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古本夜話576 笠間杲雄『沙漠の国』

本連載573で、『メッカ巡礼記』の鈴木剛が連合国によって安全な航海を保障された安導券を有する輸送船の阿波丸に乗り、日本をめざしていたが、昭和二十年四月にアメリカの潜水艦に撃沈され、二千余名の乗船者たちとともに海の藻屑と化してしまったことを既述した。

この阿波丸にはもう一人のイスラム教に通じた笠間杲雄も乗船していて、彼はボルネオ司政長官だったが、この三月に陸軍省軍務局付となり、日本へと向かっていたのである。そして日本で敗戦を迎えるはずだったが、それもかなえられなかったことになる。

笠間の立項は人名事典などに見出されないので、田澤拓也の『ムスリム・ニッポン』の中の記述を引いてみる。

ムスリム・ニッポン 
 外務省の官僚たちのなかでイスラム教のスペシャリストと見られていた人物は明治一八年生まれの笠間杲雄だった。昭和四年から七年まで初代のイラン(当時はペルシャ)公使をつとめた笠間は、その後ポルトガル公使に転じたが、『沙漠の国』(同一〇年)、『回教徒』(同一四年)、『大東亜の回教徒』(同一八年)といった著書を次々に刊行している。
 北陸の金沢に生まれて一高から東京帝国大学法科大学に進んだ笠間は、学生時代から内村鑑三のもとに出入りし、キリスト教に傾倒していた。明治四四年に結婚した最初の妻のしのぶもミッション系の女子学院を卒業しており、二人は洗礼を受けていたようだ。その笠間がイスラムに関心を抱いたのは、どうやら任地と関連していたらしい。

そうした経緯と著書の刊行もあって、イスラム世界についての外務省きっての論客と見なされ、昭和十三年に外務省退職後も、イスラムに関する座談会や講演会にもよく呼ばれていたらしい。それは前回のレンギルの『ダニューブ』(『埴谷雄高全集』第二巻所収)にも示された風雲急を告げるバルカン情勢や、迫りつつあった第二次世界大戦も大きく影響しているのだろう。そして大東亜戦争によって占領を広げたアジアのイスラム圏に日本のイスラム専門家たちが総動員されたように、昭和十七年にボルネオの陸軍司政長官に任命され、現地へと赴任していき、先述したように帰国する二十年四月に台湾海峡で、その生を閉じることになる。
『埴谷雄高全集』第二巻(『埴谷雄高全集』第二巻)

その笠間の著書『沙漠の国』(岩波書店)が手元にあるので、その一冊を読んで見た。その前にふれておくと、これは昭和十年第一刊、同十六年第十刷となっていて、当時に日本におけるイスラム社会への関心の高さを示している。これは入手していないけれど、岩波新書の『回教徒』のほうも、同等以上の売れ行きだったのではないだろうか。

それはともかく、笠間の『沙漠の国』は彼が在外生活十数年の間に最も長く滞在したトルコ、ペルシア、アラビアなどに関するエッセイ集といってよく、それゆえに「ペルシア アラビア トルコ遍歴」というサブタイトルが付せられているのだとわかる。それらの多くが『文藝春秋』『改造』などに発表されたようだ。さらに同書に特徴的なのは著者が撮ったと思われるペルシア、アラビア、トルコの写真が、章によっては毎ページのように収録され、「沙漠の国」のエキゾチズムを喚起させる役目を果たしている。

それらに加えて、笠間は文人外交官ともいうべき本質に恵まれているようで、その文章も詩的絵画的であり、ペルシアの「テヘラン銀座」の写真を示しながら、次のように書いている。

 銀座と云つても僅か三、四町の両側に低い店舗が並んでいるだけで、ネオンサインの波逆巻く我が銀座とは較ぶべきもないが、こゝを通る人達は、銀座の廉価版モーダーニズムよりは遥かに詩趣横溢だ。驢馬がトルコマン人に索かれて行くかと思へば、黒衣の女達が駱駝や驢馬に騎つて静に練つて行く。駱駝や驢馬は附近にある隊商宿に泊まる。白い鬚を垂れ、ベルトの付いた、膝まで達(とど)く上衣を着流して、そして一人々々が砲兵工廠を代表するほど、弾丸、拳銃を胸に運ぶ異様なコーカサス人が黒いアストラハンの帽子を被つて行つたり、どう見てもタメルランの侵入軍の一兵卒としか思はれない蒙古たちが、最新式のパリーのリュー・ド・ラ・ペーの衣装を着けた婦人と並んでいく。隊商の列が蜿蜒と続いて、その鈴の音が床しくも中世を偲ばせるかと思ふと、その後からロールス・ロイスが第二十世紀の紅塵を捲いて飛んでいく。

まだテヘラン銀座の描写は続き、それからトップ・メーダン(砲の広場)、アラビアン・ナイトそのもののバザーなどの風景にも及んでいくのだが、長くなってしまうので、そこまでの引用を断念しなければならない。

これらの他にも、ペルシアの大詩人ハフィーズの詩を引きながら描く彼の墓、ペルセポリスの遺跡、モダン・ペルシアの女たちのファッション姿、シリアの砂漠の生活、トルコにおける「人種の市」にして「言葉の市」の実態、日本人の「つら」の問題と人種哲学、日本を発見した海賊メンデス・ピントなど、いずれも好奇心と文飾と見識を備えたエッセイである。このような文章をたどってくると、笠間の他の著書を読みたいという気にさせられる。とりあえずはまず『回教徒』を読んでみようと思う。

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