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古本夜話586 エドモンド・ウィルソン『金髪のプリンセス』

これは戦後の出版になってしまうけれど、いつか書こうと思いながらも、なかなか機会が得られず、二十年以上が過ぎてしまっているので、ここで書いておきたい。それは前回に六興出版部と吉川晋にふれたからで、その一冊は昭和三十六年に吉川の手により、六興出版部から刊行されたエドモンド・ウィルソンの『金髪のプリンセス』である。以後の著者表記は、エドマンドだが、この『金髪のプリンセス』の場合、表紙や奥付ではエドモンド、「訳者あとがき」ではエドマンドと二重表記になっている。表紙と奥付は誤植とも考えられるけれど、当時は双方が通用していたのかもしれない。とりあえず本稿タイトルは表紙に準じておくが、以下はエドマンドとする。

エドマンド・ウィルソンの名前を知ったのは半世紀前の中学時代で、書名は失念してしまったが、創元推理文庫の解説によってだったと思う。そこにウィルソンの「誰がアクロイドを殺そうとかまうものか」という評論があり、アガサ・クリスティなどの探偵小説を否定し、読むに足るのはレイモンド・チャンドラーだけだと書いていることを知った。もちろん当時はウィルソンが何者なのかも知らなかったし、その評論自体が翻訳されているのかどうかもわからず、実際に読むまでには至らなかった。だがその卓抜なタイトルは記憶に残るものだった。

エドマンド・ウィルソンを本当に読み、再認識するようになったのは二十歳を過ぎたあたりで、サブタイトルに「1870年から1930年にいたる文学の研究」が付された『アクセルの城』(土岐恒二訳、筑摩書房、昭和四十七年)に出会ったからである。タイトルに見えるアクセルとは、ヴィリエ・ド・リラダンの散文による長編劇詩『アクセル』(斎藤磯雄訳、『リラダン全集』3所収、東京創元社)の主人公で、十九世紀末の象徴主義のヒーロー的存在といっていい。このタイトルが示すように、同書はアクセルの影響下にあるプルーストやジョイスなどの象徴主義的色彩を批判した一冊だった。とはいっても、こちらも無知な若輩ゆえにどこまで理解したかは心もとないのだが、当時読んでいたフランスの所謂ヌーヴェル・クリティックと称される文芸評論家たちとは異なる堅固な鉱脈にふれたように思った。
リラダン全集

それを補足したのは『アクセルの城』の巻頭に置かれた篠田一士の「エドマンド・ウィルソンのために」で、これは現在読んでみても、周到なウィルソン紹介と批評を兼ねる力作というしかない。篠田の論は「ウィルソンについて、いくらでも書きたいし、また書かねばなるまい」との意志にあふれていた。これを読みながら、「誰がアクロイドを殺そうとかまうものか」を書いたのが、間違いなく同一人物であることに気づいた。

そして『死海写本』(五五年)、『フィンランド停車場まで』(四〇年)、『愛国の血糊』(六二年)などが要約紹介され、篠田は二十世紀の三大批評家として、ヴァレリーベンヤミン、ウィルソンを挙げるに至る。その頃晶文社『ベンヤミン著作集』が出始めていて、読んでいたこともあり、ここまでウィルソンも称揚されているのだから読むしかないと思ったのだが、ウィルソンの翻訳は単行本としては十年前に小説集『金髪のプリンセス』が出されているだけで、しかもずっと古本屋で見つけられなかったのである。それでも鈴木幸夫訳編『殺人芸術』荒地出版社、昭和三十四年)に収録されていた、先の探偵小説論は読むことができた。

ベンヤミン著作集 殺人芸術

また篠田が挙げたウィルソンの代表作の翻訳もしばらく時を待つしかなかったけれど、それらはその著作ごとに、ウィルソンの多彩にして奥行のある考察を浮かび上がらせ、様々な感慨をもたらしてくれた。『死海写本』(桂田重利訳、みすず書房、昭和五十四年)はラスコーの洞窟の発見と本連載560のルナンの『イエス伝』を彷彿とさせた。後の三冊は平成になってからの刊行だった。『イロクォイ族の闘い』(村山裕子訳、思索社)はインディアンが高層鉄骨建設労働者のコアを占めているという事実から、日本のサンカが山地や植民地の地図作成の中心だったという伝説を想起した。
死海写本 イエス伝 イロクォイ族の闘い

『フィンランド駅へ』(岡本正明訳、みすず書房)からはヴィーコから始まり、フランスの空想社会主義者たちを経て、マルクスやエンゲルスに至る社会変革思想の系譜に注視するよりも、レーニンがスイスから封印列車でペトログラードのフィンランド駅に戻るプロセスに、檜山良昭の『スターリン暗殺計画』(徳間書店)をリンクさせてみるという妄想を重ねてしまった。『愛国の血糊』(中村紘一訳、研究社出版)は、そこにフォークナーのヨクナパトーファ・サガの背景と基層が埋めこまれているように思われたのである。それらはウィルソンが篠田のオマージュにふさわしい批評家だと確認させてくれた。
フィンランド駅へ スターリン暗殺計画 愛国の血糊

さてここでようやく『金髪のプリンセス』に戻ることができる。これは橋口稔訳の同タイトルの中編、大久保康雄訳の「エレン・ターヒューン」「スッポンを射った男」というふたつの短編からなる作品集である。これは一九四六年に刊行された中、短編集『ヘカティ郡回想記』から三編を選んで翻訳した一冊ということになり、ここでウィルソンは小説家としても姿を見せていたのである。この際だから篠田に『金髪のプリンセス』も語らせてみよう。

 たとえば、『ヘカティ郡回想記』などという中・短編集では、そもそもディカニーカ近郷夜話』の文体、あるいは小説骨法をちらりちらりと使いながら、あの南ウクライナの黒いユーモアを二十世紀のコネティカットの風光のなかにたくみに再現してみせる。なかんずく「金色の髪の姫君」と題する、みごとというしかない中篇小説は、このゴーゴリ風の下敷のうえに『感情教育』のプロットをそっくりパロディー化し、その離れ業のさなかに、三〇年代のアメリカ知識人の苦悩を実に物憂げな口調で物語り、ときには唱うといった作品である。題名もあのドビュッシーの名品をもじったものだと気がつくときには、もはや読者はこの作品の完全な擒になっているはずである。

ここで篠田は批評にしろ、小説にしろ、ウィルソンがパロディストであること、とりわけ批評の最上のかたちはパロディに尽きるのではないかということを物語っている。私は篠田のように語学に通じていないので、穿ち過ぎのような彼の論への言及は差し控え、ひとつだけ私見をはさんでみたい。

『金髪のプリンセス』が出されてから四年後に、メアリイ・マッカーシイの『グループ』(小笠原豊樹訳、早川書房)が刊行された。これは三〇年代にアメリカの名門校バッサー女子大学を卒業した八人の女性たちのセックスとロマンチシズムの行方を描いた小説である。実はこのメアリイこそが最初の夫と別れ、三八年にウィルソンと再婚している。『金髪のプリンセス』も、美術研究者の「私」と夫のいるヒロインのイモージェンの恋愛をひとつのテーマとしていることからすれば、『グループ』はそれを女性の側から描いた小説と考えることができるかもしれない。
グループ

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