路と同じく物語の血管のようにして、携帯電話、メール、出会い系サイト、インターネットなどによるヴァーチャルな回路も組みこまれている。それは二一世紀を迎え、成熟した郊外消費社会がヴァーチャルな郊外空間ともいうべきネット社会ともリンクしながら変容し、二〇世紀とは異なる混住社会を形成しつつあることを告げている。
「長崎市郊外に住む土木作業員」が起こした事件はその体現ともいえるもので、吉田の『悪人』はそのような二一世紀の郊外と混住社会がもたらした孤独、及び孤独な男女を表出させている。そして本連載37のリースマンのいうところの一九五〇年代のアメリカで誕生した「孤独な群衆」が二一世紀を迎え、日本の地方にまで及んでいったことを実感させてくれる。主人公の清水祐一は二十七歳の土木作業員で、長崎から佐賀県大和のインターチェンジを経て、三瀬峠に至り、福岡にいる保険外交員の石橋佳乃に会いにいこうとしていた。祐一と佳乃は出会い系サイトで知り合い、その夜は天神の東公園の正面前で会う約束だった。
祐一は工業高校を卒業後、小さな健康食品会社に就職したが、すぐに辞めてしまい、カラオケボックスやガソリンスタンドやコンビニでバイトしたりしているうちに二十三歳となり、今の土建屋で働くようになったのである。彼はスカイラインのGT-Rに乗り、ハンサムではあったが、金髪に染め、ユニクロで買った赤やピンクの派手な色のトレーナーを着ていた。カラオケボックス、ガソリンスタンド、コンビニにユニクロを加えると、彼はロードサイドビジネスの落とし子のような存在に他ならないし、その外見はアメリカ人のメタファーのようでもある。だから久留米の床屋の娘だが、短大を出て二十一歳となり、博多で暮らす佳乃にしてみれば、ラブホテルにはいったものの、祐一は面白い相手ではなかった。それに彼女が勝手に思いこんでいる本命はアウディに乗り、博多駅前の広いマンションを借りている裕福な増尾という大学四年生だった。この疑似三角関係が、先に引用した佳乃を死に至らしめ、二〇〇一年十二月十日に三瀬峠で発見されたことになる。
そのような第一章が主として佳乃の視点から「彼女は誰に会いたかったのか?」として語られ、第二章の「彼は誰に会いたかったのか?」へと引き継がれ、前章が福岡を舞台としていたことに対し、この章は長崎市郊外に転じ、しゅとして祐一の側から語られている。祐一の住む郊外とは一九七一年に埋め立てて海岸線を奪われた漁港に近い地域で、そこはつながっている広い国道と異なり、細い路地が張り巡らされた「小人の国」のような漁村だった。それと対照的に埋め立てで陸続きになった島には造船所の巨大なドックがあり、「巨人の街」といえた。また祐一の生い立ちも語られていく。彼の実家はこの路地の突き当りにあり、長年造船所に勤めていた祖父勝二、祖母房枝と一緒に住んでいた。祖父母には二人の娘がいて、次女の依子が祐一の母親だが、若くして結婚し、すぐに祐一を産んだ。ところが祐一が保育園に入る頃、夫が出奔してしまったので、彼女は祐一を連れて実家に戻ったけれど、すぐに男を作り、祐一を祖父母に押しつけ、家を出て、今では雲仙の大きな旅館で仲居をしているようだった。それで祖父母は祐一を育て上げ、中学に上がる時、養子とし、名字も清水姓となり、現在勤めている解体屋も祖母の姉妹の息子が経営者であった。祖父は重い糖尿病で寝たきりとなり、一家にとって祐一の存在は大きなものになっていた。その上この地域でも独居老人や老夫婦が多く、唯一の若者で車を持っている祐一はたよりにされていた。
そのような祐一の生い立ち、さらに一体何が楽しくていきているのかわからない若者の現在が語られていく中で、車を乗り回して寝不足のせいなのか、蒼白となり、身震いして嘔吐する彼の姿が描かれ、それは夕食時にも繰り返される。また二年前に長崎市の繁華街にあるファッションヘルスの美保のところに毎晩のように通い、それが疑似恋愛という段階にまで発展し、彼女はそれが恐ろしくなり、その店を辞めていたという挿話も述べられていく。祖父を連れていった病院で、美保は祐一と再会するのだが、祐一はただ顔を青ざめさせるだけで、おそらく彼にしてみれば、殺してしまった佳乃の姿が美保と重なってしまったのだ。「駐車場へ向かう祐一の姿が、月明かりに照らされていた。すぐそこにある駐車場に向かっているはずなのに、美保の目には、彼がもっと遠くに向かっているように見えた。夜の先に、また別の夜があるのだとすれば、彼はそこに向かっているようだった」。月明かりに照らされた彼の姿はまさにゾンビのようでもある。
だがその祐一の行く先にしても、郊外消費社会から逃れられないかのように、次のような描写が挿入される。彼は幼なじみからのメールによって呼び出されたのだ。その幼なじみは同じ地域育ちだったが、父親がギャンブルで借金をしたため、家と土地を売り、夜逃げ同然に市内の賃貸マンションに移っていたのだった。
(文庫版)
パチンコ店「ワンダーランド」は、街道沿いに忽然とある。海沿いの県道が左へ大きくカーブした途端、下品で巨大な看板が現れ、その先にバッキンガム宮殿を貧相に模した店舗が建っている。
誰が見ても醜悪な建物だが、市内のパチンコ店に比べると、出玉の確立が高いので、出末はもちろん、平日でも大きな駐車場には、まるで砂糖にたかる蟻のように、多くの車が停められている。
全国の郊外のどこにでも見られる風景であり、それは第三章の「彼女は誰に出会ったか?」において召喚される馬込光代を取り巻く生活環境ともつながっている。そこは佐賀市郊外で、彼女は国道34号線沿いにある紳士服量販店「若葉」に勤め、二階のスーツコーナーを担当していた。まだ独身で、来年は三十歳になる。隣接するのはファーストフード店で、これらも見慣れた郊外のロードサイドビジネスが建ち並ぶ風景である。四十二歳になる同僚の水谷和子は家電販売店の店長を夫としているが、大学三年の一人息子が部屋でパソコンに弄ってばかりで「ひきこもり」だと心配している。だが光代は思う。
水谷の息子を庇うわけではないが、この町で外に出たところでたかが知れている。三日も続けて外出すれば、必ず昨日会った誰かと再会する。実際、録画された映像を、繰り返し流しているような町なのだ。そんな町より、パソコンで広い世界に繋がっていたほうが、よほど刺激的に違いない。
光代は双子の姉妹である珠代とともに、田んぼの一角に建てられたアパートに住んでいる。ロードサイドビジネスと田んぼとアパートが共存する風景。二人とも独身だから、昭和の時代であれば、近所の小学生などが「双子の魔女」と噂するに違いない。姉妹は地元の高校を卒業し、そこしか受からなかったこともあって、食品工場に就職した。仕事はライン作業で、働いていた三年間で目の前を何十万というカップ麺が流れたことになるが、先に妹の珠代が辞め、ゴルフ場のキャディとなり、その後商工会議所の事務員に収まった。光代もお定まりの高卒の女たちを対象とするリストラに遭い、工場の職業斡旋で紳士服店に転職し、実家を出て、二人でアパートを借りたのだった。すると弟は高校の同級生と郊外のメモリアルホールで結婚し、すでに息子も生まれていた。
そのような中で、佐賀にいる光代は長崎の祐一とメールでつながるのである。
祐一は車で何度か走ったことのある佐賀の風景を思い描いた。長崎と違い、気が抜けてしまうほどの平坦な土地で、何処までも単調な街道が伸びている。(……)
道の両側には本屋やパチンコ店やファーストフードの大型店が並んでいる。どの店舗も大きな駐車場があり、たくさん車は停まっているのに、なぜかその風景の中に人だけがいない。
ふと、今、メールのやり取りをしている女は、あの町を歩いている人だ、と祐一は思った。とても当り前のことだが、車からの景色しか知らない祐一にとって、あの単調な町を歩くとき、風景がどのように見えるのか分からなかった。歩いても歩いても景色はかわらない。まるでスローモーションのような景色。いつまでもいつまでも打ち上げられない流木が(ママ)見ているような景色。(……)
これまで寂しいと思ったことはなかった。寂しいというのがどういうものなのか分かっていなかった。ただ、あの夜を境に、今、寂しくて仕方がない。寂しさというのは、自分の話を誰かに聞いてもらいたいと切望する気持ちかもしれないと祐一は思う。これまでは誰かに伝えたい自分の話などなかったからだ。でも、今の自分にはそれがあった。伝える誰かに会いたかった。
その「自分の話」とは殺人のことに他ならないのに、それにまだ会ってもいないのに、佐賀駅で待ち合わせ、「灯台を見に行く。海にむかって立つ、美しい灯台を二人で見に行く」ことになったのである。
それでも光代のほうは会うことに迷いながら出かけたのだが、「金髪で背の高い男」の「立ち姿」や「冬日を受けた肌」や「どこか怯えていた彼の目」を見て、「その瞬間を境に何かが変わった。これまでついていなかった人生が、それで終わったような気がした。これから何が始まるかは分からなかったが、ここに来てよかったのだと思った」。佳乃と異なり、光代にとって祐一が、自分の「これまでついていなかった人生」を変えてくれそうな存在に映ったのだ。郊外の寂しい男と女が出会ったのである。そして二人が郊外消費社会の中で成長したことも語られていく。
男のほうは殺人を犯し、女のほうも本来であれば、一年半前にバスジャック事件に巻きこまれるところだった。それぞれのトラウマを抱えながら、まさに二人の道行が始まっていく。母親から捨てられた記憶を有する祐一にとって、光代との道行はそのトラウマからの脱出を意味するものであり、それはラブホテルから呼子の灯台へと至り着く。だが光代は「悪人」の祐一を見捨てたりはしない。物語の後半への言及はほとんど省略してしまったが、『悪人』の骨格は提出できたと思うので、ここで止めることにしよう。
この吉田修一の『悪人』を読みながら、ずっと脳裡を去らなかったのは、村上龍の『寂しい国の殺人』(シングルカット社、一九九八年)というタイトルである。同書の内容に関しての言及は差し控えるが、そこには「現代を被う寂しさは、過去の度の時代にも存在しなかった。(……)今の子どもたちが抱いているような寂しさを持って生きた日本人はこれまで有史以来存在しなかった」という一節があったからだ。そして今世紀に起きている殺人事件もまた「寂しい国の殺人」的メタファーに覆われているように思えてならならい。
なお『悪人』は李相日監督により、映画化もされている。