出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話578 生活社、『東亜問題』、「東亜研究叢書」

前回『概観回教圏』における竹内好の「日本」を紹介し、そこで学術研究を目的とするものに回教圏研究所、東亜経済調査局、東亜研究所があるとの指摘を記しておいた。
(『概観回教圏』)

満鉄調査部の東亜経済調査局に関しては、本連載564の「大川周明、井筒俊彦、東亜経済調査局」、同570「嶋野三郎と『露和辞典』」でふれているが、もう一度取り上げてみたい。それは生活社との関係が気になるからだ。

生活社のことも本連載131「生活社、鐵村大二、小島輝正」で書いているけれど、発行者の鐵村にしても、生活社にしても、その明確なプロフィルと全体像がつかめないし、それは出版物についても同様である。しかし私見によれば、『暮しの手帖』の花森安治の秘められた謎とミッシングリンクは、他ならぬこの生活社との関係に潜んでいるはずで、現在それも別のところで確認しつつある。

それとは別に生活社は東亜経済調査局ともつながっていると推測され、月刊誌として『東亜問題』を発行していたのも、同局との関係からであろう。この雑誌は「真に科学的な東亜研究の確立と、広く東亜の諸問題に関する具体的知識の普及を目的とし、以て東亜に於ける新秩序建設の大使命に対する国民大衆の熱意と協力を喚起せん」として、昭和四年四月に創刊されている。ここに一枚の投げ込みチラシがあり、その表裏に『東亜問題』総目次が掲載されているが、第一号には尾崎秀実の「東亜新秩序論の現在及び将来」を見ることができる。これは当時尾崎が朝日新聞社から満鉄東京支社=東亜経済調査局に移っていたことによると思われる。

また生活社は満鉄調査部より、東亜に関する基礎的文献の翻訳書の発行を委嘱されていて、それを「東亜研究叢書」として発行していた。その一冊を入手したところ、そこに先のチラシがはさまれていたのである。その「東亜研究叢書」を刊行予定も含め、リストアップしてみる。

1 グラネ『支那文明』 /野原四郎訳
2 太平洋問題調査会編『中国農村問題』 /杉本俊郎訳
3 方顕延『支那の民族産業』 /平野義太郎編
4 J・ソープ『支那土壌地理学』 /伊藤隆吉・保柳睦美・上田信三・原田竹治訳
5 シロコゴロフ『北方ツングース族の社会組織』 /川久保悌郎・田中克己訳
6 リンレ『太平天国』 /増井経夫・幾志直方・宇佐美誠治郎・田中美穂訳
7 H・F・ベイン『東亜の鉱産と鉱業』 /矢部茂閲、加藤健訳
8 W・ワグナー『中国農書』上巻 /天野元之閲、高山洋吉訳
9 呉知『郷村織布工業の一研究』 /発智善次郎・近藤浩訳
10 朱邦興他二名『上海産業と上海職工』 /名和統一訳
11 B・ウイリス『支那地史の研究』 /坂本峻雄閲
12 方顕延『中国の綿工業と貿易』 /幼方直吉訳
13 聞釣天『中国保甲制度』 /松本善海訳

これらのうち、既刊とあるのは2、3、4、7、8 の五冊だし、全点が刊行されたのかどうかの確認もできていない。それに岩波書店からも刊行されている。そのことに関しては次回もふれるつもりである。だがここでしか挙げられていない訳書のように思われるし、訳者たちも数人を除き、同様であるかもしれないので、煩をいとわず、すべてを挙げてみた。ちなみに私が入手したのは7で、これはA5判上製、解体寸前の疲れ裸本である。

しかしその編集は学術書の範に値するもので、本文図表は三二を数え、地名、人名、事項索引は二二ページ、参考文献は二三ページに及んでいる。平野義太郎の「序」によれば、ベインの『東亜の鉱産と鉱業』|は極東の鉱物、鉱床、鉱山資源に関するアメリカの最も優れた専門書とされている。また満鉄調査部矢部茂の名で記された「校閲者序」において、「政事地質学の重要性が今ほど急務な秋は無い。世界経済新秩序を確立の前には、其の基本国策となる処の生産力拡充も、畢竟するように、基礎資源の獲得増産を覚悟とするに外ならない」との言が見える。それは同書刊行の昭和十五年十二月時点での「政事地質学」と「世界経済新秩序」の状況を告げていることになろう。
また昭和十五年十月の日付で発されている東亜研究叢書刊行会長の田中清次郎の「東亜研究叢書刊行に就いて」は、東亜における新秩序建設のためには科学的研究が肝要で、それが満鉄調査部の目標だと述べ、次のように記している。

 今回満鉄調査部によって東亜研究叢書の観光が計画せられ実現を見るに至つたことは、誠に其の伝統に相応しく且つ頗る時宜に適した企と謂はねばならぬ。
 即ち本計画は、東亜特に支那に関する学術的な調査研究が、東亜に於ける新秩序建設の為めの欠くべからざる要件なるに鑑み、右の如く調査研究の発展のために必要なる資料中、殊に欧米人の東亜に関する研究(中国学者のそれを含めて)を翻訳刊行せんとするものである。(中略)
 本刊行会は満鉄調査部より東亜に関する基礎的文献の翻訳刊行を委嘱せられて居るのであるが、叙上の見地よりして、本刊行会は一方に於て満鉄調査部と密接なる連絡を保ち、他方に於て斯界の真摯たる研究者と相提携しつつ東亜に関する調査研究に必要なる外国文献の翻訳刊行に当るものであつて、其の根幹の趣旨に於ては東亜に新秩序を建設しつつある我が国東亜研究の向上発展に資せむことを念願する次第である。

そして同刊行会のメンバーたちも紹介されているので、それらももれなく挙げておくことにしよう。顧問は松本烝治博士、庶務幹事は満鉄東京支社調査室主事の中島宗一、社外幹事は平野義太郎、そのブレインとして、水谷国一、齋藤征生、山本駿平、横川次郎、石堂清倫、根本義春の名前が記されている。

石堂の『わが異端の昭和史』(平凡社ライブラリー)を読むと、ブレインの水谷、山本、横川たちは満鉄調査部関係者だとわかるが、「東亜研究叢書」とその刊行会についてはふれられていない。
わが異端の昭和史 上 わが異端の昭和史 下

[関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら