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古本夜話587 矢内原忠雄『南洋群島の研究』

本連載584で、鶴見祐輔が設立した太平洋協会は、彼自身も関係していた太平洋会議や太平洋問題調査会の延長線上にあるのではないかという推測を述べておいた。

また同580において、東亜研究所の「東研叢書」として、米太平洋問題調査会編『太平洋地域の交通』『太平洋地域の人口と土地利用』の二冊が邦訳刊行されていることも既述している。

この二冊に呼応するように、日本の太平洋問題調査会関連書として、矢内原忠雄『南洋群島の研究』が昭和十年に岩波書店から刊行されている。これは確か古書目録で求めたと思うが、先にその状態を記すことから始めてみる。菊判上製五五〇余ページの函が欠けた裸本であることはめずらしくない。しかし見返しと中扉、同じく奥付と見返しの四枚が切り取られていて、これは明らかにかつての架蔵者が古本屋などに放出する際に施した処理だと見なせよう。何のためにそうしたのか。それは矢内原からの宛名入り贈呈本で、削除したことが考えられる。そうだとすれば、通常は表の見返しに署名がなされているのであるから、中扉、奥付と裏の見返しまで切り取ってしまう必要はない。また中扉や奥付のタイトルにしても、背表紙には残されているからである。

それらを考慮すると、宛名から矢内原や太平洋問題調査会との関係を知られたくないこと、もしくは同書にまつわる何らかの私的事柄が書かれていたことが削除処理をした原因のように思われる。それにまた太平洋協会の問題も絡んでいるのではないだろうか。

『南洋群島の研究』は同じく岩波書店の矢内原の『帝国主義下の台湾』(昭和四年)『満洲問題』(同九年)に続く刊行だが、『帝国主義下の台湾』は昭和六十三年に復刊を見ているけれど、他の二冊は復刊されていない。矢内原は『私の歩んできた道』東大出版会、昭和三十三年)で、『南洋群島の研究』について、英語にも翻訳され、今でも「アメリカ人などは唯一の文献だとほめてくれる」と語っている。また川村湊『「大東亜民俗学」の虚実』で、「日本の植民地支配下南洋群島についてもっとも総合的で、社会科学的なアプローチ」と評価している。それでも矢内原の植民地問題としての台湾はともかく、満洲南洋群島はもはや現在において、研究として成立しないのであろうか。

帝国主義下の台湾 私の歩んできた道 「大東亜民俗学」の虚実

そうしたことを念頭に置き、このような削除のある『南洋群島の研究』を読んでみると、その「序文」は次のように書き出されている。

 太平洋問題調査会の共同研究項目の一つに「太平洋に於ける属領並にその住民」といふのがあつて、日本の同調査会は一九三二年五月私に対して委任統治地域南洋群島の研究を委嘱せられた。私は研究の主眼をば、日本の植民政策の下に於て島民の社会的経済的生活の近代化課程が如何に進捗せるかの問題に置き、而して一方に於ては日本人の発展により南洋群島の開発との関係に於て、他方には日本の前任者たる独逸時代との比較に於て、日本の統治の特色を明かにせんと欲した。

これには若干の注釈が必要であろう。第一次大戦後、一九二〇年(大正九年)に国際連盟委任統治委員会において、南方諸島の日本の委任統治地域はその占領下にあった赤道以北、旧ドイツ領南洋諸島に決定した。その二〇年から二六年にかけて、ジュネーブにあって国際連盟事務局次長を務めていたのは、本連載226531新渡戸稲造で、彼は帰国後に太平洋問題調査会理事長に就任している。その新渡戸の植民経済学を継承したのが矢内原で、新渡戸の国際連盟への転出に伴い、その後任として東大経済学部助教授に就任している。また大正九年柳田国男は外務省からの国際連盟委任統治委員会委員の就任要請を受け入れ、ジュネーブへと赴いている。柳田は同十四年に伊波普猷中山太郎折口信夫などと南島談話会を立ち上げるに至る。このような南島をめぐる様々な日本の状況の経過の中で、『南洋群島の研究』は刊行されたと思われる。

ここで『南洋群島の研究』に戻ると、まず折り込みの「南洋群島地図」が出され、太平洋に散在する島群は東部がポリネシア、西部の赤道以南がメラネシア、以北がミクロネシアと総称されるとの説明がなされる。そのうちのミクロネシアに属する島群はマリアナ、カロリン、マーシヤル、ギルバート諸群島に分かれるが、マリアナ群島の最大の島のグアムは米領、ギルバート群島は英領で、これを除いたものが日本の委任統治地域の南洋群島ということになる。それらの自然、沿革、人口、経済などの概括の後、主たる島のトラツク、クサイ、マーシヤル、ポナベ、パラオ、ヤツプなどの貨幣、土地や制度、社会、政治が具体的に言及されていく。そして最後に「付録」として、矢内原自身の「南洋群島旅行日記」「ヤップ島旅行日記」が付け加えられている。

しかし先に引用した「序文」の後に続いている矢内原の記述からすれば、『南洋群島の研究』が彼や川村がいうように、この分野の「唯一の文献」、もしくはオリジナルな「統合的で、社会科学的なアプローチ」とは思えない。そこで矢内原は次のように述べている。文献上の研究の他に、南洋群島の社会的経済的事実や植民生活状態の調査に関して、官庁、学校、病院、教会などに質問書を出したが、地理的に遠く、社会も異なる島民生活の実情を知ることは難しい。政府発行文献は統計的事実の優れた報告ではあるけれど、島民の社会組織については得るところがなく、民族学者の著述は社会組織の報告はあるが、社会科学的研究に欠けているので、島民の社会的経済的意義は明らかではない。つまり矢内原は南洋群島に関するアンケート調査、政府発行文献、民族学者の著作がほとんど役に立たないし、自分の研究の対象とならないといっているのである。

そこで矢内原は巻末に「日記」として収録された南洋群島とヤツプ島へのフィールドワークに赴いたのである。ここからは本人に語らせよう。

 故に私は自ら現地に出張して調査することの必要を感じたのであるが、本務を有するが故に長期間の滞在を為すことは到底不可能であり、やうやく一九三三年の暑中休暇を利用して南洋群島の主要島を一巡し、昨年の夏再び渡航して特にヤツプを視察したのである。しかも第一回旅行は往復二ケ月半の約半分は航海に費され、又第二回旅行は約四十日の中ヤツプ島に滞在し得たのは僅か二週間に過ぎない。かく短期間の視察であるから勿論多くを期待し難きことは始めから解つて居たが、併し乍ら百聞一見に如かずの効果を収めたる事は決して少なくなかつたのである。

双方合わせても、わずか二ヵ月ほどの「南洋群島」フィールドワークであり、しかもその内容は「研究」とも思えない。写真入りの双方で四十ページほどでしかない「南洋群島旅行日記」と「ヤツプ島旅行日記」を読むかぎり、それらはフィールドワークというよりも、各市庁の案内と通訳付きでの巡回視察旅行に近い。それはヤツプ島での「ヤツプの人も勉強すればきっとよい村になります。(中略)みんなも将来に希望をもつて勉強して下さい。今日は之でおしまひ、どうも有難う」という矢内原の発言によく表われている。

それならば、『南洋群島の研究』は何によって成立したのか。それは「参考書」として挙げられた和洋の六十近くに及ぶ南洋群島関連書、論文、資料であり、これらからの換骨奪胎、挿入と引用から編纂された一冊だと見なしてかまわないだろう。それもあって先述した削除が施されたのかもしれない。

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