本連載で、郊外消費社会が全国的に出現し始めたのは一九八〇年代だったことを繰り返し書いてきた。だからその歴史はすでに四半世紀の年月を経てきたことになる。それ以前の六〇年代から七〇年代にかけての郊外はまだ開発途上にあり、新しい団地に象徴されるように、高度成長期に地方から都市へと向かった人々にとって、ユートピアではないにしても、約束の地といったイメージが含まれていた。
そして八〇年代のファミリーレストラン、ファストフード、コンビニエンスストアなど始めとするロードサイドビジネスによる郊外の消費社会化は、その約束の地をコンビニエンスな空間へと変貌させたように見え、さらなる期待も含まれているかのようだった。しかしその隆盛とパラレルに、ロードサイドビジネスの建築様式はどれもCI(コーポレート・アイデンティティ)によって同一規格化されているために、全国各地の郊外の風景は均一画一化し、かつての商店街は衰退し、ゴーストタウン化していく一方だった。
だがそのような郊外への期待も九〇年代初頭のバブル崩壊とともに後退し、また今世紀に入ると、巨大な郊外ショッピングセンターの建設が始まり、飽和状態となっていた郊外消費社会の空洞化を迎えようとしていた。それと機を同じくして、ついにショッピングセンターも含んだ郊外消費社会をディストピアとして描いた物語の出現を見るに至った。その小説は〇九年九月に刊行された奥田英朗の『無理』である。
『無理』は東北地方の人口十二万の「ゆめの市」を舞台としている。それは三つの町が合併して一年前に誕生した新しい地方都市で、紛れもない郊外消費社会であることが、物語の冒頭に映し出される風景からわかる。
四車線ある国道の両脇には、原色の大きな看板が、不出来なテーマパークのように並んでいた。「靴」「酒」「本」。そこに掲げられた文字は、目立てばいいとでも言いたげだ。そして見事なまでに景観を破壊していた。子供の頃、家族とのドライブでこの辺りを通ったことがあるが、一面は美しい田園地帯だった。地元の子たちが凧揚げをしていてうらやましく思った記憶がある。今では量販店とファミリーレストランとパチンコ店の激戦区だ。おかげですべての駅前商店街がさびれ、シャッター通りと化した。
中にひとつ、「夢野あるゆめの市」と大書きされた大きなボードがあった。今の市は「湯田」「目方(めかた)」「野方(のかた)」という三つの町が合併して誕生した。それぞれの頭の字を取って「ゆめの市」となった。これといった反対運動が起こらなかったことからして、たまたま語呂がよかった偶然が受け入れられたのだろう。「向日郡(むこうびぐん)」という歴史ある地名はあっさり葬り去られたのだ。
そのロードサイドのパチンコ店は平日の昼間でも五割方の入りで、定職についていない男と暇な主婦たちが大半を占め、学生と老人は意外に少なかった。それは時間つぶしにはリスクが大き過ぎたし、毎日通わなければ勝たない仕組みだったからだ。だが「もしパチンコ店がなかったら、無為に時間を過ごすしかない人間は居場所がない。たとえ時間潰しでも、行くところがあるというのは、彼らにとっての救いなのだ」。郊外消費社会のエリアシェアとして、パチンコ店はどの地域においても最大であろうし、それはギャンブル性とともに確かに「居場所」が求められていることによっているのだろう。それらだけでなく、『無理』において、パチンコ店は主婦売春の場としても機能し、郊外消費社会のロードサイドにある金と性のトポスに他ならないことを露出させている。
また同じく国道沿いにはドリームタウンという「ゆめの市」で唯一の観覧車付きの複合商業施設、つまりショッピングセンターがあり、両隣の市にあるジャスコやイトーヨーカドーと熾烈に競合している。駅前デパートは閉店し、町は雪もつもり、風も強いので、車がないと買い物にもいけない。
だがその通称「ドリタン」もスーパーを中心として、いくつものロードサイド系飲食店のほかに、ボーリング場、シネコン、ゲームセンターなども揃っていたが、女子高生があこがれる洒落たブティックもカフェもない。といって出かける先はこのショッピングモールしかない。しかしここは万引の巣窟のようでもあり、痴漢も出没し、喧嘩もよく起きていた。それに近隣のロードサイド量販店との競合もあり、各店舗は一時間延長し、十時までの営業になっていた。
スーパーの副店長はぼやく。「こんな田舎で夜遅くまで開けんなよ。従業員なんて大半が主婦のパートだろうが。どうやって人員確保しろっていうのよ。(……)こういう競争して、いったい誰がしあわせになるのよ。わけがわかんねえ。(……)」
山を切り開いて建設された大型団地は高齢化が進み、死んだような限界集落となり、まともな就職先のない町からは若者たちが流出している。その結果、「ゆめの市」は中卒者と母子家庭の多さ、低所得者層と高齢単身世帯の著しい増加、全国平均の一・五倍に達する、三パーセントを超える離婚率を示し、被生活保護世帯は二十世帯に一世帯という四千世帯に至り、その金額は市の予算の十三パーセントに及んでいる。それに加えて、郊外大型店の進出で商店街がつぶれ、コミュニティが崩壊し、バイパスが市の中央を貫いているために外からの犯罪者の流入もあり、犯罪発生率が十年間で倍増し、それに部品工場で働くブラジル人労働者たちも増え、新たなマイノリティ・グループが形成されつつあった。
(文庫版)
ゆめの市には大手部品メーカーの工場があり、ここ数年ブラジルから多くの労働者が出稼ぎにきていた。中には、家族を呼び寄せて住み着く日系ブラジル人もいて、その子供たちが徒党を組み、悪さをすると問題になっていた。野方町の古い町営団地はもはやブラジル村で、中学校にもたくさんの転校生がいるようだ。
また日系ブラジル人たちばかりでなく、フィリピン女性たちも出現して、売春にいそしんでいるようだ。そしてそこに新興宗教も加わっている。すなわち『無理』におけるロードサイドビジネスとショッピングセンターの出現、三つの町の合併、日系ブラジル人やフィリピン人の流入などのすべてが、あわただしく形成されてしまったひとつの地方自治体の混住社会化を告げるものだった。
もちろん「ゆめの市」はフィクションであるにしても、その郊外消費社会に包囲された地方都市の風景や商店街のシャッター化は全国共通のものであり、いずこも同じような問題を抱えていることは周知の事実となっている。それゆえに『無理』は現在を彷彿させる物語コードにあふれているといえよう。事件も出来事も登場人物たちもあまりにもパターン化され、デフォルメが施されているにしても。
奥田は「ゆめの市」をこのように描き、説明することで、小さな地方都市そのものを「下流社会」として設定し、物語を立ち上がらせようとしている。それは意識して書きこまれた「どうせゆめの市には富裕層も知識層も存在しない」「いつの間にか中流神話は過去のものになった」などという言葉に象徴的に示されている。
それではこの物語のためにどのような登場人物たちが召喚されているのだろうか。当然のことながら、誰の目にも「灰色」に移る「ゆめの市」に晴れがましいヒーローやヒロインが姿を見せるはずもないが、それらの人々を紹介しておくべきだろう。
社会福祉事務所で生活保護者を担当する公務員の相原友則、引きこもり男に拉致監禁される女子高生の久保史恵、詐欺的訪問販売に従事する暴走族上がりの青年の加藤裕也、ドリームタウンで保安員を務め、新興宗教に入っている中年女の堀部妙子、産廃業者と癒着した不動産会社の社長でもある市会議員の山本順一、団地住民で母親と二人暮らしの失業男の西田肇などである。
このような登場人物たちをめぐって、離婚のトラウマ、崩壊した家庭、新興宗教の介入、人妻たちの援助交際、引きこもりのゲームマニアによる女子高生誘拐と監禁、産廃施設に対する反対運動、ブラジル人たちと地元の不良勢力との抗争、殺人事件などがふんだんに配置されていく。それらは近年に起きた様々な事件のパスティーシュのようでもある。そして主たる登場人物たちは郊外消費社会のメインステージともいうべき国道での破滅的な大団円に向けて連鎖し、加速していく。それは「ゆめの市」が名前と異なるディストピアであったことを否応なく露出させ、「灰色」の町の寒々しいドラマを終焉へと導くのである。
しかしこの『無理』は小説であることを考慮しても、なぜ郊外消費社会に包囲された「ゆめの市」が「下流社会」化したのかについて、地域社会と産業経済構造に関する言及がないので、リアリティに欠けているといわざるをえない。その理由を、かつてはつながりのある地域共同体で、政治や行政も経済もうまくいっていたのに、都会の消費社会的ドラスチックな部分だけを導入したばかりに崩れてしまったこと、地方には文化がないことに起因すると説明されているが、これらの事件に拮抗する説得力としてはとても物足りず、物語の基盤を支えるリアルなものとなっていない。
それは郊外消費社会の背景にある混住社会化を表層的に描いていても、ダイレクトに対置させず、直視していないからのように思える。本連載で既述してきたように、この「混住社会」というタームは一九七二年版の『農業白書』で初めて提出されたもので、当初は郊外における農家と非農家、つまり農業をベースとする在来住民とサラリーマンを主とする流入住民の「混住」を意味していた。私はこの「混住」の意味を広範に解釈し、農耕社会と消費社会、持家とアパート・マンション、日本人とブラジル人、様々なビジネスなどの「混住」の問題にまで当てはめ、それらの「混住」の可能性を見出すべきだと考えてきた。そして郊外の果てへの旅の向うに立ち上がるであろう混住社会を幻視すべきだと。
だからこのような視点からすると、『無理』の前述した主たる登場人物たちはほとんど在来住民たちで、「ゆめの市」という「下流社会」の問題は彼らの視点から組み立てられた物語でしかない。そのために姿は見えても、流入住民やブラジル人たちの眼差しが含まれておらず、立体的なイメージを伴って「ゆめの市」が出現していない。あるいは混住の有機的シーンも垣間見られない。それゆえに破滅的大団円へと至るディストピア小説として終わってしまったことになる。
例えば、本連載2、3 の桐野夏生の『OUT』(講談社文庫)において、同じように郊外消費社会とコンビニの弁当工場が描かれ、日系ブラジル人たちも登場しているが、郊外消費社会と工場の関係、ヒロインと彼らの共生が物語のラストできわめて効果的に浮かび上がってくる仕掛けになっていた。だが残念なことに『無理』も元保安員の中年女が弁当工場に勤めるようになるのだが、彼女と工場と宗教との関係も今ひとつ明確なイメージに至らず、中途半端な幕切れのように見える。その新興宗教問題にしても、本連載29 の篠田節子の『ゴサイタン・神の座』(双葉文庫)のような玄妙さと奥行に欠けている。
このように『無理』は郊外消費社会に象徴される地方都市ノディストピア小説としての欠点をあげていけば、さらに多くを指摘できる。しかし奥田がこの『無理』を構想するに至ったのは、物語作家として全国各地で目撃してきた尋常ならぬ地方商店街に代表される疲弊した風景、「中流神話」が崩壊してしまった風景に触発されたからに他ならないだろう。彼もまたその風景の中に、村上龍が今世紀初頭の日本社会を描いた『希望の国のエクソダス』(文春文庫)において、主人公に呟かせた「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが希望だけがない」という言葉を聞きつけたのではないだろうか。「この国」を「郊外消費社会」と読み換えても、それはまったく同じだからである。それがさらに切実な声となって、『無理』の物語からも聞こえてくる。だがその破綻のイメージは提出されても、真の「エクソダス」への道はまだ発見されていない。