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古本夜話588 茅原茂と日本評論社前史

本連載581から美作太郎の『戦前戦中を歩む』や石堂清倫の『わが異端の昭和史』などを参照しながら、戦前において社会科学書の重要な出版社だったと見なせる日本評論社に関して、断続的にふれてきた。まだ何冊か、戦前の日本評論社の単行本が残されているので、もう少し続けてみたい。
[f:id:OdaMitsuo:20160911212321j:image:h110] わが異端の昭和史 上 わが異端の昭和史 下

だが既述しているように、残念ながら、日本評論社には社史も全出版目録も刊行されていないので、美作の著書に収録されている「日本評論社前史」などに補足を加えながら、そのプロフィルを提出していきたい。『日本出版百年史年表』や鈴木徹造の『出版人物事典』に示されているように、日本評論社は大正八年に茅原茂によって創業された。『出版人物事典』の「出版社」(取次・書店・団体)創業年(創業者)年表」を見れば一目瞭然だが、大正時代は出版社ルネサンスといっていいほど多くが立ち上げられている。そうしたトレンドが出版社の半分を壊滅させたといわれる関東大震災によって切断されなかったら、昭和出版史もまた異なる道をたどったのではないかと思われるほどである。日本評論社はそのような中をサバイバルしてきたことになる。
[f:id:OdaMitsuo:20160923114148p:image:h110] 出版人物事典

それはともかく、茅原茂は評論家、ジャーナリストの茅原華山の弟だった。華山は『万朝報』の記者を経て、大正二年に雑誌『第三帝国』を創刊し、同五年には同じく『洪水以後』を主宰し、さらには九年に個人雑誌『内観』をも創刊している。このうちの『洪水以後』の第十四号が発売禁止となったことなどから、月刊誌『日本評論』としてリニューアルされ、六年に茂が携わる東京評論社発行の雑誌『東京評論』と合併し、社名を日本評論社と改めた。

ただこの『日本評論』の発行責任は同人組織の東京益進会で、その同人は茅原茂の他に岩野泡鳴、金子洋文、本山荻舟、鈴木利貞だった。つまり茂は華山の評論家やジャーナリスト活動に寄り添うかたちで、出版に関係してきたと見なしていい。美作も「日本評論社の起点」はここにあると思われるが、それらを具体的に知ることは困難だと述べている。そうした事情を伝えるかのように、『日本近代文学大事典』に『日本評論』は立項されているけれど、それらの大正時代の詳細は記されていない。茂の死後の大正十四年に、鈴木利貞によって『経済往来』と誌名が変えられ、昭和十年から再び『日本評論』へと戻されたという記述、戦後に至る歴史のほうに紙幅が割かれ、大正時代のことはほとんど空白のままである。
日本近代文学大事典

だが大正十四年の死まで、茅原茂が六年間にわたって日本評論社を主宰してきたことは事実だし、創立年から十二年にかけて、日本評論社出版部として、書籍出版も手がけ始めている。それらは多方面にわたり、美作が『戦中戦後を読む』の中で、「出版書目あれこれ」としてリストアップしているが、翻訳書の現物はほとんど手にしていないようだ。私にしても、日本評論社出版部の書籍を一冊も入手していない。

それゆえに美作の記述に従うのだが、それらの出版物は徳田秋声や岩野泡鳴などの小説、若山牧水や与謝野晶子の歌集、文学や社会科学の翻訳、さらに経済書、産業心理や経営学書にまで及んでいるという。そして経済書刊行が昭和に入っての日本評論社の主たる経済書出版につながったのではないかとも記している。だがここでは現物を確認することが困難だとされる翻訳書、それも本邦初訳と見なせるものにふれてみる。それらはバートランド・ラッセルの『自由への道』『社会改造の原理』(いずれも松本悟朗訳)、H・G・ウエルズ『世界国家論』(大畑達雄訳)、マックス・スチルネル『唯一者とその所有>(人間篇)』(辻潤訳)、ロマン・ローラン『先駆者』(畑中盛枝訳)、バルビューウ『闘争に赫く光』(青野季吉訳)といった翻訳である。後に』『社会改造の原理』『唯一者とその所有』は春秋社の円本『世界大思想全集』に収録されることになる。
[f:id:OdaMitsuo:20160923175804j:image:h120](『唯一者とその所有』)[f:id:OdaMitsuo:20131025173634j:image:h140](『世界大思想全集』45)

美作は旧制高校時代に県立図書館から、大正八年刊行のラッセルの『社会改造の原理』を借りて読み、強い影響を受けたこと、それに続く改造社の山本実彦によるラッセルの日本訪問にもふれている。このラッセルだけでなく、ウエルズ、スチルネル、ローラン、バルビューウも日本評論社が先駆けて紹介していた。そして美作はこれらの訳者たちが初期の日本評論社と深くつながり、編集や翻訳に協力し、出版企画を方向づけてきたのではないかと推測している。実際に松本悟朗は顧問的な立場にあり、大畑達雄は編集長ともなっていた。彼らについては後にもう一度言及するつもりでいる。

それらのことはともかく、大正十四年に病没した茅原茂の後を受け、合資会社日本評論社の代表社員になったのは、先に挙げた益進会同人の一人の「弱冠」三十二歳の鈴木利貞だった。彼は岩手県出身で一関中学を卒業後、文学を志して上京し、『東京評論』の編集に携わっていた。しかし『出版人物事典』の立項に記されているように、営業部長の位置にもあったことから、その代表社員に選ばれ、社長に就任するに至る。

美作も入社当初は鈴木のことを「営業部上がりの社長、企業志向の出版人である」と考えていたが、「文学者」からスタートし、出版界に向かい、広く雑誌や書籍の編集を学び、出版業を肌身でふれたことによって、「編集者」を経て「出版者」へと変身していった人物だと見なすようになる。その典型が新潮社の佐藤義亮であるけれど、鈴木は岩波書店の岩波茂雄や改造の山本実彦をライヴァルとして、日本評論社と自らの地位を引き上げようとした。それが『日本評論』に代わる大正十四年の『経済往来』の創刊であり、当代アカデミズムを獲得するための企画が、同じく同年の円本『社会経済体系』全二十四巻だったのである。かくして昭和戦前の日本評論社はそのような鈴木のエトスをベースとして、石堂清倫をも巻きこむかたちで展開されていくことになる。なお茅原一族の茅原健が『日本古書通信』などで茅原兄弟と日本評論社探索を続けているが、それらにはふれられなかった。

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