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古本夜話575 レンギル『ダニューブ』、埴谷雄高、山本夏彦

前回、地平社の単行本をリストアップしたが、そこにエミール・レンギル著、伊藤敏夫訳『ダニューブ』という一冊が含まれていたことを覚えているだろうか。

先にいってしまえば、訳者の伊藤敏夫は埴谷雄高ペンネームで、この名前は妻の結婚前の伊藤敏子からとられている。それゆえに『ダニューブ』は埴谷の初めての翻訳として、昭和十七年に刊行されたのだが、平成十年に出された講談社『埴谷雄高全集』第二巻に収録されるまで、幻の書となっていたという。もちろん私も入手しておらず、その「月報」で地平社と表紙に版元名が記載された書影を見るのも初めてだった。本連載358でやはり同巻所収の『フランドル画家論抄』に関してはかつて古本屋で目にしていると書いたけれど、これまで『ダニューブ』の実物は一度も見ていない。しかし紛れもなく、これが埴谷雄高の最初の翻訳のみならず、最初の本ということになる。
『埴谷雄高全集』第二巻(『埴谷雄高全集』第二巻)

『ダニューブ』はドイツの黒森に起こってルーマニアの黒海へ流入する多くの異民族の古くからの歴史をたどり、ヨーロッパ現代政治の裏面を浮かび上がらせる構成となっている。「青きダニューブ」と「赤きダニューブ」の章はドイツとソビエトの戦争、すなわち独ソ戦を予測し、それに対して英仏米はどのように対処するのかを問うていた。そこで日本はどうなるのかの問題が重なり、埴谷の翻訳の意図もその点にあった。著者のレンギルは一八九五年ハンガリーのブタペストに生まれ、第一次世界大戦に従軍し、捕虜としてシベリアに送られた後、ジャーナリストとしてアメリカに滞在している。『ダニューブ』の原書刊行は一九三九年、つまり昭和十四年で、実際に昭和十六年六月には独ソ戦が始まっていたのである。

これも同巻に収録され、明らかになったのだが、埴谷は訳書刊行に先立つ昭和十六年の『改造』五月時局版に、その一部を「血のダニューブ」として、やはり伊藤名で訳出している。ここに同時代のインターナショナルな状況を常に注視していた埴谷のジャーナリスト的感覚をもうかがうことができる。また白川正芳の「解題」によれば、原書のEmil Lengyel ,The Danube は一九三九年にランダムハウス版、四〇年にゴランツ書店版が出されているという。
The Danube

この『ダニューブ』に注目した埴谷のセンスはさすがだと思うが、それ以上に興味深いのは彼を取り巻く同時代の社会状況である。これも白川の聞き書きなどによれば、昭和十五年三月に三十歳の埴谷は経済情報社に入社している。同社は昭和研究会の有力メンバーの経済学者高橋亀吉が編集長時代に大きく成長させた『経済情報』を発行していた。埴谷が入社したのは、かつての『農民闘争』をともにした遠坂良一や宮内勇が先に入り、埴谷を引っ張り、彼は『経済情報』の一日号「政経篇」の編集に携わった。その経済情報社の近くに昭和研究会があり、その事務局長が田中英光の兄の岩崎英恭で、埴谷と同じく左翼だったことから、そこに出入りするようになり、その書棚に『ダニューブ』の原書を見つけたのである。

このような経済情報社をめぐる左翼人脈、その後大政翼賛会へと向かっていく昭和研究会、そこでの埴谷と『ダニューブ』の出会いといった奇妙なリンクもさることながら、当時の経済情報社には何と山本夏彦も勤めていた。山本の『一寸さきはヤミがいい』(新潮社)所収の「年譜」の昭和十五年、二六歳のところに「経済情報社で埴谷雄高と同僚になる」と記されている。山本は財界人のインタビューを担当していたようだ。
一寸さきはヤミがいい

また山本は『最後の波の音』(文藝春秋)所収の「人生はさびしき」で、やはりその時代に経済情報社にいた校正係の中垣虎児郎とともに、埴谷のポートレートも描いている。
最後の波の音

 他に埴谷雄高がいた。本名般若豊。もう三十を越していたが背の高い好男子だったが、肺病だろう顔色がすすけていた。宮内勇という共産主義者(らしい)男と仲間だった。すでに同人雑誌のなかで文名があったらしく重んじられていた。(中略)
 埴谷とは同じ編集部だから口はきいたが、凡庸陳腐で発言に閃きがなかった。戦後の「死霊」の作者としてながく偶像視される存在になったが、その片鱗も見えなかった。これによって私は作品がすべてで、実物はカスである、もし私が実物を知らなければ埴谷のよき読者になれたかもしれないが、本人を知っていたために読者になれないことがあると知った。
 般若はこれまでずいぶんニヒリストを見たが、君のごときは見たことがないと面と向かって言った。自分の作を君には見せないと言った。そりゃあそうだろう、つとに私は半分死んだ人だ、早く浮世に望みを断っている。こうしているのも死ぬまでのひまつぶしだ。
死霊

山本の言であるから、多少は割り引いて読むべきであろうが、ここまで埴谷を辛辣に描いたのは山本が最初にして最後だと思われる、自分のほうが本当の「死霊」として格上だといっているに等しい。
しかしこのような二人の関係のかたわらで、埴谷は『ダニューブ』を読んでいたことになる。昭和十五年四月にはドイツ軍がノルウェーやデンマークに侵入し、五月には中立国ベルギーの国境も突破し、六月にはパリが陥落している。それはパリに長くあった山本や『経済情報』にも大きな波紋を生じさせたはずだが、山本はそれらに関しては何も記していない。
そのような状況の中にあって、埴谷は「血のダニューブ」を『改造』に掲載し、『ダニューブ』の単行本化も進めていたと思われる。しかし『改造』との関係や地平社とのつながりは判明していない。ただ『ダニューブ』抄訳の理由はそのナチス批判に対し、地平社側が配慮したためだとされている。また前回も地平社の単行本が政治地政学絡みだと記しておいたが、『ダニューブ』もそのような一冊として企画出版されたのであろう。

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