2009年に『週刊ダイヤモンド』(9/5号))が「ニッポンの団地」特集を組んでいた。これが現在まで続く団地をめぐる様々な特集や言説、出版などの先駈けになったように思われる。
1955年に日本住宅公団が設立され、翌年に大阪の金岡団地や千葉の稲毛団地の竣工が始まり、58年には団地族という言葉も生まれた。ダイニングキッチンと六畳、四畳半の二間からなる2DKに、バスと水洗トイレを備えた公団住宅は当時のあこがれの的であり、団地は核家族という特有の生活を生み出し、日本の戦後社会とともに歩んできたのである。
そうした意味をこめて、この特集のリードには「日本人の心の故郷」と謳われているが、すでに団地は半世紀の時を刻み、そこで暮らした人々にとって、ノスタルジーを伴った「故郷」のようなトポスと化しているのだろう。
しかし同時にその「故郷」は都市における「限界集落」的様相を帯びつつある。住民の急速な高齢化と建物の著しい老朽化というふたつの影に覆われ、その行方が問題となっている。この「ニッポンの団地」特集は、東西の二大団地エリアである多摩ニュータウンと千里ニュータウンの現在をレポートし、高齢化と老朽化の問題、それらによるコミュニティの崩壊、建て替えの難航と訴訟などに具体的に言及している。これらを通じて浮かび上がってくるのは、岐路に立つ日本の住宅政策、これからの住宅問題、団地が輝いていた時代の終焉、高度成長と団地との関係などで、団地もまた様々な産業と同様に、誕生と成長から衰退へと向かい、死か再生かの危うい段階に入っていることがはっきりとわかる。そのような団地の歴史と現在が豊富な写真、図版、チャートで示され、コンパクトで要領のよい特集に仕上がっている。
そして「限界集落」化し、死か再生かの岐路に立っている現在の団地の姿は、ちょうど同じような状況の中にある出版業界の姿と重なってくる。またあらためて民間、分譲も含めて500万戸を超える団地の住民こそが、洗濯機、白黒テレビ、電気冷蔵庫の「三種の神器」、カー、カラーテレビ、クーラーの「3C」の普及の主役だったように、戦後の出版物を支える存在だったと認識できるのである。つまり彼らが戦後社会の消費の主役だったことになる。そのように考えてみると、両者がともに「限界集落」化してくるのは偶然ではない。
出版業界の問題に関しては『出版状況クロニクル4』を刊行したばかりなので、ここではこれ以上言及しない。だが団地についての重要な資料としてはまず出版物を挙げるしかない。それらは非売品扱いで刊行され、三冊に及ぶ日本住宅公団史で、団地に関する第一級基礎資料であるだけでなく、日本の戦後社会についての重要な文献となっているからである。それらのタイトルと発行年を記す。
1 『日本住宅公団10年史』 1965年 2 『日本住宅公団20年史』 1975年 3 『日本住宅公団史』 1981年
いずれも大判の大冊で、500ページ弱から600ページ余に及んでいる。この三冊の中に、1955年から80年にかけての団地の歴史、開発と建設、住民と生活などが刻印され、戦後住宅史のひとつのストリームが鮮明に描き出されている。それを1の『日本住宅公団10年史』から見てみる。1は2と3のA4判よりもやや大きい判型で、これだけの大冊は戦後住宅史においても嚆矢だったのではないだろうか。
日本住宅公団総裁の狭間茂はその「序文」で、公団が社会の脚光を浴びつつ住宅政策を推進して10年が経過したと述べ、次のように書いている。
10年の期間は、永劫にわたる国家生命からすれば、ほんのその一部に過ぎません。しかしその間、わが国の経済は極めて高度の成長を遂げ、社会経済事情の変貌、産業構造の転換などにともなって「もっと家を、よりよい家を、より多くの宅地を」といった国民待望の声もますます切実となり、政府の住宅政策は、年とともに拡充され強く推進されつつあるのであります。
この10年間に日本住宅公団は1万ヘクタールの土地を開発し、30万戸の住宅を建設していた。
この序文と公団の成長に呼応するように、谷川俊太郎が四編の詩を寄せ、その最初の詩は「新しい故郷」と題されている。これは谷川の全詩集にも含まれていないかもしれないので、引用しておこう。
荒野を流れていた小川が いつか林の中を流れ 今日は子ども等の学校へ通う 橋の下を流れている
人々がここでも寄りそって つくってゆく新しい故郷 コンクリートの谺
ここに団地という戦後の新しい「コンクリート」の「故郷」が造型されたのである。そして『日本住宅公団10年史』の特色は、巻頭から120ページに及ぶ各地の様々な団地の写真であろう。もちろん他の二冊も口絵写真ページはあるが、20ページに充たない。おそらく生まれつつあった「新しい故郷」を記念する意味で、また可能性としての団地の初源の姿をとどめようとして、このように多くの写真が収録されたと考えられる。実際に住民の高齢化も建物の老朽化の影もなく、開発されたむき出しの土地に団地が立ち並び、また樹木も植えられたばかりのようで、育っていない。これが半世紀前の団地の姿だったのだ。長い写真ページから始まって、日本の住宅と都市をめぐる公団との関係、及びその開発、建設、管理、財務にわたる10年の歴史が詳細に述べられ、2DKなどの設計平面図も百数十例収録され、「新しい故郷」にふさわしい新しい住生活の誕生をリアルに伝えている。
それゆえにこの一冊は、公団のハードの部分と編集のソフトが絶妙のバランスで成立し、まだ瑞々しかった戦後の息吹きを感じさせる生活史のように読むこともできる。
これは日本住宅公団10年史刊行委員会による企画となっているが、谷川俊太郎の詩や団地の写真、斬新なレイアウトから推測できるように、当時の専門の編集スタッフに外注されたものであろう。スタッフとして本城和彦、プロデューサーとして藤田健三、チーフデザイナーとして粟津潔、写真家として二川幸夫、大塚守夫の名前が挙げられている。粟津潔以外の人の名前を知らないが、本城や藤田はどのような人物なのだろうか。だがこれだけはいえるだろう。団地が若かったように、詩人も編集者たちもまだ若く、戦後も成人の年を迎えたばかりだったのだ。
先述したように、2の『日本住宅公団20年史』の口絵写真は1と異なり、ページ数も大幅に縮小され、しかも1にあった団地の誕生のアウラは消滅している。そこに見えているのは創成期の団地ではなく、もはやひとつの住居ゾーンとしての確立された団地の姿であろうし、それは異邦の基地のようだ。高島団地、洋光台団地、男山団地、高蔵寺ニュータウン、多摩ニュータウンなどのハイアングルな俯瞰写真は、それらが高度成長期を通じて開発造成された、まさに郊外のニュータウンであることを告知している。
しかしこれは『〈郊外〉の誕生と死』でも指摘しておいたことだが、高度成長という戦後日本社会の経済成長のために、都市へと否応なく召喚された人々に対して、国家が経済成長のためのサラリーマンの基地として用意した団地が、1970年代になって住居空間としての機能の限界を露出し始めていた。それは1975年刊行の『日本住宅公団20年史』に示された「およそ四・五年」という平均居住年数、及び日本住宅公団の賃貸住宅計画戸数が71年の6万2千戸をピークとして減少し始め、75年に至っては2万5千戸と半分以下になってしまったことに表出している。
その一方で、高度成長期は終焉し、70年代初頭のオイルショック以後、日本社会は急速に消費社会化していった。その過程で、家族と生活様式も変容していくのだが、そうした計画戸数の半減は日本住宅公団が、戦後家族の変容していくイメージを捉えることができなかったことをも意味している。それと同時に60年代後半に至り、来たるべき消費社会のコアを形成する情報産業やレジャー産業と並んで、本連載109 や114 で既述しておいたように、住宅産業が登場してくる。そしてこれも本連載で繰り返し記してきたように、70年代前半にはロードサイドビジネスが広範に開花する。
これらの事実は日本住宅公団の独占ともいえる住居の大量供給システム地と地域開発が、民間企業でも可能な段階に到達したこと、つまり住宅生産の工業化による民間供給システムの完成、及びニュータウン開発の実現を意味していた。またそれは住宅を巡るイメージとして、大工によって家を建てるのではなく、家を買うという時代、そうしたマイホーム時代に入りつつあったことにもなる。
そしてその中心となる団地居住者たちは都市の内側にマイホームを求めることは不可能であるから、団地のさらに外側の郊外へと向かう。かつて都市をめざしたように、今度は郊外へと。東京オリンピックに端を発する道路網の整備、首都高速道路・地下鉄・私鉄の親切や延長、自動車の普及、民間住宅産業の大量生産によるマイホームの出現、それらの時代状況のすべてが郊外に住むことを示唆していたし、かくして郊外は限りなく膨張していったのである。郊外に人口が移動し、マイホームが連なっていくという過程は、田や畑、森や丘陵地などが宅地になっていく風景として現出する。それこそが都市近郊の農村を混住社会化させるものだった。『日本住宅公団20年史』はその背景に、こうした郊外の膨張と都市近郊の農村の混住社会化を織りこんで成立しているといえよう。
団地の物語として、1が誕生、2が成長から衰退を語っているとすれば、3の1981年刊行の『日本住宅公団史』 は何に相当するのか。それは終焉に他ならない。その事実を五代目日本住宅公団総裁の澤田俤の「序」によって語らせよう。まず日本住宅公団が81年9月に閉じられ、新たに注宅・都市整備公団として再出発することが語られ、次のように続いている。
顧れば、戦災の傷あとなお深く、国民が住宅の絶対的不足にあえいでいた昭和30年に公団が発足してから、実に四半世紀の年輪が刻まれるに至りました。団地を故郷とする子供たちも、既に立派な社会人として活躍していることになります。この間、実に100万戸余の住宅を供給し、宅地の開発は施行中を含め、2万6千ヘクタールに及び、住宅団地は1,000を超えるという一体事業体としては世界に類例のない大事業をなしとげました。
往時の公団に課せられた使命は、限られた期間内に、大量の供給を行うことが中心でありましたが、一方公団は、住宅建設及び都市開発のパイオニアとして、創意と工夫をもって新しい住様式と新市街地を次々と開発し、現代の住宅と都市の在るべき姿を具現してきたのであります。
しかしながら昭和40年代後半に至り、激しい変化に伴い、当公団の事業にも、種々の困難な事態が発生したのであります(後略)。
だがこの『日本住宅公団史』の中において、具体的に「種々の困難な事態」が語られているわけではない。このような公的資料にはよくあることなので、それに該当する部分を探すと、「住宅・都市整備公団設立の背景」の章に、次のような一文を見出すに至る。
一方、経済の高度成長期を経た我国の国民所得水準の向上は著しく、これに伴う生活水準の向上は、人々の欲求の面においても、単なる私的消費の充足の域から私的生活の質の充実を実現する方向を強く指向している。中でも、住宅及び都市環境の改善に対する要請は特に強く、量から質へ、そして質自体も、高度化、多様化しつつある。
つまりこれは先述したように、日本住宅公団の団地の大量供給システムが、時代と住民ニーズに合わなくなった事実を告白していることにもなろう。それは地域開発を担う宅地開発公団の機能も同様であり、住宅の供給と都市整備を総合的一体的に実施するために、両者が統合され、住宅・都市整備公団が発足するのである。だがそれはリストラ合併でしかなく、90年代のバブル経済崩壊で公団分譲マンションの含み損を抱え、その処理のために都市基盤整備公団へと衣替えする。そして2004年には特殊法人改革によって、公団の独立行政法人化の方針から、UR(都市再生機構)が発足し、06年には住宅の大量供給を支えてきた住宅建設計画法に代わり、ストック重視の住宅政策の転換を主とする住生活基本法が制定されるに至っている。
しかし日本住宅公団によって戦後の範として示された団地やニュータウンという住居の大量生産、供給システムはそのまま民間の住宅産業に引き継がれ、とりわけ賃貸用の民間アパートとマンションは、これからバブルの清算の時期を迎えようとしている。日本住宅公団そのものは1981年に消滅したが、そこで培養されたシステムは延命し、21世紀のひとつの問題というべき火種を残したことになる。